40話 不意打ち
反対ブロックではエメラルダが順当に勝ち上がり、今は準決勝を戦っているころだ。観客の声援からして、エメラルダが優勢な様子。彼女のことだ。今更負けることもないだろう。その試合が終わるといよいよ決戦のときだ。
おれは誰もいない待合室で、来たるべき戦いに向けて精神統一をしていた。目を閉じて、脳内でメタンフォードとの戦いを思い描く。
襲い来る土の柱を躱し、割れる地面を飛び越える。
何層にも重なった土の壁を戦鎚で粉砕し、距離を詰める。
後は、簡単だ。メタンフォードの剣を圧し折り、
殴り飛ばし、バックドロップを決める。
脳内シミュレーション?否、ただの妄想である。そんなに都合よくいくとは端から考えていない。それどころか初手すら完遂できるか怪しいところだ。
土の柱はメタンフォードの魔力が続く限り無数に造られる。それを全て躱しきることがどれほど難しいか…。
いや、いけない。こんなところで弱気になっていては到底勝つことなどできないだろう。
黙想を続け、そのうち一種の諦めに至った。悟った、と言うべきかもしれない。
現状では、メタンフォードに対して打つ手は全くない。だから、戦いながら彼の付け入る隙を探す以外に路はない。
そうと決まれば第一に考えることは、どれだけ攻撃を捌ききるか。これはおれにとって原点にして、最も得意な戦術。逃げの一手。戦術と言うには些か不格好だが、そこがなんともおれらしい。
『自分の身も守れない人が一緒にいても迷惑なだけよ』
あの日のハル姉の言葉が蘇る。あの言葉がなければ、選択できなかった戦術だ。
つまりなんだ?これはハル姉から託された戦術ということか!?神託ならぬハル託か?要するにハル姉は女神であり、女神はハル姉ということだ。
「そういうことか。」
分かってはいたことではあるが、なんだかこの世の真理に手が届いてしまった気がする。
「リュート」
ほら、目を閉じれば聞こえてくる。ハル姉がおれを呼ぶ声が。真理に触れたそばから、あれだけ焦がれた声がこれほどまでに鮮明に聞こえてくるとは。
「リュート・ヒーロ」
声がさらに大きく聞こえる。わかっているのだ。これが幻聴であることは。人魚のようなこの透き通った美しい声は、おれが恋い焦がれるばかりに聞こえてくる幻。彼女が今のおれの名前を知る訳がないのだから。
「リュート・ヒーロ!」
「ひ、ひゃい!?」
心臓が爆散しそうになった。驚いて目を開けると待合室の入口に女神が降臨していた。ついに幻覚まで見えるようになってしまったらしい。
「今、何をしていたのですか?」
突然現れた女神は、そうおれに問いかける。
「せ、精神統一を…。次の相手はあのメタンフォードですから。」
「そ、そう。邪魔をして申し訳ありませんでした。」
「邪魔だなんて滅相もございません!貴女のお姿を拝見できただけで誠に幸甚でございます!」
女神はおれの返答を聞くと、目にも留まらぬ速さで身体を百八十度反転した。
「大袈裟ではありませんか!?」
「いえ、これはこの国に住む者にとって共通認識にてございます。誰一人として例外はおりません。」
「誰一人として…?」
「はい、嘘偽りなく。」
「本当に?」
女神は戸惑いながらも、どこか嬉しそうで。おれはその声を聞くだけで気持ちが浮き上がってしまって「はい」と頷いた。
女神はおれに背を向けたまま両手で自分の顔を隠す。こちらには見えていないのだから隠す必要はないと思うのだけど。
少し待つと女神はブンブンと首を振って深呼吸をした。そして改めておれの方に向き直る。その姿もまた神々しい。おれには後光が差して見える。
「おほん。い、今はそんな話をしに来たわけではありません。貴方には一つ尋ねたいことがあって来ました。」
「はい、何なりと。」
「まずその仰々しいの。やめてもらえますか?」
「御意に。」
おれは跪いた。
「そういうのです!」
「はて、女神を前にすればこの行為は決して仰々しいものではななく。子供には優しく、目上の方には敬意をもって接するのは当たり前かと。それと同じでは?」
「同じな訳ないでしょう!第一、私は女神ではありません!」
目の前にいる女神は自分が女神であることを否定した。
確かに冷静になって見ると目の前にいるのは正真正銘のハル姉だった。あれ、でもハル姉は女神だから…。
「結局、女神では?」
「結局!?」
ハル姉の声が見事に裏返る。
「も、もういいです!…では、一つお尋ねします。」
「はい。」
「あなたは一体何者ですか?」
ギクリ、と身体が反応する。完全に意表を突かれた。そして、おれは最悪の考えに至ってしまう。
まさかハル姉はおれの正体に気づき始めているのか?
それとも単なる怪しい仮面の男の身元を確認したいだけなのか?
気づけば、おれの手は自然に仮面を掴んでいた。嫌な汗で少し手が湿る。そして同時に、あらゆる葛藤により心臓の鼓動が耳元で大きく鳴っている。
確かにここで正体を明かしてしまえば、このモヤモヤした感情とはおさらばできるのだろう。そして、昔の過ちを正すことも。
だが、これでもし選定への参加資格を剥奪されたら?ここまでの努力が水泡に帰すことになる。ここまで辿り着かせてもらった皆の好意を踏みにじることになる。
それに、おれは誓ったはずだ。どんな形であれハル姉を支えると。だから絶対に楽になんてなるな。もしかしたら受け入れてくれるかも、なんて一か八かの賭けになんて出るな。何が何でもハル姉の力になるんだろ!
おれは今にも顔から仮面を引き剥がしそうになる手をなんとか制止した。そして、おれは叫ぶのだ。
「おれは…貴女を愛して止まないドM仮面!リュート・ヒーロ!助太刀するためにここまで来ました!」
「すぅ…はぁあ。」
彼女の深呼吸。そして…。
すん。ハル姉の顔から全ての感情が消えた。あぁ、この顔知ってる。ドン引きってやつだ。
「ワカリマシタ。オシエテイタダキ、アリガトウゴザイマシタ。」
ハル姉の言葉がカタコトになる。言葉からも感情が読み取れない。まるでカラクリ人形が喋っているような無機質さだ。おれは無性に泣きたくなってきた。
そして、彼女はくるりと回れ右をして呆然としながら部屋を出ようとする。
「ハル姉ぇ!」
ゴンッ!
呼び止めたが一足遅かった。ハル姉は出入り口を見失い思い切り壁に激突したのだ。
「痛ぁっ!」
え、なに?もしかしてドジっ娘?ハル姉は女神でありながらドジっ娘なのか?なんだそれ、可愛すぎておれ今日死ぬかも。
我に返ったのか、ハル姉がバッと振り返る。
「い、今のは見なかったことにしなさい!」
「仰せのままに。」
おれはこの世で最も尊いものを見て膝を地につけることしかできなかった。
「もうっ!馬鹿にしないで!」
そう吐き捨てると、その勢いのままハル姉は今度こそ控え室を出ていった。おれは彼女が部屋を出るのを確認して仮面を外す。正体がバレるのではないかと顔から嫌な汗が大量に吹き出していた。
「いやぁ、ヒヤッとしたなぁ。」
「ねぇ、ちょっと!さっきの『ハル姉』って…」
「え?」
こんな想定外ある?
どうしたことか、ハル姉はなぜかすぐに戻ってきて扉を開け放ったのだ。程10メートルにしてハル姉と眼が合う。合ってしまう。仮面を着けていない状態で。