49話 奮起
イスキューロの拳がエリスに届く直前、一陣の風が身体を抜けていくのを感じた。視界の隅で美しい緑が揺らめく。
「はぁぁあ!」
そこに現れたのは細身の身体、新緑の髪。間違いない。エメラルダだ。エメラルダが細い剣一本で怪物の拳を抑え込んだ。
「エメ!」
「遅ればせながら到着です!」
思わぬ援軍に歓喜するが、冷静に考えるとイスキューロの打撃を生身で抑えているこの状況に疑問を感じた。魔力の痕跡から『縛風』が発動していると見ていいだろう。
「はっ、エリスは…!?」
「獣人の少女であればボクの右手側に!少々手荒になってしまいましたが無事なはずです!」
言った通りの方向を見やるとエリスが咳き込みながら地面から起き上がるところだった。
その姿に涙が出るほど安堵を覚えたが今はそれどころではない。『縛風』で怪物のパワーを抑えているとはいえ、いつまでもエメラルダ一人には任せておけない。そう思った矢先。
「なんっ…!?」
今度は間髪入れずイスキューロの顔面に炎の槍が炸裂する。
「この炎は…フラム!」
「チッ。」
舌打ちをするフラムの目線の先。イスキューロは魔法が直撃したにも関わらず、すすで汚れた程度の精悍な顔を見せる。その表情は少し驚いたように目を見開き、次第に眉間にシワが寄る。そして、何かを思い出すように口を開いた。
「おい、てめえ。フラムだと…?」
快活に暴れていた先ほどとは打って変わって、その声は気持ち悪いほど静かだった。その眼光はただ一人、フラムを捉えていた。
「お前が…フラムか…?」
「ふんっ。貴様のような輩に名乗る名などない。」
「クッ、ククッ、クッハハハハハハ!こりゃ傑作だ!まさか、こんな…ククッ、クククク!」
イスキューロは笑い転げそうな勢いで身をかがめ、肩を震わす。その声はしばらく続いたが、やがて声は途切れ、すぅっと息を吸い込む音が音が聞こえた次の瞬間。
「ンガァァァアアア!」
それはまるで獣の咆哮。同時にイスキューロの身に宿る馬鹿げた力が球状に放出され、衝撃波となって辺り一面に拡散した。
衝撃波を受けた瞬間、おれは身体がひしゃげてしまったのかと錯覚するほどの強烈な圧に見舞われた。巨大な岩石でも投げつけられたような衝撃で肺にあった空気は全て吐き切り、内臓をえぐり取られるような痛みが身体を襲う。
おれは風に舞う塵のごとく吹き飛ばされた。目まぐるしく視界が回転し暗転する。それほど長くはないと思うが意識がとんだようだった。
…地面が冷たい。
全身が痛い。
指の一本、持ち上げることができない。
次に意識が戻ったとき、自分が地に伏していることしか理解できなかった。重たいまぶたを何とかして持ち上げ、霞んだ視界に広がる光景はにわかには信じがたいものだった。
「ご…れ…は…」
ひねり出すように、かすれた声が漏れる。おれは意識がはっきりしないまま混乱していた。あたり一面、綺麗に消し飛んでいた。まっさらな更地。先ほどまで高々と周囲を囲んでいた観客席が跡形もなく消え、おれのいる場所はすでに闘技場ではなくなっていた。
だが、おれの意識は状況を理解するよりも前に、再び暗闇に引きずり込まれそうになる。凄まじい吸引力に、もはや抗うという考えすら湧かない。そして、意識が底の見えない深淵に落ちていった。
………。
……。
…。
「立ちなさい。」
声が聞こえる。聞いたことのない声。
「立ちなさい。」
その声は何度も何度もそうやっておれに囁きかける。
「立ちなさい。」
その声は次第に大きくなり、やがて深い暗闇の中に細い細い一筋の光がさした。どうしてかわからないけど、おれは無意識のうちにその光を掴んでいた。
「いつまで傍観を決め込んでいるつもりですか。あなたはまた大事な子を失ってしまいますよ。」
頬を撫でられるような、優しい温もりを感じる。
おれは誰か知らないその声を聞いて、一人の少女の姿を思い浮かべる。
戦いの恐怖で涙を流して、
それでも己を奮い立たせて強くなった少女。
こんな最低なおれでも、
大好きだと言ってくれた少女。
かつて綺麗な目をして、
おれの馬鹿げた夢を信じてくれた少女。
そうだ。彼女を失う訳にはいかない。
立て。おれが守らないと。
おれが守るんだ。
戦いの恐怖から。
怪我の痛みから。
おれが彼女を守るんだ。
胸に灯った奮起の熱が瞬く間に体中を駆け巡る。一筋の光に引かれ、意識が暗闇から一気に引っ張りあげられた。同時にまぶたが持ち上がる。霞んでいた視界は徐々に焦点が合い始め、鮮明な光景が映る頃、視線の先には小柄な猿が立っていた。
『起きたか、童。』
声の出し方を忘れてしまったかのようにうまく声がでない。おれは戸惑いながらも、代わりに首を縦に振る。
「ならば立て。ハルティエッタを守れ。今のあやつには貴様の力が必要だ。」
条件反射的にハル姉がいた場所を見ると、グランとティーユが横たわっていた。どうやら意識はなく、戦闘続行は不可能。ハル姉は無事なようだが、無傷とはいかないようで息絶え絶えにガルザに剣を向けていた。
「ハル姉!今おれが…!」
助けに行くから。そう口にしたかったのに。注意は否応なく周りに向けられてしまう。視線を移すとおれと同じようにエリスとフラムが血を流して倒れている。
この状況でこの場を離れれば、みんなが確実にイスキューロに殺される。
「心配するな。こちらは儂が引き受ける。」
猿がおれの考えを読んだようにそう言うと、突如おれの体を何かが拘束する。よく見るとそれは巨大な手だった。岩のようにゴツゴツとした神獣の手がおれを掴んでいた。
「そ、そんな!みんなを置いて行けるわけ…!」
「心配御無用です!」
その場で一人。凛々しく佇むエスメラルダ。喚いているおれの言葉を制止する。
「先生。あの二人はボクが守ります。」
「でも…エメが危な」
「こう見えてボクは対人戦の方が得意なんです。」
この状況にあって、彼女は穏やかに笑ってみせた。
「ボクの剣は頼りないですか?」
その問いには、有無を言わさぬ凄みがあった。己の剣技に対する絶対の自信。集中力からくる鋭い闘気。おれは彼女の凄みに気圧されるかのように返答をする。
「ずるいな。そう言われたら任せるしかないじゃないか。」
「えへへ。お任せください!どうぞ安心してハルティエッタ様の元へ行ってください。」
エメラルダはふっと気が抜けたような無邪気な笑みを浮かべた。
「話は済んだようだな!というわけで、童!もはや二言はあるまい。しのごの言うでないぞ!」
小猿はじれったそうにそう言うと、おれを掴んだ巨大な分身体が大きく振りかぶる。
「では、ご武運を!」
エメラルダがニコッと笑う。
「え、嘘でしょ!?ちょっ…まさか!投げっ」
投げられた。猿はその長い腕をしならせ、綺麗な弧を描く。首の骨が曲がりそうなほど激しい風圧を顔面で受けながら、おれは巨大な手を離れガルザに向けて一直線に射出された。
風景が猛スピードで横を通り過ぎる中、ふと身体の異変に気づいた。絶対にありえないのだが体はなぜか今日一で調子がいい気がする。今日あれだけのことがあったのに。無意識下で治癒を施したのだろうか。心がハル姉を助けんと奮い立ち、それに連動して力が湧き出るようだ。
自分に何が起こっているのかわからない。だが、もはやそんなことを考えている猶予はなく、ままよと覚悟を決めて上空に浮かぶガルザに突っ込んだ。来たる衝撃に備え、戦槌を構える。
ガルザとの衝突まで3…2…1…
全ての勢いを乗せてフルスイングした戦槌は、おれの接近に気づいて防ごうとしたガルザの剣に衝突。そのまま力まかせに戦槌を振り抜くと、実像を置き去りにガルザを地面に叩きつけた。