ある日 その4
俺がお仕えしている、主君の話をしよう。
俺の主君は、メイザーズール辺境伯がお年を召されてから得た娘である、メリナ嬢。御年十四才だ。
上に兄を四人、姉を五人持つ末っ子の彼女は、只今絶賛パーティー会場内で逃走中だ。
……そう、逃走中。
誰から、なんて聞かないで欲しい。
いや、隠す意味もないか。有り体に言えば、俺から逃げている。泣きたい。
辺境伯領からろくすっぽ出ることもなく、日々緩やかに過ごしていた彼女が漸く迎えた今日この日。この日を一体どれほど望んでいた事だろう。
深窓の御令嬢を決め込んでいた彼女が、メイザーズール辺境伯に丸め込まれたとはいえ、やっと、やっっっっと領地の外に出たというのに!
蝶よ花よと持て囃されて、領地内だけで自由に生きてきた、メイザーズール家の『幻の美しき小人』が、漸く、よぉおおおやく! 人前に出られるようになった、おめでたいこの日だと言うのに!
一体どうしてこうなった?!
――――いけない。今はまだアルハイト卿主催のパーティーの途中だ。大っぴらに騒いでしまっては迷惑になる。
少し冷静になろう。
振り返ってみると、こうなる前触れは確かに存在していた。
旧家の一柱、クーゼレア侯爵の御曹司ツィギナ様を振り切ったのは――――ツィギナ様のメンツ的にもメリナ様の対人スキル的にも全くよくないけど――――まあ、まだ良かった。
何が七めんどくさいかって、彼女の美しさを放っておく朴念人は早々いやしないという事がよく解った。
ツィギナ様がダメならばと、次から次へと彼女の元に人がやって来たのは言うまでもない。仕舞いには、彼女のお眼鏡に叶うのは誰かなんて遊びが影で始まってしまう程度に、『メリナ様とお顔合わせ』は盛り上がってしまった。
その間?
俺は野郎の敵対心には晒されるわ、男性陣をメリナ様に捕られた淑女の皆様方には、男性陣の視線を独り占めするなんて面白くないと言わんばかりの目で見られるわで、散々だった。
メリナ様に賛同する訳ではないが、この時ばかりは俺も辺境伯領に帰りたいと思ったことはない。引きこもり万歳。
そして当然、騒がしかったり注目されたりするのを好まない彼女が、行動を起こさない訳がなかった。
野郎がダメなら、せめて女友達を作ってもらおうと謀った俺を嘲笑うかのように、ふっと煙のように消え失せられた。
いや、煙というか……俺が騙されたと言うべきか。
「エオノール、背が高い貴方が隣にいると、私までとても目立つわ」
そんな一言から、いつも通りの彼女だった。俺の身長は平均より少し高いくらいだが、小人の隣に立てばそりゃ、余計に高くも見えるだろう。
その様に言う訳にもいかず、でも苦笑だけはどうしようもなかった。
「……貴女がその手を離してくだされば、すぐにでも壁際に行きますよ」
俺の正直な言葉に彼女も思う所はあったのだろう。
いつも通りの無表情が、こてんと首を傾げた。
「あら、エオノール。貴方、壁に貼りついて、私のエスコートはどうするつもりなの?」
「エスコートはお守とは違うと思いますが」
「では、警護は?」
「少々離れていようとも、貴女に何かが起こるような事には決してさせませんよ」
「まあ、頼もしい。でもエオノール。貴方、ブーツの紐がほどけているわよ?」
「え?」
そして、この一瞬である。
笑うがいい。この一瞬の事だった。
大事な事だから何度だって言おう。この一瞬で、逃げられた。
俺がほんの一瞬下に気を取られた隙をついて、メリナ様は腕を外すと、すぐそこにあった廊下へするりと離脱した。
いやね、流石に不意を突かれたからって、着飾った令嬢に劣る俺ではない。小走りに廊下を急ぐ背中を、呆れながらも走らないように気を付けて追いかけた。
「メリナ様、おまちください」
声をかけても、無視された。ぱたぱたと、かわいらしい背中が廊下の向こうに曲がる。やれやれだ。
その先もパーティー会場だというのに、彼女はどうしてわざわざ俺を撒こうとするのか。
俺といると目立つからって、俺が居なくともメリナ様は十分目立っているというのに、だ。一応虫よけを兼ねてると言うのに、なんだか悲しい。
でも、彼女がああだと解っているからこそ、それほど慌てる事もなく、彼女の跡を追って曲がった。
拍子に、足元にかさりと何かを蹴った。何だろうと視線を落とすと、彼女を彩っていた青百合が落ちていた。
ああほら、珍しく走ったりするから、花粉どころか花その物を落としてしまっているじゃないか。
「メリナ様――――」
それ以上走っては御髪が乱れます。
そう、続けようと思って顔を上げた。
だが。
「え……?」
先には賑やかなパーティー会場の扉が開けられているだけで、そこにあるはずの主の姿は見られなかった。
「え?」
慌てて他の廊下に目を向ける。しかし彼女の後ろ姿どころか、廊下に人影は限りなくない。唯一、新しいシャンパンを運ぶ女使用人が、通った事くらいだろうか。
いくらなんでも、彼女の姿を見失うにしても、時間的な余裕がないからあり得ない。
どういう事か、理解が追いつきそうになかった。焦りよりも、混乱が先にやってきて考えがまとまらない。
慌てて会場に踏み込んで辺りをぐるりと見まわしてみるが、やはり、彼女の姿はない。
リリパットなんて揶揄しているから見つからない?
そんなことあり得ない。俺が、彼女の姿をどうして見間違えるだろうか。
ちらり、手に握る青百合に目を落とす。
「っ……」
嫌な予感が、胃からひたりとせり上がった。
ただ、俺が見失っただけだろう。
そうであって欲しくて、馬車の元に一度行こうと思った。
会場のざわめきが、短絡思考で思い込みたい俺を笑った。
気が付くと、俺は恥晒しもいいくらいに駆けていた。
嫌な予感には、予感のままで。
ただの取り越し苦労であって欲しい。