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「ごめん、必ず全部話すから」


 結衣が言った後、中野 美月が沈黙した。

 海渡はやっと書き写し終わった結衣のノートを閉じる。


 何の変哲もない大学ノート。どうしてルーズリーフにしないのかと結衣に訊くと「バラバラになるから」と返ってきた。

 初めてノートを借りた時だ。

 古典は濃紺の表紙。数学はピンク。現代文はオレンジだった。くすんだ紺色はどことなく温かみのある色だ。

 触ると少しざらざらしている。このシリーズのノートが多いから、こういうのが結衣の趣味なのかもしれない。

 海渡はノートの表紙を一度なでると立ち上がった。


「西嶋」


 呼ぶと切れ長の目がこちらを見る。


「遅くなって悪かったな」


 頷く時に少し翳る目。暗いという奴も多いが、それ以上に何か考えているような深い印象にどきりとする事の方が多い。


「西嶋、おまえ本当に顔色悪いぞ。大丈夫か?」


 人形のように整った造りの顔。結衣が目を上げて海渡を見た。


「うん、大丈夫」


 黒目が大きい。大人びた雰囲気なのに、そこだけは幼さが残る。青白い顔色にうるんだ瞳。熱でもあるのかもしれない。


「ごめん、桜! いるの気付かなかった!」


 美月の大きな声に海渡は慌てて身を引いた。

 一瞬、美月の存在すら忘れていた。

 長い時間、間近で顔を覗き込んでいたような気がするが、結衣はどう思っただろうか。嫌がっている印象は受けなかったが。


「西嶋?」


 思わず声を掛ける。結衣が頭を抱えて震えていた。顔色は青白いを通り越して土色に近い。


「おい、大丈夫か?」


 言葉の無力さ、己の無力さ。抱きかかえてでも保健室に連れて行くべきだろうか。


「結衣?」


 美月が声を掛ける。結衣は黙って立ち上がると机の脇にかけてあった鞄を胸に押し抱く。


「ごめん、私、用事あるから」


 誰にともなく呟いて、結衣は足早に教室を出て行く。

 机の上には古典のノート。明日一時限目からテストの科目だ。海渡はノートを取り上げる。


「西嶋!」


 呼びながら廊下へ出る。もう姿が見えない。階段を降りたのだろうか。駆け下りて下足室へ向かう。

 誰もいない。耳を澄ませるが足音一つしなかった。

 ふと思い付いて、結衣の下足箱を開けてみる。

 黒の革靴がある。まだ帰っていないらしい。だが、どこへ行ったか見当が付かない。


 諦めてノートを靴の上に乗せた。帰りには気付くだろう。閉めかけて手を止める。

 胸ポケットに入れっぱなしだったシャープペンを出すと今日の授業のページに自分のメアドと携帯番号を書き、浜崎とサインしておく。

 気付いたのは自分だと示したかった。放っておいても美月が持っていっただろうが、誰よりも早く気付いた事に気付いて欲しい。浅はかだと思われるかもしれない。それでもいい。とにかく気付いて欲しい。


 教室へ自分の鞄を取りに、薄暗い廊下を歩く。

 夏でもこの廊下は涼しい。肌寒いぐらいだ。自分の上履きの音しか聞こえない。

 テスト前だから皆帰っているのだろう。物音も話し声もしない。

 部活も前日は禁止されているので校内に残っている生徒はほとんどいない。

 もしかしたら校舎内にいるのは美月や自分ぐらいかもしれない。


 二階の渡り廊下の窓を何気なく見上げて、そこに結衣の姿を見つける。思わず走り出していた。


「西嶋!」


 職員室の前に立っていた結衣は肩を波打たせてこちらを見る。怯えた瞳。クラス名簿を抱きしめて緊張した顔でこちらを見ている。


「ごめん。驚かせるつもりは」


 結衣は息を吐き出すと、首を横に振って視線を落とす。


「ノート、下足箱に入れといたから」


「ありがとう」


 結衣はこちらを見ずに名簿を置き場に戻した。


「なかっただろ?」


 尋ねると、結衣の大きな目がこちらを見る。だが、口を開こうとはしなかった。


「あんま、深く考えんなよ」


 結衣はこちらを見たまま、瞬き一つしなかった。気まずい沈黙が流れる。


「西嶋?」


 居心地が悪くなって声を掛けると、結衣は一回だけ目を閉じた。瞬きよりも長く、考え込むより短い時間、目を閉じて、結衣がもう一度海渡を見る。


「ありがとう」


 今度は少し大きな声だった。結衣は海渡から目を逸らした。そのまま海渡の脇を抜けて歩いて行く。

 一度も笑わなかった。


 愛想が悪いのもそうだが、こんなに笑わなくなったのはいつからだろう。四月はまだもう少し話しやすかった。いつからかは分からない。けれど、確実に結衣の心は追い詰められていっている。

 気にしないことが一番なのは本人も分かっているはずだ。それが出来ないのは結衣自身の優しさ。それがこの状況をどうにも出来ない物にしている。


「西嶋!」


 気付いたら呼んでいた。結衣が足を止めて振り返る。日陰になっているせいで表情はよく見えない。


「送って行くよ」


 影が首を横に振る。


「今日は寄るところがあるからいい。ありがとう」


 どこに寄るのか訊きたいが、恐らく訊いても答えない事は雰囲気で分かった。


「気を付けてな」


「浜崎君も。じゃあ」


 結衣が角を曲がって見えなくなる。

 ため息が出た。


 小柄でボブカットにしているから余計こけしに見える。

 切れ長の目も和風だ。中庭で一人、スケッチブックを手にしている姿を何度も見た。

 何度も見ているうちに目で追うようになっていた。


 五月のよく晴れた日だった。

 放課後、スケッチブックを持ったまま空を見上げている結衣をこの廊下から見つけた。

 結衣は何かを追い掛けるように校舎に入ると階段を上っていった。気になって後をつけた。

 結衣は迷いなく屋上へ行った。飛び降りる気かと思って声を掛けた。


『西嶋』


 振り返った結衣は何も言わなかった。海渡も、何も言えなかった。言葉が何も浮かんで来なかった。


『空を、探しに来ただけだから』


 やがて結衣が答えた。


『空?』


 結衣が何もない上を指差す。何もない。空があるだけだった。結衣が何を伝えたいのか、海渡には分からなかった。


『見つかったのか?』


 馬鹿だとは思いながらも、そう尋ねた。結衣は首を傾げて海渡を見た。そうしていてもまるで人形のようだった。


『ありがとう。今、見つかった』


 そう答えて、小さく微笑んだ。それが、結衣が笑うところを見た一番最初だった。

 海渡は窓から外を見た。中庭が見えた。


 アドレスに気付くだろうか。メールしてくれれば相談にも乗れるのに。


 海渡は今度こそ教室へ向かう。

 とりあえずは明日の試験。試験が終われば花火だ。


 そういえば、おかしなチェーンメールの期限は三日後、花火の日だ。

 どうせガセだし、誰かの嫌がらせなのだろう。

 実は海渡のところにも昨日になって回ってきていた。ムカついたので送ってきた馬鹿須藤に二回送ってやった。それで今日の事件だ。

 本当だろうかと一瞬だけ思ったが、それにしては馬鹿の考えそうな事だ。根性の曲がった奴の嫌がらせ。


 結衣は、そんなに恨みを買うような人間ではないと思う。不思議な空気を持っているが、それだけだ。


 誰もいない教室で、海渡は一度だけ結衣の席を見た。

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