52話 二つの魔法
「え…?ハル姉、嘘…だよね?」
ハル姉の姿はひどく脆いものに見えた。発した声の振動でハル姉が崩壊してしまうのではないかと思うほどに。空気を含んだ声は自分が思っていたよりも震えていた。声に反応したのかハル姉の頭が少しだけ持ち上がる。
『心配はいりません。魔法で無効化しました。』
そんな常人離れした、いかにも勇者らしい返しを願った。そうでなくとも、次の瞬間には何事もなかったかのように剣を鞘に収め、勝利に安堵した顔を見せてほしかった。だが、現実は頑としておれに甘い顔を見せてはくれない。
ハル姉はマリオネットの糸が切れたかのように地面に崩れ落ちる。
「ハル姉!!」
おれは地面に倒れゆくハル姉に飛びつき、なんとか抱きかかえるように滑り込んだ。そこでさらに追い打ちのごとく、悪夢の光景が眼に焼き付いた。剣は確かにハル姉の左胸を貫いていた。幻覚でもなく、ましてや見間違いでもない。鎧の隙間から血が滲み出している。目は虚ろに開き、口の端からも血が滴り落ちる。
「嫌だ…。嫌だ嫌だ嫌だ!ハル姉!死んじゃだめだ!」
おれは半ば錯乱したまま、ハル姉の胸を貫いていた剣を引き抜いた。それと同時に大量の鮮血が顔に飛び散る。顔に張り付いた血は焼けるほど熱かった。
ハル姉をその場に寝かせ出血箇所に手を当てた。胸に空いた穴を塞ぐために魔力を送り込むが、どうやら自己治癒する力が機能していないらしかった。
ならばと無我夢中でハル姉の身体に残る生命力を探ると、それはとんでもない早さで消滅していて、感知した瞬間には既に手が届かなくなっていた。やっと捉えて魔力を変換しても、消滅スピードが遥かに上回った。
底の割れた杯に水を汲み続けるようなもの。ハル姉から命が溢れていく。
「クソッ!なんでだ!これじゃあなんのために…!なあ、頼むよ!おれの命を使ったっていい!どうか、どうかハル姉を助けてください…。」
駄々を捏ねる子どものように泣きじゃくった。命の灯火が消えゆくことだけは知覚しつつ、それでも自分ではどうにもできない悔恨が顔をぐしゃぐしゃにした。
「…ん…」
「…!?」
突然、僅かに青くなったハル姉の唇が震えるように動いた。何かを伝えようとしている。まるで最期の言葉を遺そうとするように。
「嫌だよハル姉!おれ、ハル姉がいないとだめだ!絶対に死んじゃだめだ!だめなんだよ!」
ぐっとハル姉を抱き寄せた。
「泣か…ない…で……りゅ…くん…。」
ハル姉は耳元で確かにそう言った。はっと驚いたときには既に息はなく、何度確認しても心臓は脈を打たなくなった。
やがて、おれは彼女の命を感じられなくなった。
「うぅ…ぅあああああああああ!」
おれは往生際悪く亡骸に魔力を流し続けながら、延々と涙を流した。慟哭は一体どれだけの時間続いたのだろう。
いつの間にかおれの前に何者かが立っていることなど、もはやどうでも良かった。それがハル姉の仇である、あの冷徹な男であったとしても。恨み事を言いながら剣を振り上げている彼の姿にすら、何も感じなかった。
ハル姉を失った今、おれは生きる意味を見い出せない。もういっそのことこのまま殺してほしいと願った。
だからせめて、最期はハル姉を目に焼きつけて死のう。もし生まれ変わるなんてことがあるとしたら、来世でまた会えるように。見つけられるように。
「死ね。」
地獄の底から這い出るような一言の後、剣が空を切る音。おれは恐怖もなく、絶望もなく、ハル姉だけを想い彼女の頬を撫でる。
直後、莫大な力の奔流が全身を襲った。焦がす程の熱が身体を覆う。わざわざ無気力になったおれを殺すためだけに、ここまで念入りに力を込めなくても良いものを。ただその剣で首を跳ねるだけで、いとも容易く消し飛ぶ命だというのに。
そう思っていたのだが、中々意識が消えない。死ぬ間際はスローモーションに感じるというが、これほど長く感じるものなのだろうか。
『リュート。』
耳馴染みのない声がおれを呼んだ気がした。
『顔を上げなさい。リュート。』
まただ。いるはずのない第三者の声。言われたとおりに恐る恐る顔を上げると、そこにガルザの姿はなく彼は数十メートル先で膝を折っている。そんなことよりも…。
「ラ…ビ…?」
いつも肩に垂れ下がっていただけの、うさぎに類した何か。それが今、おれ前で宙に浮いている。温かな光を帯びて。
「何が起こって…。」
死を覚悟してからの事態の急変に戸惑いを隠せない。ガルザが身を引き、ラビが不可思議な力を纏って間に入っている現状を鑑みると…。これではまるで、ラビがおれを守っているようではないか。
「どういうことなんだよ、ラビ…。どうしてもっと早く…なんで今になって…いや、そうじゃない…そうじゃないんだ。」
もしラビが本当にあの窮地からおれを助けてくれたのだとすれば。もしそんな力を持っていたのであれば。そう考えるとどうしても思ってしまう。
どうしてもっと早くに助けてくれなかったのか。
そうすればハル姉も死なずに済んだのに。
なんで今になって助けようとするのか。
だが、それが単なる八つ当たりでしかないことを自分は嫌という程知っている。ハル姉の死を招いた己の無力さを棚に上げて、みっともなくラビに縋ることのなんと醜いこと。
だからせめて…。
「なぁ、ラビ。なんであのまま死なせてくれなかったの…?」
どんな感情で言葉を投げかけたのか、自分自身でも理解できなかった。悲しみなのか、憎しみなのか、怒りなのか、悔しさなのか、諦めなのか…もしくはそれら全ての負の感情を背負っていたのかもしれない。
ただそれら全ての感情の発露として、止めどなく涙が流れていた。ラビはおれの姿を見て、痛々しいものを見るかのように少しだけ目を細めたが、次に感じたのは慈愛の心だった。
『事情はお話できません。ですが、一つだけあなたにお伝えできることがあるのだとすれば…』
音として聞こえているわけではなく、脳に直接語りかけられているような…。ただ、その声は赤子をあやす母親のように優しかった。その声を聞いただけで重苦しい感情が嘘のように洗い流された。
『命を感じなさい。』
そして、最後に発せられたその声はおれに希望を与えた。
命はよく火で例えられることがある。例えば『死』を『命の炎が消える』『命の蝋燭の火が消える』と表現されるなど。であれば、これはなんと表現するのが適切なのだろうか。
おれが腕に抱く女の子。息も無ければ、心臓の鼓動すらないこの身体にはまだほんの僅かだけどそれは残っていた。
そう。言うなれば『命の火種がくすぶっている』。
「でも、どうすれば…!おれではここから回復させることは…」
『いいえ。もうあなたは知っているはずです。大丈夫。落ち着いて。』
その言葉通りにおれの頭にはある概念が刷り込まれた。だが、感覚としては初めから知っていたもののように思えた。浅く短くなっていた息を整え、たった一言、思い浮かんだ言葉をなぞるように口に出した。
「再生」
その言葉と同時に淡い光がハル姉の身体を包み込む。これまでの治癒術とは隔絶した神秘の技が発動されていた。それは紛れもない魔法と呼ぶものだ。
今までの治癒は魔力を身体に宿る生命力、自然治癒力に変換することで傷の修復や疲労の回復を促進させるものでしかなかった。
だがこの魔法はその過程を全てすっ飛ばし、時を遡行するかのごとく傷ついた心臓を治し胸に空いた穴を塞ぐ。割れていた杯そのものを治す行為。肉体の創造とも言える真の魔法だった。
『器は復元されました。あとは彼女次第でしょう。』
「ハル姉、お願いだから戻ってきてくれ!」
再びハル姉の身体を抱き寄せる。ぐったりとする体に必死でしがみついて、喉の締まった声で何度も何度も『お願いだから』と繰り返した。
「苦しい…です…。」
いつの間にか自分を抱き上げしがみついている仮面の男に、困ったようにつぶやくか細い声。おれは、今度は感極まって涙が溢れていた。彼女を抱く腕により一層力が入る。
「良かった。良かった…本当に。」
「あの…ほんとに…苦し…」
「はっ!ご、ごめん。」
本当に苦しそうなハル姉の声を聞いて、慌てて体から引き剥がす。
「どうやら…あなたに助けられた…ようですね…。感謝を。」
「いえ、当然のことをしたまでです。」
恐らくまだ意識は朦朧としているはずのハル姉が謝意を述べた。今更ながら、これまでの行いをリュート・オーファンとしてではなく、リュート・ヒーロとしてのものであることを思い出し内心冷汗でいっぱいになった。
「驚いた。貴様、敵だったとは…いや、成ったというべきか。」
ここに来てガルザがおれたちを睨みつけながらまた揺るぎ立つ。致命傷に近い傷を負っていたにも関わらず、おれがハル姉を蘇生させている間、自前で回復に努めていたらしい。完治とまではいかずとも、再び戦闘を開始できるほどには復活を遂げていた。
「いい加減しつこいな。あ、って、ちょっと待って!」
ガルザへの苦言を無視して、ハル姉が立ち上がろうとする。
「さっきまで死にかけてて、というかほとんど死んでたのになぜにもう立とうとなさいます!?」
「いえ、彼はまだあの通りですので。むしろ、弱っている今トドメを刺さなければ、今後必ず我らの脅威として…」
言わんこっちゃない。言葉の途中でハル姉がバランスを崩し、倒れそうになるのをなんとか支える。
「安静にしててよ!」
「そうはいきません。なんとしてでも私が…。」
「もう、わかったから!それはおれがやる。おれに任せて。」
「ほぇ?任せる、とは…?」
キョトンとした顔でおれの顔、もとい仮面を見つめるハル姉。彼女は己の力でしかガルザにダメージを与えられないと薄々気づいていたのだろう。だから、他の人に任せるなんて考えは思いつかなかったと。だから、お前に何ができるのかと。彼女はそう言いたいのだ。
だが、今のおれにとってはそんなことどうでも良かった。この姉、今『ほぇ?』って言うたぞ。『ほぇ?』って。こんな時に緊張感がないと思われるかもしれないし、そんな場合ではないことは重々承知しているのだがどうか言わせて欲しい。
「えげつな可愛いかよ。」
『な、何をバカなこと…!』などと騒ぐハル姉を地面に座らせ、おれは地面に放り投げられている聖剣を拾い上げる。
「少しだけお借りしますね。」
「な、あなた、その剣を…持てるのですか!?」
驚いた顔もまた可愛い。可愛いと愛しさの暴力でノックアウトされそうになるもなんとか踏みとどまる。こんなとこで倒れるわけにはいくまい。
「その剣、私以外では持ち上げることすら…」
「本来であれば、ね。」
「それはどういう…。」
フォンッと剣に光が灯る。本来、勇者の素質をもつハル姉のみに扱うことを許される聖剣『クレイス』。あのとき持ち上げることが叶わなかった剣は現在おれの手に握られている。おれに勇者たる資格が新たに与えられたというわけではなく、もちろんカラクリはある。
『再生』の魔法とともに頭に挿し込まれたもう一つの魔法。それは他者と自らのあらゆる能力や素質を掛け合わせて共有する固有魔法。魂レベルの合意があって初めて成り立つこの魔法は、ハル姉が『リュート・オーファンは勇者足り得る』と深層心理で信じてくれたからこそ完成した。
「ハルティエッタ様、どうか安静に。今はおれが、あなたの代わりに戦います。それと…」
こっ恥ずかしくて口籠るおれにハル姉から戸惑いの目が向けられる。無意識におれの口角が上がり、微笑んだような表情になってしまったのがわかった。
「信じてくれてありがとう。」
今のおれは彼女の力を借り受け、一時的に聖剣を自在に扱うことができるようになった。それを可能にした魔法の名は…
『共存共栄』