ある日 その3
俺がお仕えしている、主君の話をしよう。
俺の主君は、メイザーズール辺境伯がお年を召されてから得た娘である、メリナ嬢。御年十四才だ。
上に兄を四人、姉を五人持つ末っ子の彼女は、本日社交界デビューである。
社交界デビュー。あの、彼女が、だ。
辺境伯領からろくすっぽ出ることもなく、日々緩やかに過ごしていた彼女が。
深窓の御令嬢を決め込んでいた彼女が!
蝶よ花よと持て囃されて、領地内だけで自由に生きてきた、メイザーズール家の『幻の美しき小人』がついに人前に現れた!
見ろ、紳士淑女の誰もが振り返るこの美少女を。きらびやかなドレスに身を包んだご令嬢から遠くの王都で腕を振るい心身共に己を鍛えぬいている威風堂々の騎士までもが振り返る我が主を!
……調子に乗った。
確かにその評価は間違っていないと俺も思う。実際、今まで見てきた娘たちの誰よりも美しい。
シミ一つない真っ白な肌は陶器のように滑らかで、透き通ってみえるほどだ。至ってありふれた玄関アプローチでさえ、まるでシャンデリアに煌々と照らし出されたダンス場のようだ。さしずめ我が主は降り立った主役か彫像の天使のように見えてくるから不思議だ。
プラチナブロンドのウェーブのかかった髪はよく手入れがされていて、本日はその美しい髪を丁寧に編み込んで青い生花に飾られている。
我が主の父君――――メイザーズール辺境伯が治める地ではありふれた花である青百合。本来花粉が散りやすくて髪飾りに向かないその花も、動作の少ない彼女が付ければ、動く反動で形が崩れる事もなく彼女を引き立ててくれる。
すらりとした手足は、下手に触れると壊れてしまうガラス人形のように繊細だ。はっきり言おう。本日の夜会の主催者であるアルハイト卿のご自宅が城のように絢爛なせいもあって、まるで額縁に納められた名高い画家の作品のように錯覚してしまった。
ああ、認めよう。我が主は本当に美しい。ほれぼれする。教会の女神像が実在の人間で表現できるならば、きっと彼女以外にふさわしいものはいないだろうと言っても過言ではない筈だ。
俺の後に続いて屋敷の扉をくぐった彼女の伏目がちな表情は儚げで、翡翠の瞳はシャンデリアのせいか潤んで見える。それがまたぐっとくるのだ。ほら、今フロアの中心で談笑していた上位貴族のご子息様方が、すべからくこちらを見て嘆息している。
どうだ、我が主の美しさは。引き立て役でしかないとはいえ、何だか誇らしいのは気のせいではない。
――――――――――――見た目は。
そう、とても残念なことに見た目は、だ。
「…………エオノール」
――――と、いけない。まだ仕事の内だった。
夜会に到着して早々、アルハイト卿に挨拶を済ませた彼女は、エスコートという名目で護衛の俺を壁際にいさせてくれない。
「何でしょう、メリナ様」
「少しばかり人混みに酔ってしまったみたいなの。夜風に当たりに行きたいと思わない?」
なんで俺から離れようとしないのかと思いきや、これだ。
酔ってしまったなんて言っているが、生憎俺の目は誤魔化せない。ただ単に夜会が面倒くさくなっただけだろう。本来ならば会場にいるすべての貴賓にあいさつをしに回るべきだというのに、もう十分だからと動こうとしないから困ったものだ。こんなところで引きこもりの体力のなさを発揮しないで欲しい。
「メリナ様――――」
呆れてしまったのは仕方がない。どうにかもう少し社交界デビューらしく、同年代の友達のひとりやふたり捕まえて欲しいものだ。そしたら『幻の引きこもり』なんて噂も少しは変わるだろう。
そう思って、自分の立場はさておいてたしなめようとした時だった。
「歓談のところ失礼」
そう言って颯爽と俺らの元にやってきたのは、一人の貴族子息様だった。
「初めて見かけたご令嬢だったものでね、声をかけずにいられなかった無礼をお許しを。私はツィギナ。ツィギナ・フォン=リゲル・クーゼレアと申すもの。以後お見知りおきを」
きれいに一礼した姿を、俺はなんとも間抜けな顔で見てしまっていた事だと思う。
クーゼレア?!
もし他に同じ家名があるとしたら――ある筈がないが――俺の知っているクーゼレア家はたった一つ。旧家の一つであるクーゼレア侯爵に間違いないだろう。
焦っている俺の横でも、彼女は至って彼女のままだった。
「ああ……これは誠に失礼いたしました。アマステラ・メリナ・メイザーズールと申します。本日初めての夜会で不慣れなもので、圧倒されておりましたもので」
……まさかそんな相手から名乗らせてしまうとは、本当に我が主が恐ろしい。いや、ねえ、だってそりゃ、相手は上位貴族様だよ! 普通名乗るのは逆……というか、彼女の怠慢のツケが早速ここに出ているよ!
まあ、しれっとウソをつくくらいだ。その神経の図太さはご覧の通りだ。
「お加減よろしくないようならば、あちらの方で少し座ってはいかがだろう。私が案内しましょう」
にっこりと微笑む姿はきっと何人もの女性を虜にして来たに違いない。真っ白な歯がシャンデリアの光を受けてきらりと輝く。
一瞬の間があったのは、間違いなかった。
「お気遣いいただきありがとうございます。ですがもう、気分はよくなりましたので。彼と踊りに行こうと思っていたところですわ」
しれっと半歩身を引いてドレスの裾を軽く引く。貴族のご令嬢が当たり前にするそれは、去り際にするお辞儀だと記憶しているのだが……今それここでやるのはどうなんだろう。疑問に感じても聞ける訳がなくて冷汗が背中をひとつ伝う。
「おや、そうでしたか。それはよかった。では、よろしければ私と一曲踊っていただけませんか」
人好きする相手の笑みは、頼もしさとさわやかさを相乗させたかと思えるくらいに一目を集めた。現に、どこかで黄色い声と誰かがのぼせて倒れた音が聞こえて来た。
……残念ながら、今の俺には周りに目を向けていられなくて何人が悩殺されたのか数える事が出来なかったのは口惜しい。
だが、我が主の反応が変わる事はなかった。
「あら、ごめんなさい。私……お父様に彼としか踊ってはいけないって厳しく言いつけられているの」
「は?!」
「それでは失礼いたしますね」
それどころか、驚いたのは何もツィギナ様だけではない。俺だって同じ思いだ。
冷静を装って立っていられたのもお嬢様の無茶ぶりに堪えていたお蔭だ。
気の毒なのはツィギナ様の方だ。動揺のあまり、深海を思わせる瞳は渓流のようにせわしなく動いている。周囲を警戒するウサギの耳だってもう少し大人しいくらいだろう。さっきまできっちり後ろに流していたブロンドの髪も、心なしか乱れて見えるから不思議だ。
「っ……彼は一体貴女の何だと言うんだ。私の方が貴女と一番に踊るのにふさわしいと、君もそうは思わないか?!」
「あ、あの……」
さて困った。相手は上位貴族の御曹司。プライドもさぞかし高い事だろう。
俺の立場程度の者じゃきっと彼は話なんて聞きたくないだろうし、むしろどうして自分がこんな爵位の欠片も持っていないやつと話さないといけないのかと思っていてもおかしくない。だって、我が主君が他人と関わりを持たない事が当たり前としてきたように、彼はどんな相手でももてはやされる事が当たり前で生きてきた事だろうから。
そして辺境伯令嬢で社交界デビューしたその日なのだから、手ほどきの一つや二つのついでにつばだってつけたいところなのだろう。爵位こそはぼちぼちと言われても仕方がないが、何せ国境の重鎮だ。目をかけておけば国の安定につながるし、仲良くしておけば損はない。
……させないけど。
そんなことしてみろ、俺の首が飛ぶ。
――――だから必死こいてこの場の妥協策を探していたと言うのに、直後の彼女の台詞に俺の思考は連山セトアルマの彼方へと飛ぶことになる。
「あら、エオノールはわたしと将来を誓った仲なのよ? どうしてフィアンセと一番に踊らずに、貴方と私が踊らなくてはいけないの?」
「え」
「な、に?!」
…………………………。
うん?
え。いつから?
「さ、行きましょうエオノール」
「ちょ……待ちたまえメイザーズール嬢!」
え、ちょ。俺も待ってほしいのだけど。
……当然、彼女が待ってくれるはずもない。俺がエスコートしているかのように見せかけてダンスの輪に加わろうとする彼女は、なかなかの策士だと思うのは俺だけだろうか?
彼女に腕を引かれるから、それに従って歩き出した。ふと背後が気になって振り返ろうとしたが、嫉妬に駆られた男の視線が、一つや二つじゃないことに気が付いて寒気がした。羨望の眼差しは……女性陣から欲しかった。
無意識のうちに、視線は天井へと泳ぐ。
……ああ、腕のいい絵師が書いたのだろう。シャンデリアのきらびやかさにも負けていない、立派な絵がそこには描かれていた。
天井に美しく書かれた天使たちの姿が、今の俺には、いたずらに喜ぶ小僧たちのようにしか見えなかった。
……ああ、なんだかすごく虚脱感が襲って来た。