ある日 その5
俺の現状の話をしよう。
俺の主君は、メイザーズール辺境伯がお年を召されてから得た娘である、メリナ嬢。御年十四才だ。本日やっと、社交界デビューらしきものを果たした。一応。
ついでに言うなら、上に兄を四人、姉を五人持つ末っ子の彼女を、俺は恥ずかしながら見失ってしまった。
いや…………。
見失っただけならば、どんなにいいだろう。
嫌な予感に動悸がして、心臓が痛い。腹痛が痛い。
豪華絢爛なホールにひしめく貴人達を眺め、目立たないように気を付けながら、青い妖精の姿を探す。
俺から隠れているから見つからなかった? そんな訳ない。彼女の姿さえ目にはいれば、間違いなく見つけられる自信がある。
……もしかしたら、用は済んだからって、もう帰ろうとしていらっしゃるのか?
だから、ここにはいない?
ならばきっと、玄関ホールの方だろう。もしくは、もう勝手に馬車に乗っているかも。
希望的過ぎる考えだが、その可能性は大いにある。
でも多分、少なからず焦っていたのだと思う。
華やかな通路を急ぐあまりに、途中で給仕の誰かとぶつかりかけた。
「ごめん!」
俺らしくない。
慌てて謝ると、向こうも気にした様子なく、頭を下げてくれる。それを尻目に確認して、俺は急いだ。周りの素晴らしい調度品も、見ている余裕なんてない。
今はただ、メリナ様の安否だけが知りたい。
でも。
「やっぱり、いないか……」
馬車で待っていた御者のラルゴと合流しても、メリナ様の姿はない。お前が見失うなんてお嬢やるなァ、なんて茶化してくるラルゴは後で絞める。
というか、気がついたら伸びてた。
まあいい、そんな事どうでもいい。
そんな事よりも、だ。
まずい。本当にヤバい。
「どうしたものか……」
俺の後がどうなるかとか、そんな事はどうでもいい。ただ、メリナ様の事が心配だ。
というか、メリナ様がやらかしてないか心配だ。
仕方がない。この際だ。恥を忍んで、アルハイト卿の邸宅の使用人の情報網に頼るしかないだろう。
やることが決まれば、こうしちゃいられない。誰か……そうだな。出来れば上級使用人を捕まえられれば話は早いし、騒ぎを大きくしない心得もあるから頼りたい。
けど……果たして、パーティーの切り盛りで忙しいこの時に、捕まるだろうか。
「あ、あの!」
どうしたものかと大いに悩んでいたら、ふと、そんな声をかけられた。誰かがこちらにやってきていたのは知っていたが、自分に用があるとは思ってもみなかった。
「はい」
よく見たら、先程の給仕君だ。
このクソ忙しい時に、なんだろうと思いながらも、至って笑顔で向き直る。いや、上手くすれば、彼から上級使用人にこぎつけられるかもしれない。それなら邪険にする必要はないだろう。
話を聞くと、どうやら彼は俺がメリナ様に従事していたのを知っていたらしい。その後に彼女が他の人と歩いていて、俺が慌てて辺りを探しているから、もしかしてと思ったようだ。
いや、うん。その通り過ぎて参った。
っていうか、何で君、そんなに居場所を把握してる? まさか、メリナ様に見惚れてつけ回していたのか?
……まあいい。この際だ。有り難い情報に難癖つけるのは止そう。
「庭園?」
「はい」
彼は神妙に頷いた。
聞くところによると、ここから建物を挟んだ、アルハイト卿自慢のバラ園に、誰かと向かった彼女の姿を見たのだと教えてくれた。
そうか。パーティーに気を取られて全く気がつかなかったが、そういえばそちらへ出られる道はあった気がする。……覚えてないが。
まあ、いいや。
感謝の言葉を丁寧に伝えて、早速そちらに足を運ぶ。
本当ならば走って向かいたいところだが、流石にそれは不躾過ぎる。アルハイト卿にも迷惑かかるし、何よりもメイザズール辺境伯の沽券に関わる。
さっきは走ってた? 気のせいだろう。
メリナ様の従者として、あくまで恥ずかしくないように、優雅に動く。それでいて、迅速に。
それにしても、驚いた。
人混みどころか、賑やかなところを嫌うメリナ様の事なのに、盲点だった。手入れの行き届いた庭園までは、流石に見ていなかった。
まさか、彼女があの一瞬で俺を撒いて、そんなところにまで行っていたなんて、ほんとに驚いた。
いや……。どちらかというと、メリナ様と共にいたという人物が一枚噛んでいる、と言った方がいいだろう。
バラ園は、確かに美しい。ビロードのような花弁は、触れなくてもしっとりしているのが解る。深紅に純白、オールドローズに象牙のような不思議な色合いと、実に様々だ。
丁度時期である事も重なって、もったりとした甘い香りが何処と無くただよっている。
視界を隠す程のバラの数々は、その花の向こうに何か秘密を隠しているのだろうと不安になってくる。
その秘密が、メリナ様に関係する事だと思うと、もう…………不安に胃が痛い。
どうか、どうか。
カミサマが居るなら、心からお願い申し上げる。
どうか、メリナ様をお守りください。
俺が行くまで、何事も起きていませんように。
焦る気持ちに、余計に足が速まる。もうここまで来てしまえば、外聞がとか優雅さがとか言ってる余裕もなかった。
右に、左に。貴人達の秘め事の為に造られたバラ園は、まるで俺を遠ざけようとしてるかのようだ。
迷路のようなこの煩わしい花たちを、全て薙ぎ倒してしまえればどんなに心が軽くなる事だろう。
耳を澄ますと、どこからかは解らないものの、誰か男の声がする。それが余計に焦ってしまう。
直後、囁くような少女の声にハッとした。
聞き間違える、筈がない。
さっきまで邪魔をしていたいバラ達が、途端に道を開けたかのように錯覚する。右に、左に。足早に抜けると、間もなく小さな広場に出た。
広場は、恐らくこのバラ園の中心なのだろう。可愛らしいウッドチェアと、日差しや雨を遮る東屋があった。そこに座っていらっしゃるのは…………。
どきっと、締め付けられるような動悸がした。ああ、心臓に悪い。
いつ見ても、『幻の美しき小人』はこちらがハッとするほど美しさだ。
シミ一つない真っ白な肌は陶器のように滑らかで、遠目から見ても十分愛らしい。プラチナブロンドのウェーブのかかった髪は、青百合の髪飾りを失ってもなお光輝くかのようだ。
華やかな庭園の最奥に大人しく座っている様は、まるで花の精霊か何かじゃなかろうか。
ここは彼女の花の国。棘の向こうに隠されていた彼女の姿は、咲き誇る花々の美しさを具現化してもなお足りないくらいだ。
その景色は、あまりにも神秘的で。
人の手が触れてはいけない禁忌に思う。
まぶしい。それで目が潰れてしまっても、きっと誰もがその光景を拝めた奇跡に歓喜するに違いない。
そしてその、傍らには――――。
その傍らには、誰かと思いきやツィギナ様が、怪訝そうに眉をひそめて、メリナ様を見下ろしていた。
「何故だい? メイザズール辺境伯にとっても、悪い話ではないはずだろう?」
状況は解らないが、その声色は、理解できないと言わんばかりだった。先程まで見えていたはずの彼女のための花の国が、まるで幻みたいに姿を消した。
はっきり言おう。
どこかふわふわとした心地でこの秘密の花園を見ていたはずだと言うのに、いっそ恐ろしくなるほど、頭が冷えた気がした。
「ですが先ほども言ったように、私にはフィアンセがいますから」
淡々と、目も合わせる事なく返すメリナ様が、気に入らなかったのかもしれない。ツィギナ様は、途端に迫るようにして声を荒げた。
「フィアンセと言えど、階級すら持たない一介の騎士だろう?! 君ほどともあろうものが、どちらが得か解らない訳でもあるまい!」
「っ……」
彼女が珍しく、驚いた様子で息をのむから、じっとなんてしていられなかった。
「メリナ様!」
慌てて、彼女に駆け寄る。相手が格上貴族の坊っちゃんだろうがなんだろうが関係なしに、思わず間を割っていた。
咄嗟に剣を抜かなかったのは、自分で自分を誉めたい。しかし、睨み付けてしまっていたのは仕方がないだろう。
「あら、エオノール。早かったわね」
「ご無事ですか」
「ええ。無事も何も、少しツィギナ様とお話していただけよ」
至っていつもの調子の彼女に、思わず脱力してしまう。
あれ、もしかして俺、余計なタイミングでしゃしゃり出た……?
「なんだい? たかが護衛ごときが騒々しい」
内心で焦っていたのに、その物言いにはムッときた。一体誰のせいでこうなったと思っているんだ。
「畏れ多くもツィギナ様。我が使命は、主であるメリナ様をお守りする事にございます」
言外に、あんただろうが害意があるなら容赦しねぇよって言ってやったら、ツィギナ様は今度こそ眉をひそめていた。
間違いなく、不興買った。けど、悔いはない。
「エオノール」
けど。流石に今回ばかりは、俺の行動にメリナ様も看過できなかったらしい。メリナ様は目で俺に退くように告げると、真っ直ぐに彼を見上げていた。
「ツィギナ様」
……あ、うん。座ったままなのね。
彼女に格上相手にどうこうのマナーなんて、関係なかった。
「わたくしの従者のご無礼、誠に申し訳ありません」
わたくしが代わりに謝りますって仰っているが、あくまでメリナ様は座ったままで、彼を見上げている。うん。
そして、いつもの調子で至って淡々と告げるのだった。
「それから折角の申し出ですが、本当にごめんなさい。私、エオノールが大好きなの。彼以外と結婚なんて、絶対に考えられないわ」
「え?」
「え?」
彼女の言葉に固まったのは、ツィギナ様だけじゃなかった。
いや、格上だろうがいつも通り過ぎるだろって、思いはしたけど。
いや、それ以上に………………え?
え?
………………。
っていうか、え?
一瞬、ツィギナ様は表情をものすごく苦々しく崩されていた。けれども、プライドの高い彼の事だから、すぐに表情は優雅な笑顔に変わっていた。……素直にすごい。
「そうか。解った。どうやらお邪魔虫は、私の方のようだ。淑女に無理に迫るような事をして悪かったよ」
それでは失礼しよう、と。慣れた様子で礼を決めて去っていく背中は、どこか哀愁が漂っているのは気のせいか。
ごきげんよう、ツィギナ様。と。澄ました顔で座ったまま仰るメリナ様がほんと恐ろしい。けど、そんな不敬も、今のツィギナ様には聞こえていないみたいで、不謹慎にもホッとしてしまう。
……主人が豪胆だと、従者の精神はすり減ります。ほんとに。
「エオノール」
「っ……はい」
…………っと、いけない。まだ全てが片付いた訳ではなかった。
余所見しているところに不意討ちくらって、思わず息を飲んでしまった。
目の前には、儚い妖精のような可憐な姿。バラ園の美しい花たちも、一帯にただよう甘い香りもやはり、彼女と並ぶと全てが引き立て役に過ぎない。
妖精の秘密を見てしまったような、立ち入ってはいけない神聖な場所に入り込んでしまったような、高揚と背徳感にどきどきする。これが絵画ならば、間違いなく何時間でも見ていられる自信がある。
伏せられたプラチナの睫毛の向こうで、宝石のような翡翠の瞳がわずかに揺らめく。その様子には、庇護欲がそそられる。
……が。間もなく、その瞳と目があってどきりとした。
鈴のようなか細い声で、俺を呼ぶ。これは、何かがくる前触れ。反射のように、背筋を伸ばして身構えていた。
けど。
「悪いけど、手を貸してくれるかしら? 腰が抜けたみたいで、立てないの」
思っていた言葉とは、違った。
というか、言われてからハッとした。
あまりにもいつもと表情が変わらないから、なんて肝の座った方だろうと思っていた。
こんな目にあっても、叫び声一つ上げないなんて、俺の存在意義はあるのだろうかと思っていた。
勝手に。
そう、本当に勝手にも、彼女はいつもの通り、何も気にしてないのだと思っていた。
でも。
でも、そうだ。彼女はこんなにも儚いのだ。怖くない訳なんてない。
「私が触れても、恐ろしくありませんか」
畏れ多くも伺い立てたら、メリナ様は呆れたように溜め息をこぼされた。
「この状況で貴方以外に、一体誰が運んでくれるというの?」
それも、そうだ。
むしろ今の彼女に不用意に触れる者があるなら、多分俺は無意識に斬ってる。
言うまでもない。弱った彼女につけ込むようなろくでなし、生きる価値すらないだろう。
それに、怖い思いをしたメリナ様を、一刻も早くここから連れ出して差し上げたい。
「…………っ、失礼いたします」
断って抱えあげた彼女は、やはり幻の美しき小人の名を欲しいままにするだけあって、とても軽い。それでいて、下手に触れたら割れてしまうガラス人形のように繊細だ。
急ぎ馬車に戻ったら、途中、アルハイト卿が一人ロータリーにて待っていらっしゃった。
どうやら、給仕君づてでアルハイト卿の耳に、事が伝わってしまったらしい。パーティーを台無しにするような事をして、ものすごく申し訳ないと思いつつも、これ以上の滞在が厳しいことを伝えたら、逆に監督不行き届きを丁寧に謝罪されていた。
もちろん、メリナ様がその事で騒ぐ事はあり得ない。しかし、メリナ様は俺の腕から降りることなく、早々に帰る非礼を詫びていた。
…………うん。まあ、言うまでもなく、いつも通りである。
「おい、ラルゴ。いつまで寝てる? 起きろ。馬車出せ」
やっとの思いで馬車に戻った。両手はメリナ様を抱えているから足蹴にしたら、ラルゴは飛び上がっていたから失笑ものだ。
全く、気が抜けすぎだ。
身動き取れないメリナ様を、可能な限り丁寧に座席に下ろす。馬車は、すぐに緩やかに出発した。
癪ではあるが、ラルゴの御す馬車は穏やかで、体調を崩されたメリナ様にも響きはしないだろう。
メリナ様はどこか憂いを帯びた視線を、遠くに見える連山へと向けていた。
その横顔は、いつものビスクドールのような無表情よりも、表情がない。気持ちは解る――――なんて、言える訳がない。
俺に出来る事は、こんな時に限って何もないのかと思い知る。
どれほどこの沈黙が続いただろうか。
ああ、気まずい。
非常に気まずい。
窓の向こうに視線を向けたままのメリナ様の表情は、辺境伯領に入っても、やはり浮かない。やはり、先程の事を気に病まれているのだろう。
「メリナ様」
せめて何か言わなくては。そう思うのだけど、いい言葉が思い付かない。
失敗した。憂鬱な横顔を見たくなくて声をかけたが、咄嗟に真っ白になって焦ってしまう。
「ええと、その。先程はまたすごい思いつきでしたね。一言で相手を撃沈させるとは、流石です」
ははは、と、笑ってしまうが、冷や汗がどばっと背中から沸いた。
気まずいからって、流石にこれはない。焦りすぎて、ろくでもない事を口走ってる自覚はある。
「え?」
流石に、メリナ様もこんなことを言われるとは思ってもいなかったのだろう。窓の向こうからゆるりとこちらに視線を返すと、不思議そうに首を傾げた。
「なんのこと?」
「あ……はは、いえ。私が婚約者云々です」
「私は本気よ?」
「え?」
だが、今度は俺が固まった。
彼女は今、何を言った? ……空耳?
あ、ははは……。さすがに都合が良すぎる空耳だ。
でも、それ以上を話す事は出来なかった。次の時には馬車が緩やかに停車したのを感じて、ハッとした。
動揺を悟られてしまわないように、ラルゴが開けた扉をさっとくぐった。玄関に、見慣れた姿があると気が付いたのは同時だ。
「お帰り、メリナ! 話は聞いてる、無事で良かった!」
とっくに話は伝わっていたのだろう。待ちわびたと言わんばかりのメイザーズール辺境伯が、外聞を気にした様子もなく諸手を上げて駆け寄って来た。
馬車から降りる彼女をエスコートすべく傍に控えていたものの、メイザーズール辺境伯の様子にさっと身を引き後ろに控えた。お年を召されている筈の旦那様は、まるで年を感じさせずにメリナ様を抱え上げて下された。
「ただいま戻りました、パパ。心配なんて、エオノールがいれば平気よ」
「おお、そうだね。エオノール、ご苦労だったな」
「恐縮至極にございます」
結果としてはよかったものの……でも俺は、きちんと護衛を務める事が出来なかった。
そう思うと……思うところがある。何よりも、もう…………メリナ様の護衛ではいられないと思うと、少々、惜しいと思わずにはいられない。
ほんとに、なんて事をしてしまったんだろう。
悔やんでも悔やみきれない。
そんな風に一人、暗鬱に沈んでいた時だ。
「ねえ、パパ。やっぱり前から言ってる通り、周りに婚約者として紹介してしまった方がいいと思うの」
え?
…………え?
流石に俺の都合のいい妄想……っていうか、それ以上の言葉聞こえて来たけど気のせいだよな?!
「そうだな……。すぐには認められないが、近いうちに考えておこうか」
え、うそ? え?
何故に決定事項なの? え?!
「ありがとう、パパ。前向きにお願いね」
「ああ。……そういう訳だ、エオノール」
「え、あ、はい!」
「これからは護衛としてだけでなく、婚約者としてメリナを支えてやっておくれ」
「え……は、い……?」
俺の大混乱なんて、この貴人たちにはお構いなしのようだ。
と。いうか。どういう状況なのだろうか。
「すべては、君次第だ。エオノール、これからも精進しなさい」
「っ、は、はい!」
「ふふ、エオノール。頑張ってね」
いや、そんな事よりも。
「…………え?」
特筆すべきは、普段ほとんど表情を変えることのないメリナ様が、微笑まれたという事だろうか。
ふわり、とメリナ様が微笑んだ様は、まるで連山セトアルマの永久凍土に咲く春呼び草を待ちわびていた太陽のようで。普段変化に乏しい雪山が、少しずつ季節の移り変わりを現していき、ついに一気に花開いたかのようなきらめきに思えた。
刹那、どぐっと心臓が鳴った気がした。
え。なんだ、この胸の動悸は。
俺はまだ、何かの試練を受けてるのだろうか。
というか、何か遅効性の毒でももらっただろうか。
いや、いやいや。
「貴方は違うの? エオノール、私のこと、キライ?」
「え! いえ、まさか、そんな訳が……」
ない。というか。
キライだったら、とっくに騎士団の上司に泣きついている、というか。
いや、そうじゃなくて。
イヤ。じゃ、なくて。
現実逃避は、うん。やめよう。
「メリナ様……その、本気ですか」
「私がウソをついてるっていうの? エオノール。こんなに勇気を出して言ったのに、そんなの、あんまりだわ」
「あっ! やっ! 疑った訳ではなく!」
嘘です。とても疑ってます。
何せ普段は無表情だ。こんな表情も出来るのかと、正直めちゃくちゃ驚いている。
「なんだメリナ。自分で言うって言うから様子見していたのに、まだ言っていなかったのかい?」
「だって、恥ずかしいですから」
呆れた様子で肩を竦めているメイザーズール辺境伯に、全く表情が変わらないビスクドールが、何かとんでもないことを肯定していらっしゃいます。
あれ。俺ってついに、白昼夢でも見てるのかな。
きっとそうだ。俺は疲れているんだろう。そろそろ季節の変わり目であるし、少し休暇を頂いて実家に帰るのも手かもしれない。
朗らかに笑われているメイザーズール辺境伯から隠れるように、メリナ様は手招きした。
耳を貸せ、と、可愛らしい事をされて、なんだか照れ臭い。
「それにね、エオノール。貴方がとなりにいてくれたら私、外に出なくて済むでしょう?」
「え」
え、ちょ。
本音それかよ?!
え! ちょっと、メリナ様?! そんな理由?!
「え、メリナ様……?」
真意が知りたくてまじまじとその姿を見下ろしたら、可愛い顔した天使がくすっと笑った。
「フフッ、冗談よエオノール」
普段動かない人形のような表情は、先程よりも楽しそうな、今日一番の笑みだった。
そして、何か悪いことを思い付いたのか、にこっとレア物の笑みを浮かべてまた手招きする。
レア物の笑みが、ここ数時間で何度と拝めているけれど、これは何か悪い先触れだろうか。二度目は流石に、俺だって警戒する。
だが、恐る恐る耳を傾けたら、ぐいっと強く腕を引かれた。
反射的に身体を強ばらせていたら、背伸びした彼女の顔が近づき――――
ちゅっと、頬に柔らかいものが微かに触れた。
「ね、これでも信じてくれないのかしら?」
「なっ! に……を……?!」
してやられた、って、こういう事だろうか。
ぽかんと、間抜けにも嬉しそうに屋敷に向かっていく背中を見送ってしまった。
もう、立てるのかって事が、残念だなって思って、もて余した手を無意味に握ったり開いたりしていた自分に気がついて焦る。
もっと焦るのは、自分の身に起きたことを理解した途端の事だ。
「え……?!」
「さあ? なにかしら?」
「っ…………!」
なんだろう。可愛らしい婚約者が出来た事は、確かに喜ばしい事なのに。
その。なんというか。
素直に喜べないのは、俺の性根が曲がってるからだろうか。
「メリナ様! お戯れはお止め下さい」
「あら? してやられたからって、八つ当たりはあんまりだわエオノール?」
ふっと、どこか勝ち誇った様子で笑う彼女が小憎たらしい。
心なしか目がしょぼつくのは、真っ白に雪化粧している連山セトアルマが夕日に眩しいせいだろう。
そうだ。そうに違いない。
うん。
でもきっと。
それはそれで、いつもと変わらない、平和なひとときなのかもしれない。
自由気ままなこのご令嬢に振り回されてる俺を、夕陽が笑った気がした。
Ende.
ここまで読んで頂き、ありがとうございました!