54話 終戦
遠目に新たな敵の姿を見た。椅子に座った少年の姿をしたそれは、目の前で暴れる大男やハルティエッタ様や先生が戦っておられるあの冷徹な男なんぞよりよっぽど恐ろしく見えた。
「不肖エメラルダ、もうダメかも…。」
つい今しがた、共闘していた神猿はあの大男に上半身を引きちぎられ、無惨にも大きな肉塊しか残っていない。さらに、あろうことか大男はその体を貪り喰ってさらに力を増幅させている。大男が吐いた息は沸騰した湯から吹き出る水蒸気のようになっていた。
既に疲労は限界に達し、『縛風』は紙切れ同然に破り捨てられる。剣を持つ腕も恐らくはあと一回しか振ることはできないだろう。
イスキューロは未だ戦意を瞳に宿した小うさぎ一匹見つけると、ニィと笑い血管の浮き出た剛腕で止めを刺しにくる。エメラルダはそれを避けようともせず、回避する余力すら最後となる決死の一撃に賭けることにした。
「いいえ。まだです。まだですとも!ボクは全身全霊であなたに一矢報います!」
風を切る轟音。岩石の如き拳の強襲。エメラルダは合気と剣術の合技をもってこれを迎え撃つ。人体の可動域の熟知と予測、さらには針に糸を通すような精密な剣捌きにミリ秒レベルのタイミングを見極める眼力全てをかけ合わせて成せる相討ちの型。
ボクに運があれば、そのときはまた褒めていただけるでしょうか…。
己の死を覚悟した瞬間、心地よい風とともに颯爽と一人の男がイスキューロの前に立ち塞がる。
「その覚悟はいいですが、最期を悟るのはまだ早いですよ、エメラルダ。」
「あ、あなたは…!」
その男は『お立ち台の騎士』と並ぶ最優の騎士。『栄光の十二騎士』の第一席、『剣聖』の名を冠する最強の剣士。その男はエメラルダを庇うように前に立ち、悠然と剣を抜く。
「エメラルダ、よく覚えておきなさい。騎士たる者、主君以外の前で膝を折ることは許されません。ですが…今回はよく持ちこたえましたね。」
「誰だぁてめえ!今度はてめえが相手してくれんのかぁ!ああ!?」
イスキューロは突如現れた剣士に向けて吠える。
「ええ。ここからはこのセルヴェール・アリエーテが不出来な弟子に代わり貴方のお相手をしましょう。」
☆
「あ、ハルっち様もおつにゃーん!」
ライブラと呼ばれる女性は座り込むハル姉の前にしゃがみ、彼女の両頬を二つの掌で挟み込みグリグリしている。
「や、やめへくだはぃぃ。」
「うー、うりうり。相変わらずハルっち様は可愛えのぉ。」
わかる。激しく同意。とか言っている場合ではない。
「カバ?で…グロい…?ビブリオなんだって?」
「ぶふっ、メガわろりん!あんれぇ、結構有名だと思ってたんけど早とちったかあ。」
ライブラはちょっと残念そうに肩を落としながらおれに向き直った。
「うむ、ではではご開帳!勇者を支える十二人の騎士『栄光の十二騎士』。その第七席を賜るのは『魔導図書館』と誉れ高いこのあーしちゃんこと、ララ・ライブラなのである!」
ドドン、と効果音が鳴りそうなほど堂々たる自己紹介。つまり、何とか頭の中で整理すると、今にも歌い出しそうな名前の彼女は前回の選定時に選ばれた騎士の最高峰の一角…ということになる。全くそうは見えないが。
「さらにさらにぃ?この国で唯一の『魔導書使い』なーのです!どやぁ…。」
彼女の顔が完全に「どやぁ」と申しているし、実際に仰ってもいる。
魔導書。古代の文字が刻まれ、写本を作成することで魔法の質が向上したり、原本を読めば新たな魔法を習得できるなど、その逸話は多岐にわたる。だが、今の世では解読不可能な言語が使用され、存在そのものは確認されど、その力を享受できる者はいないとされてきたオーパーツ。
「むぅ、あんまりパネみが伝わってない気がするしぃ!」
ライブラはどこからともなくそれらしい古びた本を取り出すと適当にペラペラめくりだす。
「じゃあ、これ見てみ!」
がばっとページを開いて見せてくるので目を細めると見たこともない記号の羅列が延々と綴られていた。
「何が書かれてるのかさっぱりわからない…。」
「それな!」
「え?あ、はい。…はい?」
「まあまあ、見てなって。あ、特別だかんね!」
そのページを開いたまま「ふむふむ、おけおけ」と言いながら全部に目を通したのか本をパタンと閉じる。そして、未だ蔓延る敵軍に指を向けて叫んだ。
「雷電収束!其は怒り狂う雷撃の使徒、姿顕しその威を示せ。畏怖の光束、燼滅の天撃、『獅子哮雷砲』」
「絶対にそうじゃないと思うんですがああ…!」
ライブラの指先からとんでもないエネルギーが直線状に放出され、おれの渾身のツッコミはその放出音によって上書きされた。そして、そのビームは敵軍を溶かし崩し、風穴を開けた。
それはそうと呪文とは思えないほどヘンテコな言葉は何処から…。だって、途中『なんかよくわからんパワー』とか言ってたし…。まさか魔導書にそんなこと書かれているはずもあるまいし。じゃあ、一体何のために魔導書を取り出したのだろうか。
「どや!見たか!」
「え、あ、はい。何かよくわからないですが凄いです!」
「えっへへ。だしょー。」
などという緊張感の欠片もないやり取りをしていると遠く方から『おい、てめえ!俺っちに当たるとこだったじゃねえか!』などという苦情が飛んできて来ていた。ライブラの耳にはまるで届いていないようだったが。
一連の出来事を見て不利を悟った敵の少年は深いため息をつき、ガルザに呼びかける。
「ふぅ、どうやら時間切れのようだ。彼らの到着が思ったよりも早かったな。まぁ、いい。ガルザ、君の手当ても必要だろうし、イスキューロを回収…は、どうやらできそうにないな。」
少し目を話している隙にイスキューロは一人の男にのされていた。
「へぇ、あれを使っていないとはいえ彼を抑え込める人間がいるとはね。あれが例の?」
「はい。あの男がセルヴェール・アリエーテ…『剣聖』で間違いないでしょう。」
「そうか…。うん、今回は預けておくとしよう。」
「はっ。」
少年とガルザは宙に浮き、戦っている人間に向けて声を響き渡らせる。
「では、人間の皆様。僕達はこれにて撤退させていただきます。皆様には申し訳ありませんが、彼らの後処理を押し付けてしまうことはとても心苦しく思います。」
『彼ら』というのが黒い軍勢を指していることは明らかだった。確かに『栄光の十二騎士』のメンバーと言えども処理しきるのには時間がかかりそうだ。誰も少年とガルザを止められる者はいない。
「待て!逃げるのか!」
おれは思わず叫んでいた。ハル姉を連れ去ろうとした彼らをこのまま野放しにしていいわけがないと、体はとっくに走り出していた。
「あ、ちょっ!」
ライブラの制止をかいくぐり少年目掛けて一直線に跳びかかる…が黒の軍勢がその間に折り重なるようにして襲いかかってくる。聖剣クレイスでも全て斬り捨てることはできず、最後には力押しで地面に向けて弾き返された。
『風の戯れ』
ライブラが慌てて唱えた魔法により地面と衝突する前に緩やかに速度が落ちる。
「もう!無理しすぎっしょ!」
「でも!」
あの二人に向かって手を伸ばすが、やがて黒の軍勢の影に姿を隠し、その場を支配していた重苦しい空気とともにその存在は消え去った。迷惑なことに大軍を残して。
「くそっ…。」
これ以上ないほどの心強い援軍と最大の脅威が去ったせいか緊張の糸は切れ、同時にハル姉との『共存共栄』の能力も切れた。その反動なのかは定かではないが、おれとハル姉の意識はそこで静かに消えていった。