「あり得ない出来事」
「ありえない出来事」
それは夏も終わりかけた日差しの眩しい午後の事だった。
「こんにちは、お兄ちゃん」
幼さの残る少女のような声と気配を感じた悟は自然と後ろを振り返った。
しかし、誰の姿も見えない。
ただの空耳か、暑さにやられて風の吹き抜ける音が人の声にでも聞こえてしまったのか。
「今日もまだまだ暑いなあ。部屋に着いたらシャワーでも浴びてゆっくりすることにしよう」
そんなことを1人考えながら、帰宅の途に着いているとまた何かが耳の奥に入り込んできた。
「本当は聞こえているんでしょう」
それは夢か錯覚かまたしても先ほどの空耳のようなものが今度は確かに耳元近くで聞こえてきた。
「聞こえると答えればいいのかな。でも、君の姿は見えないんだけど」
「私の声が聞こえるの。本当に聞こえるの」
少女の声はその言葉を確認するように力強くそして涙交じりに悟に聞き返した。
「聞こえるのは聞こえるんだけど、姿が見えないのはどうしてなのかな?」
悟は今自分の身の上に起こっている現状を把握出来ている訳ではなかった。
「それは私がもうすぐ天国に行かなきゃいけないから」
「天国?」
「そう、もうすぐ天国に行くことになっているの。その前にどうしてもお兄ちゃんにお礼を言いたくて最後に逢いに来ちゃった」
「お礼?」
しかし、悟には身に覚えのない事だった。
「君は僕にお礼を言ってくれる為だけに最後に僕に会いに来てくれたという事?」
「うん」
「でも僕は君の声に心当たりがないんだ。多分僕に良く似た人間違い(ひとまちがい)だと思う」
悟はその少女の最後の時間が無くなる前に本当の恩人に逢って欲しいと思い、少し冷たい言い方をしてしまった。
「人間違い(ひとまちがい)じゃないよ。私だよ、悟。思い出せない。この鈴の音を聞いたら思い出してくれるかな」
チィリン・チィリン・ティリン・チィリン
涼しげな風鈴の音にも似た独特の鈴の音には聞き覚えがあった。
「まさか、朋。朋子なのか」
悟の脳裏に遠い日の記憶が蘇る。
「私決めたんだ。大きくなったら悟のお嫁さんになってあげる」
「お、おう。俺も朋を嫁にしてやる」
「二人だけの約束だね」
「二人だけの約束だ」
約束の証としてこの日、悟と朋子はファーストキスをした。
ファーストキスとは言ってもお互いのおでことおでこに優しく口びるで触れた程度の愛しくも淡い思い出だった。
しかし、その後、悟と朋子は会えることはなかった。
朋子はその翌日体調が悪化し、急性骨髄性白血病により、地元にはない大きな病院に入院してしまった。
悟にはその出来事がトラウマになり、明るく活発だった性格が次第に暗く閉じこもりがちにあるようになったが、
周りの家族と友人たちの支えもあり、徐々に元の元気さを取り戻しつつあった。
「あれから4年か」
「悟、覚えていてくれたの」
「忘れるわけないよ。僕の嫁になる約束をした相手だぞ」
「でも、私の声に聞き覚えがないって」
「お前、何か声が掠れてないか。俺の知っている朋の声とは違ったから」
「そうだった。そういうことか。ごめんね、悟。でもこの鈴の事、覚えてくれていたんだね」
「まだ小学生だったからなあ。こづかい叩いてもあの鈴を買うのが精一杯だった。お前がすごく気に入っていたから本当は朋の誕生日に渡そうと思っていたんだけどな」
「うん。それ知ってた。悟は分かりやすいからね」
「この鈴の音を聞きながら、私、しんどかった治療、最後まで頑張ったんだよ」
「そうか。見舞いに行けなくてごめんな。あの鈴を渡すのが精一杯だったんだ」
「ううん。この音を聞くたびに悟が近くにいるって感じられて私最後まで精一杯生きることが出来た。ありがとう」
チィリン・チィリン・チィリン・チィリン
悟は自分の部屋のベッドで形見の鈴を握り締めながら、穏やかな顔をして眠っていた。
(終)




