ある日 その2
俺がお仕えしている、主君の話をしよう。
俺の主君は、メイザーズール辺境伯がお年を召されてから得た娘である、メリナ嬢。御年十四才だ。
上に兄を四人、姉を五人持つ末っ子の彼女は、社交界に出ていても可笑しくない年齢である。だと言うのにも関わらず、辺境伯領からろくすっぽ出ることもなく、日々緩やかに過ごしている。それはさながら、深窓の御令嬢だ。旦那様も年を召しているせいもあって、メリナ嬢には兎に角甘い。
蝶よ花よと持て囃されて、領地内だけで自由に生きてきた彼女を世間は勝手に憶測する。ついた二つ名は、メイザーズール家の『幻の美しき小人』。姿を見せない、幻の美少女として有名だ。
確かにその評価は間違っていないと俺も思う。実際、今まで見てきた娘たちの誰よりも美しい。
シミ一つない真っ白な肌は陶器のように滑らかで、蝋燭に照らされた肌が水面のようにつやつやと輝いて見えるほど瑞々しい。プラチナブロンドのウェーブのかかった髪はよく手入れがされていて、美しい髪を下したままにしている。すらりとした手足は、下手に触れると壊れてしまうガラス人形のように繊細だ。
「夜会……ですか」
そんな彼女がことりと首を傾げれば、耳にかけていた髪がさらりと解けて広がった。はかなげな彼女の横顔を隠して、より一層神秘的に見せるから思わず見惚れる。それもこれも、蝋燭の淡い光がそう見せていると言えよう。
「ああ、お前ももういい年だ。以前から求められていた夜会に、お前もそろそろ出てみた方がいいと思ってな? アルハイト卿にお願いして招待状を送ってもらったよ」
「…………パパがそういうならば、わたしはそれに従います」
ただ、はっきり言おう。『幻の美しき小人』を称するこのご令嬢も、本日ばかりは少々ご機嫌斜めのようだ。
それもそのはず。人前に出る事を好まないこの少女は、何かと理由をつけ身代わりをたて、今の今まで社交界を避けて来たと言うのだから驚きだ。……ふつう、年頃の貴族の娘は自分をいかに飾り立てる事に夢中の筈だというのに、だが、我が主であるメリナ嬢に限ってそれはない。
「エオノール……」
――――と、いけない。まだ仕事の内だった。
一般家庭出身の俺には到底理解できないこの部屋は、旦那様であるメイザーズール辺境伯が最もお気に召している談話室。大きな暖炉は辺境地であるこの地方では欠かせなく、冬ならば薪が爆ぜている事だろう。
壁にかけられた大きなクマの毛皮はその昔、旦那様が狩猟でとらえて毛皮になめしたものらしいが、果たして本当かどうかは知らない。少なくとも俺の知る旦那様は、極寒地を地酒一つで乗り越える大酒飲みの山男であり、今は残念ながら少々おなか回りの緩くなってしまった年寄――――いやいや、とんでもないっ!!
安楽椅子にて穏やかな笑みを浮かべる恰幅のいいご老人に、その娘との団欒の時。その光景だけならば、この上ない平穏な一時。そしておもむろに粛々とこちらに歩み寄り、俺を見上げる麗しの淑女。プラチナの長いまつげに隠された、伏し目がちの翡翠の瞳は神秘的だ。その向こうからこちらを見つめる濡れた瞳は、如何にも庇護欲をそそる。
――――――――が。
「聞いていたでしょう、エオノール。そう言う訳だから、貴方がわたしをエスコートしてくれないかしら」
鈴のようなか細い声で私を呼んだかと思うと、至って淡々と告げられ――――いや待て、前もこれあったぞ!
「………………あ、その。申し訳ありません、メリナ様」
今回ばかりは本気で戸惑ったのは仕方がない。動揺に、思考が追いつくことが出来なかった。
聞き間違えだろうか。そうだ聞き間違いに違いない。
俺が、エスコート?! 一体何の悪い冗談だろうか。
「……メリナ様。確かに私は兵舎の訓練の一環として、基礎的な作法は学んでおります。しかし、貴女をエスコートとなれば、また話は別です」
出来れば身分の釣り合う殿方を見繕って頂くか、それが深層の令嬢に難しいのであれば旦那様にしてもらえばいい。
「あら、作法を学んでるならいいじゃない。わたしは特別学んだ覚えすらないわ? 貴方の方が夜会に出られるのにふさわしいと言えるじゃない」
「いや、それは……」
咄嗟に否定できなかった自分を、この時ほど叱りたいと思ったことはない。せめてもう少し強く否定出来れば彼女の自信を作ってあげられてただろうに――――いや、そもそも自信があるなしの次元の話ではない気がするが――――仕えている身としては落第点の反応だった。
ただ、同時に理解もしてほしい。あくまで俺は彼女を守るための盾で有り矛。それ以外を求められるだなんて、一体誰が予測できたと言うのだろうか。……たじろいでしまったのは、もはや仕方のないことだ。
だが動揺を隠せないでいる俺に、彼女は当然待ってくれない。
「わたしのエスコートがそんなに嫌だって言うの? エオノール」
「いいえ、とんでもありません。この身に余る光栄ですが、私には貴女の護衛と言う何よりも優先すべき任務があります」
「あら、別に夜会ごときで貴方は一体何からわたしを守ると言うの? 野生動物の多いこの地方と違って、アルハイト卿の御住いはここよりもずっと南。豊かな街の片隅に素敵な構えの家を持つお方よ?」
「お言葉ですがメリナ様。ここよりも豊かな街だという事は、野生動物よりも恐れるべきものが多い事になります」
「野生動物よりも怖いもの?」
「ええ。他でもなく、ヒトです」
……この際だ、はっきり言おう。一兵卒を、貴族の嘘と欺瞞と陰謀と貶めあいという、戦場違いの矢面に立たせないで欲しいものだ。
ついでにそんな所でただの雇われ騎士がご令嬢をエスコートなんてしてみろ。好機の目にさらされて、緊張から必ずとんでもない事をやらかしてしまうだろう。
「ヒトが怖いだなんて、エオノール。貴方それでも騎士なの?」
「騎士だからこそ、ヒトの怖さを知っているのです。それに夜会となればたくさんのご令嬢ご子息がお集まりになります。不届きものとてそのようなヒトの集まる場所ならば格好の仕事場所でしょう」
だからこそ護衛が必要なのだと力説すれば、怪訝そうに眉をひそめられただけだった。
「なら、エオノール。やっぱり貴方がエスコートしてくれれば、一番近くで護衛が出来るじゃない」
「っ……それは……!」
殴られたような衝撃とは、この事を言うのだろうか。
これまで護衛と言えば、会場の前や夜会の片隅などで守るのが当たり前だと思っていた俺にとっては思ってもみなかった。どうにかその渦中に飛び込む事だけはしたくないものだと常日頃から思っていたと言うのに、これはなかなかに辛い。反論のしようがない。
兵舎に所属していた頃、教官に問答無用でテーブルマナーを叩き込まれて、間違えればその場で教官を背中に乗せて腕立て伏せをした時より辛い。自分の無知っぷりを明るみにされて、恥ずかしくない訳がない。
苦汁を嘗めた上で表情を動かすな、なんて無茶苦茶言われた時の思いで、俺は懸命に何でもない風を装った。でも、彼女の攻撃は止まらない。目の前のご令嬢は、また頬に手を添えてことりと首を傾げていた。――――マズイ、また来る。
「エオノール、貴方は私の何だったかしら」
伺うようなその表情。思っていたよりもいつもの問いでホッとしつつ、俺はすぐに騎士の礼をとって宣言した。
「俺は貴女の盾であり矛。貴女に害を成すものからこの身を擲ってでも守り、そして排除するためにあります」
「……でも今、わたしの護衛を蹴ったのは貴方以外の何者でもないのよね」
「いっ?!」
「そうでしょう? ねえ、違う?」
…………ああ、もう泣きたい。
事もなさげに告げられて、俺はしばらく、その場から動くことが出来ずにいた。
「エオノール? ちょっと、聞いているの?」
……もう、新しい奉公先でも教官に紹介してもらおうかな。いっそのことワガママぶつけられた方が、まだずっといいって思えてくる。
俺に一体どうしろって言うのか。誰か教えてくれないか。
俺たちのやり取りに旦那様が和やかしそうに見つめているが、正直俺の事を嗤っている気がした。