58話 伏魔殿
おれたちは七日の旅路を終え、ようやく副都の門を越えた。中に広がっていた景色は王都に近いものはあれど印象は大いに異なった。
王都を上品な貴族の街並みに例えるとしたら副都は商人の活気あふれる街並み。街の構図や建物の造りは大して変わらないはずなのに、色彩豊かな看板や光る装飾のおかげで街全体が派手派手しく着飾っているようだった。
さらにそこから半日かけてたどり着いたのは双魚宮と呼ばれる巨大な館だった。その手前にある鉄格子の扉の前には、鼻の下に白い髭を蓄えた老紳士が美しい姿勢で佇んでいた。
「ようこそおいでくださいました。メタンフォード様、リュート様、ガブリエラ様。そして、お付きの方々。私はこの館の執務長を承った者でございます。これから貴方がたのお世話をさせていただきます故、用がございますれば何なりとお申し付けくださいませ。」
老紳士は腰は低いのに全く卑屈さを感じさせず、流暢な言葉遣いでおれたちを出迎えた。
その後、老紳士に案内されるままに館を練り歩き、例のごとく長い机が置かれた食事部屋や広大な浴場、草花生い茂る庭園を見て回った。
時折、整理が行き届かない場所が目につくと、ガブリエラがソワソワし始めるのがなんとなく面白かった。メイドの血が騒ぐのだろうか。実際に老紳士の目を盗んで手をつけようとして注意されていた。
「こんなだだっ広いところを三人で占有するのはもったいないですね。」
「ああ、だからあの二人がいれば賑やかでいいだろう?」
当初は三人で住む予定だったが、無駄に気が回るメタンフォードは早い段階からエリスとアサヒの二人に声をかけていた。目的の半分以上は馬車の時のようにおれに醜態を晒させて、日常のスパイスにしようとする意図が透けて見える。
「メタンフォード様っ!本当にありがとうございます!」
「ああ、喜んでもらえたのなら何よりだよ、レディ。」
アサヒはお城のような館に住めることにテンションがうなぎ登り。まるで夢見る少女のようにうっとりしていた。それは予想の範囲内だったが、まさかエリスまでうんうんとアサヒに同意を示していたのは意外だった。
彼女はあんまり大きな家とかに興味はないと思っていた。だが、しばらく見ているとどうやらエリスのお気に入りは綺麗な庭園のようだ。
そんなこんなでマイホーム見学は終わり、各自のプライベートルームが割り当てられた。アサヒには無闇にプライベートスペースを侵さないよう釘を指したが、彼女の反応からしてしばらくは警戒が必要そうだ。
結局その日一日は旅路の疲れなんて忘れたように、メタンフォード以外はみんなはしゃいでいた。エリスは庭園で日向ぼっこ、アサヒはメイド服を試着して、ガブリエラはメイドとして働いていた。
おれは崩れた睡眠サイクルを戻すために自室で爆睡し、次に起きたときには翌日の朝になっていた。目が覚めたとき、初めて特務会議に参加する日だと思うと妙に緊張してしまった。
特務会議に出席にする者はこぞって化物揃いであり、つまり魔物の巣窟に足を踏み入れるようなものだ。
「とりあえずお風呂入ろ…。」
おれは体の汚れと心の緊張を洗い流すためにあの大きな浴場に向かう。途中、この館の管理をしているメイドに同伴されそうになったが全力で遠慮した。
浴場は脱衣所すら無駄に広くきらびやか。質素な暮らししかしてこなかったおれは、たぶん脱衣所だけでも十分住める。
そんなことを思いながら、これまた大きな扉を押し開けて中に入った。
ふと目を凝らすと湯気が立ち込める浴場の湯船に、一つの人影があった。なんと早朝にも関わらず先客がいたとは。脱衣所が広すぎて先客に気づかなかった。
だが、これはもしかして世に聞くお風呂ハプニングというやつだろうか。おれは進むべきか引き返すべきか迷った挙げ句、素知らぬふりをして進むことにした。
そして濃い湯気の中から現れたのは…
「やぁ、君も朝風呂かい?」
「ですよね、わかってました。」
メタンフォードがオールバックのように前髪を掻きあげて、半身お湯に浸っていた。
「はっは。君も男だな。見目麗しい女性方でなくて申し訳ないが、ここは僕で我慢してくれ。」
「いや、本当にわかってましたからね!?」
そもそもそういうことなら、男の裸体で我慢できるほどおれの嗜好は寛容ではない。今の結果は九割が期待通り、一割がっかりと言ったところだ。
「そういうことにしておこう。」
しばらく沈黙の中で湯浴みすることになった。シャワーを浴び、広々とした湯船に浸かる。湯船の脇には二匹の魚がウロボロスのように円を描く彫刻が置かれ、その中心となる点からお湯が湧き出ていた、
「リュート、緊張しているかい?」
メタンフォードが突拍子もなく会話を再開したと思ったら湯船から立ち上がった。そして去り際に心強い言葉を残していった。
「だが、安心するといい。何せ君を副官として認めた男はこの国で最優と呼ばれた騎士だ。」
振り向きざまに語る彼の言葉は己を自賛する訳でも、誇らしげに自慢するでもない。ただ事実を伝えるようで、彼の背中はおれに自信を持てと言っていた。
やはりこの男は最優の騎士と評されるだけあって大きな人なのだ。もちろんメタンフォードのあれがお立ち台レベルという意味ではないが…。
長めの朝風呂を終え、支度を整える。既に馬車を回し待機していたガブリエラと共に三人で馬車に乗り込んだ。
「行ってらっしゃい、リュート!」
気に入ったのかアサヒはメイド服を来たまま館の前まで見送りに来た。エリスも一緒で黙って小さな手を振っている。
「行ってきます!」
おれは二人に挨拶を交わし、馬車は出発した。そしてガブリエラが馬車を走らせること数時間、特務部隊の面々が集結している巨城に到着した。
メタンフォードは勝手知ったる他人の家のように迷わず所定の場所に歩みを進めた。行政を担当する文官や副都を警備する騎士隊がすれ違うたびに深々と礼をするので、まるで偉い人になったかのような気分だ。だが、それはそれとして、戸惑いつつペコペコお辞儀を返していると「もっと堂々としていなさい」とガブリエラに注意された。
そして、城の深部。異彩を放つ大きな扉が姿を現した。
「ここですか?」
「ああ、そうだ。」
おれはあまりの荘厳さに生唾を飲み込んだ。それに扉の奥からはメタンフォードに匹敵、もしくは凌駕するほど強大な魔力がうねりをあげて蠢いている。目眩すら起こしそうなほどに濃密な気配がいくつもあり、やはりこの扉の先は伏魔殿なのではないかとすら思えた。
「では、行こうか。」
メタンフォードが豪奢な鉄製のノブに手をかけると、ガチャンと派手な金属音が鳴る。そのまま力強く押し出すと、その伏魔殿の重苦しい扉はギギギギと音を立てながら開き始めた。