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呼び出し

 試験が終わった。


 結衣が大きくため息をついて机に突っ伏している。

 背中しか見えないが、表情はいつもの石のような表情だろう。


「結衣、今日の花火七時からだから」


 前の席の美月が後ろを向いて話し掛けている。


「私、九時頃抜けるけどいい?」


「何? 用事?」


「うん」


 決して用事の内容は口にしない。それは分かっている。結衣の習性だ。


「私、一度、家に帰ってから行くから」


 美月が言ったところで香奈がやって来た。


「私の食料調達しといてくれる?」


「了解。でも七時過ぎたら先に始めてるよ?」


「分かった。ダッシュで行く。結衣は部活?」


「今日はないから。私も一度家に帰る」


 そんなやりとりを遠くから眺めていると、海渡が近づいてきた。


「おまえは今日の花火、どうすんだ? 結構皆、来るらしいけど」


 肩をすくめてみせると海渡は軽く頷いて行ってしまう。部活が始まるのだろう。


 教室から一人、また一人と姿を消す。

 花火までカラオケで遊ぶ者。部活へ行く者。家に帰る者。それぞれだ。


 日差しが斜めに差し込む。気付けばもう、誰もいない。


 今日で終わる。苦しい思いは今日で終わりだ。

 海渡が結衣を見る度に感じる切ない感情も、腹の底から湧き上がる熱も何もかも。

 立ち上がろうとして全身が震えている事に気付いた。

 興奮と緊張。不思議と恐怖は感じなかった。ただ嬉しい。笑いが込み上げてくる程嬉しい。

 開放される。そして新しい生活が始まるのだ。

 こんなに喜ばしい事は他にない。


「待ってて海渡」


 呟くと、より現実として未来が近づいて来る。


「待っててね。すぐ、二人で花火が出来るから」


 もう、邪魔はさせない。

 唇の上に薄い笑い吐いて立ち上がる。


 準備をして約束の場所に行こう。

 待たせては結衣に失礼だ。早く行って何と声を掛けようか。「遅かったね」?

 いや、結衣が遅れる事はないだろう。あれは中々、几帳面なところがある。「ごめんね、こんな時間に呼び出して」。ありふれているが、これがいいだろう。きっと、あの石のような表情でこちらをまっすぐに見返すだろう。背筋がぞくぞくする。何も考えずに来るはずだ。これから何が起こるか知りもしないで。

 血に染まったあの顔を想像するだけで大声で笑い出したくなる。愉快だ。誰とも共有できないのが残念で仕方ない。

 落ち着く為に深呼吸を繰り返した。

 そしてようやく、教室を後にした。


 予想通り、結衣は約束の時間五分前にやって来た。


「ごめんね、呼び出して」


 声を掛けると、何を考えている分からない目でこちらを見る。


「話って?」


 言葉数が少ないのはいつものことだ。


「座って話したいんだけど」


「いいよ」


 結衣は頷くと先に立って歩き出した。ボブカットの下に見える白い首筋。

 あれを、切るのだ。

 ポケットの中で手を硬く握る。カッターナイフだ。絵を切る為に買った時に色違いを買っておいた。


「あのチェーンメール、あんたが作って回したんでしょ」


 唐突に、結衣が言った。振り返らない。思わず、足を止める。

 それに気付いた結衣も立ち止まった。だが、こちらを見ようとはしなかった。


「それから私の絵を裂いて芥子の花を飾ったのも」


「どうしてそんなこと」


「うちのベランダの花、折ったのもそう。絵に刺さってるの見て分かった。私が咲かせた花。帰ったらプランターとか全部ひっくり返ってた」


「そんなこと、してないよ」


「あの芥子の花の伝説、あんたは自分で考えたと思ってるかもしれないけど、あれは私達が作った話。幼稚園の時、お遊戯サボって考えた三人の話。芥子は私が一番好きな花だった」


 そう、芥子が好きなのは知っていた。だから芥子を選んだ。毎年、結衣がベランダで咲かせているのを知っていたから。だが、あの話を三人で作った事は覚えていない。そんなことは記憶にない。


「思い違いじゃない? あんな話、覚えてないよ」


「私しか覚えてないんじゃ、仕方ないよね」


 結衣が顔を上げた。昇り始めた月と、公園の外灯に照らされて、結衣の顔が青白く浮かび上がる。

 立っているだけで汗ばむ程暑いのに、結衣はそんな素振りは全く見せなかった。


「あのチェーンメール、一番最初に受け取ったのは三年二組の高木先輩。死んだ彩子さんのクラスメイトだった。でも送ったのは高木先輩の中学校の同級生で、私立西城学園の宮城って人」


 指先が冷たくなってきた。結衣は無表情のままで言葉を続けた。


「宮城さん、あんたのお姉さんの親友でしょ?」


「知ってるの?」


「あんたのお姉さんに聞いた。あんたのこと、疑いたくなかったから」


 結衣がこちらを見る目は夜の闇よりもまだ暗い。


「ねえ、さっきからまるで探偵みたいだよ? こっちのこと犯人みたいに」


「あんただよ」


 結衣は遮って言った。

 こちらに一歩踏み出す。公園内には他に誰もいない。

 昔、首吊りが出たとかで、夜になると誰も近寄りたがらない公園だ。だからここを選んだ。


「なんで、こんなことするの?」


 結衣はもう確信している。ならば、やるしかない。


 カッターナイフの刃を出すと、そのまま結衣に近付いた。ポケットから手を出すと結衣が息を飲むのが分かった。

 首目掛けて切り掛かる。結衣が一瞬泣きそうな表情を浮かべた。途端に何か聞こえた。そして視界が真っ暗になった。


「西嶋! 大丈夫か?」


 海渡の声だ。頭にがんがん響く。目をゆっくり開けると月が見えた。


「洋! おまえ何やってんだ!」


 シャツの襟を掴まれ、頭を揺さぶられる。


「西嶋! おい!」


 耳元で響く海渡の声。

 だが、海渡はこちらを見ていない。

 こんなに近くにいるのに、その目線の先にいるのは自分ではなく、結衣なのだ。


 いっそのこと、何もかも終わってしまえばいい。


 ナイフを振り上げる。海渡に向かって突き立てようとした。海渡が目を閉じる。


「やめなよ。もう、いいよ」


 手を包み込む、冷たい熱。カッターナイフを取り上げるとその熱は洋の手を包んだまま隣に座り込んだ。


「洋ちゃん、ごめんね。生きててごめん」


 洋は結衣の手を振りほどくとその首に手を掛ける。結衣は抵抗しなかった。力を込めると、顔を衝撃が襲う。

 また、月が見えた。満月だった。


「馬鹿か! おまえらは」


 荒い息をついているのは海渡だ。自分は彼に殴られたのだ。頬が痺れたように熱く、倒れた時に打った頭が痛い。


「馬鹿か、おまえらは」


 もう一度、海渡が呟く。


「西嶋、こいつと何があった?」


「何もないよ」


 興奮している海渡とは逆に、結衣の口調は静かだった。言葉のない海渡に畳み掛けるように結衣は口を開く。


「何もない。何もないけど、浜崎君は人を殺したいと思ったことないの?」


「あるわけないだろ、そんなこと」


「私はあるよ。嫌いな人とか、邪魔な人とか、いつも殺したかった」


 外灯の光と遠くの月。その下に淡々と結衣の声が流れていた。

 今日の結衣はとても饒舌だ。もしかしたら、結衣は結衣なりに、興奮しているのかもしれない。

 そんなことを思った。


「あんたが私の事嫌ってるのはすぐ分かった。先週当たりから。洋ちゃんとはずっと、一緒にいたから」


 洋が起き上がると、結衣がこちらを見ていた。

 何もかも見透かすような目。何の感情も宿していないように見える虚ろな目。


「頭、大丈夫?」


 尋ねたのは結衣だった。海渡はやはり、こちらを見ようともしない。


「気持ち悪かったりしない?」


「大丈夫だよ」


 口の中に鉄の味が広がっているが、そう言うと結衣が少しだけ笑みを浮かべた。

 その笑みが胸に突き刺さって鋭い痛みが走る。息が止まるかと思った。


「ごめんね、洋ちゃん。私、やっぱり、もう少し生きたい」


 何故、謝るのか分からない。それよりも苦しくて、洋は胸を押さえた。


「ごめんね」


 呟くと、結衣は立ち上がった。首筋に自分の指の跡がついているのが見えた。そのまま振り返らずに歩いて行く。


「行けば?」


 傍に膝を着いている海渡に言う。今、顔は見たくない。


「ごめんな、洋」


 海渡まで謝る。その必要はどこにもないのに。


「なんで謝るの?」


「おまえの事、傷付けた」


 確かに、傷付けられた。

 口の中は切れているし、頬も痛い。

 だが、それ以上に息苦しく悲しい。

 海渡に振られた日のあの痛みよりも苦しいと思う。

 一生忘れない痛みとして心に刻んだはずの痛みを、思い出せないのは何故だろう。

 今、とても苦しいのは何故だろう。気を緩めれば口から何かが出て行きそうで、唇を噛んだ。


「もう、馬鹿な事、すんなよな」


 海渡が立ち上がる。別れの言葉を言わないのは何故だろうか。結衣も言わなかった。海渡も、言わない。

 言ってくれれば楽なのに。憎しみを抱けるのに。


「気が向いたら来いよ、花火」


 海渡はこちらを見ずに言うと、公園を出て行った。走って行く足音が遠ざかる。


 花火?


 行けるはずがない。こんなことまでした自分を、誰が受け入れるのだろう。

 カッターナイフが落ちていた。

 手に取る。まだ温かいのは、長い時間握り締めていたせいだ。

 唇が震えている。歯がかちかちと音を鳴らした。震える息が唇から漏れた。

 急に涙が出た。

 リーンと鈴虫が鳴いた。

 震えながら息を吸うと、喉から小さな悲鳴が上がった。

 それから、洋は大声を上げて泣いた。

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