63話 少女と黒い男
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「ベネ、朝よ。」
優しい母の声で、私は目を覚ました。外から零れる日の光と、ピヨピヨと小鳥の囀りが私の朝を彩ってくれる。
「おはよう、お母さん。」
「はい、おはよう。私の可愛いベネ。朝ごはんが出来ているから机にいらっしゃい。」
「はぁい。」
私はお母さんに促されながら、パジャマから外出用の洋服に着替えた。ふと袖を見ると、長袖のはずなのに手首がしっかり見える。この服は九歳の誕生日にプレゼントでもらったものだったけど、一年経ってサイズが合わなくなっていた。
「うぅ、お気に入りだったのになぁ。」
「あら、ベネ。また大きくなったのね。じゃあ、お洋服屋さんに行って同じ柄の服を買ったらいいわ。」
「うん!」
いつものことだ。私が残念に思っていると、お母さんは私を甘やかしてくれる。
今日の朝食は卵焼きがのったパンとミルク。お母さんの前にはいつも通りの固いパンと水しかなくて、「大丈夫?」って聞くと「これだけで十分」と笑った。これもいつもの光景。
私は朝食をぺろりと平らげると、肩にかけられる小さな鞄をもって外に出かけるのだ。
「ベネ、出かけるならいつものお約束をしましょう。」
「わかってるよ、お母さん。」
お母さんは私の小さな体をぎゅっと包むと、普段よりも低い声で囁いた。
「村の外に出てはダメ。外の森にはモルトケカミナが住んでいる。モルトケカミナはとても足が早いから、ベネはあっという間に捕まって、むしゃむしゃ頭から食べられちゃうの。」
「私はモルトケカミナが怖いから。食べられちゃうのは嫌だから。絶対に村から出ないと約束します。」
「いい子ね。」
そう言って、お母さんは私の頭を撫でてくれる。しばらく撫で続けると私を抱きしめていた腕が緩んだ。私としては、お母さんの腕の中でもう少し心地よさを感じていたかったけど。
名残惜しい気持ちはあったけど、扉をくぐって今日も私は外に出かけるのだ。
「じゃあ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい。」
思わずぱっと振り返ったが、お母さんはニコニコして手を振っている。まだ起きたばかりで寝ぼけているのかもしれなくて、私はもう一度手を振って家を後にした。
「おはよう、ベネちゃん。」
「ベネは今日も可愛いなあ。」
「おーい、ベネちゃーん、どこ行くのー?」
「今日も一人でお出かけかい?」
私はこの村も、村の人たちも大好きだ。花屋のおばちゃんも、八百屋のおじちゃんも、生まれたときから一緒の友達も、散歩中のおばあちゃんも。みんなが私に優しくしてくれるから、私もみんなに優しくするの。
もし世界中の人たちがそんな風に優しくしあえたら、喧嘩も争いも生まれずにすむのに。
私はふっと野良猫の姿を見かけて、目で追っているとドンッと大きな何かにぶつかった。
それが何かはわからなかったけど、視界はいきなり真っ暗になった。それが人だと分かったのは、大人の手が私の肩を掴んだから。
「わっ、ごめんなさい!」
「余所見をしながら歩くな。」
ぶつかったのは夜を羽織っているような真っ黒な服の男の人だった。女の人みたいに髪は長くて、女の人みたいに綺麗な顔をしていたけど、声は確かに男の人のように低かった。
男の人はぶっきらぼうに私に注意すると、表情も変えずに歩き去っていった。
「わぁ、ぶつかるまで全然気づかなかった。村の人じゃないと思うんだけど、旅の人なのかな?」
私はちょっと考えたけど、聞いてみようと思った頃には男の人の姿は消え去っていた。
「ああ、気持ち悪い。何なんだこの村は。これじゃあっちの村の方が何百倍もマシだ。どいつもこいつも…。無害で、無欲で、潔白で、従順で、どこまでも善良だ。」
男は一人でブツブツと呟きながら村を出た。
「あの御方の命令だから来てみればとんだ災難だった。茶番劇までの暇つぶしだと思っていたらさらに酷い。こんな不出来な人形劇を見せられるはめになるとは思いもしなかった。」
男は村の外の森を歩き続けた。特に目的があったわけでも、理由があったわけでもなく。ただ好奇心が赴くままに歩を進めた。
自身の後をつけているいくつもの気配を知りながら、男は迷わず森の奥深くへと姿を消すのだった。