ノート
授業の終了のチャイムと同時に美月が立ち上がるのが見えた。
そのまま結衣の席まで行く。結衣は頷いてから海渡にノートを渡し、二人は連れ立って教室を出て行く。
桜のほうは見もしなかった。
「どうしたんだろうね」
香奈が言った。
祥子がいれば図々しく聞き出してくれたかもしれないが、今日はいない。なんだか間の悪いことばかりだ。
「それよりさー、問題は明日の試験だよねえ」
「香奈、勉強してないの?」
「んなのする時間ないよ。部活忙しいんだもん。今年は県大会まで行くって皆、妙に張り切っててさ」
「バスケ部、行けそうなんだ?」
「んー、微妙。一応、今、地区の準決まで来たから、次勝てばとりあえず行けるけどね」
「すごいじゃない」
「まあねえ」
満更でもないのか。香奈はにやりと笑った。
「そのせいで前回赤点だった数学だけしか勉強してないんだ、私」
「それ部活のせいなんだ」
「うん。一夜漬けするつもりだしさ。問題は予想外に範囲が広いってことよね」
「一夜漬けはいいけど、テスト中寝たら意味ないよ?」
「大丈夫。まだ若いし。三日ぐらいは何とか。あ、そうだ! テスト終わったら打ち上げしない? 花火とか」
「花火?」
「そ。祥子もそん時には復活してるだろうし。祥子ってもしかして家で勉強してんじゃない?」
「祥子に限ってそんなことは」
ないとは言い切れない。
結衣に次いで謎の多い人間だ。あまり自分の事は話さない。そういえば洋もあまり自分の事は話さない。
その辺りに住む人は皆そうなのだろうか。馬鹿なことを考えて頭を振った。
美月と結衣が戻ってきた。香奈はそれを見つけると声を張り上げた。
「美月、結衣、試験終わったら花火だからね」
「花火? お小遣い足りるかな」
美月は思案を巡らせる顔で宙を睨む。
「結衣は大丈夫だよね?」
「うん」
結衣は頷く。愛想は悪い癖に付き合いは悪くない。よく分からない人間だ。
「前借りしなよ、美月」
香奈が説得に入った。
「どこでやるんだ?」
海渡が訊いてきた。暗に自分も混ぜろと言っているらしい。香奈は全く気にすることなく「コンビニ前の公園」と答える。
「試験終わった日? 何時から?」
別の女子も話に加わってくる。
「私の部活が終わるのが六時だから、七時ぐらいからじゃない?」
どうやら香奈の頭の中では最初からクラスの希望者全員参加型のイベントになっているようだ。来る者拒まずの香奈らしい。
「じゃ、俺も行くから」
「私も」
海渡に釣られた女子数名が加わった。
「美月も来なよ」
「うん、行く」
半ば引きずられるように美月が頷く。
「じゃあ、花火は各自持ち寄りってことでいいよね? 蝋燭とかバケツは徒歩圏内の子が持って来るっていうのは?」
「それ、もろ私らじゃない。せめて蝋燭は香奈が用意してよ」
香奈はいつも輪の中心だ。
そうなると桜の事を忘れてしまう。忘れられる桜をフォローしてくれるのは美月だけだ。
香奈に対して恨みを感じているわけではない。少し寂しいだけだ。
そして、香奈か美月かと訊かれれば必ず美月と答える。
その美月も、今は結衣の傍だ。
忘れないでよ、と思う。
忘れないでよ。一人にしないでよ。せっかく友達になれたのに。
思っても、美月は気付かない。結衣の傍で少し青い顔で笑っている。
このままでは駄目だ。もっと美月の傍にいなければ忘れられて一人になってしまう。
桜はそっと心に誓う。
誰よりも、美月の傍にいよう、と。
放課後、明日に備えて皆が早々と帰って行くなかで、結衣はなかなか帰ろうとしなかった。
結衣が帰ったら、美月に花火前に時間を貰う約束をしてもらおうとしている桜の気持ちなどお構いなく、自分の席に座ったまま机を睨んでいる。
「結衣、さっきの、祥子の事なんだけど」
美月が近寄っていく。
桜が二人を見ている事に気付いているのは、廊下側の海渡だけだ。
時折、桜を睨むように眉をしかめてこちらを見ては、すぐにノートを書き写しに戻る。
「なんで駄目なの?」
美月は結衣の顔を覗き込む。結衣ははっとしたように顔を上げ、次いで難しい顔をして首を横に振った。
「問題になってからじゃ」
「ごめん」
結衣は美月の言葉を遮って謝る。
「結衣、最近、私にまで隠し事多いよ」
「ごめん。必ず全部、話すから」
「西嶋、遅くなって悪かったな」
海渡がノートを渡した。結衣は軽く頷いて受け取る。
「西嶋、おまえ本当に顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
不意に美月がこちらを見た。
「話そうと思って」
ばつが悪いので少し視線を逸らした。
「ごめん、桜! いるの気付かなかった!」
美月が手を合わせる。桜が一歩近づいた途端、結衣が耳を塞いで俯いた。
「西嶋? おい。大丈夫か?」
「結衣?」
桜が近寄っても、結衣は顔を上げなかった。ますます強く耳を押さえ俯いている。
「ねえ、結衣、どうしたの?」
一応声を掛けておかないと悪いような気がして、桜は結衣の肩に触れようと手を伸ばす。それを拒むように結衣が立ち上がった。
「結衣?」
今度は美月が声を掛ける。結衣は一瞬だけ美月を見る。
「ごめん、私、用事あるから」
誰の耳にも言い訳と分かる言い訳をする。
「結衣!」
美月の制止も聞かず、結衣は教室を出て行った。
「西嶋!」
海渡が机の上に置いてきぼりを食ったノートを持って後を追う。
「ひどい」
思わず、口をついて出た。
「気にすることないよ、桜」
美月が困ったように微笑む。
もう、美月しか、信じられなかった。