美術室
結衣と美月が授業を受ける為に美術室から出て行った。ざわめきがまだ残っている。
桜はため息をついた。
席に着いてスケッチブックを広げ、その上に単語帳を乗せる。
こんな日に限って美術担当は休み。美術は自習。
もちろん真面目に課題をやっている者もいるが、少数だ。
皆、明日からのテストの方が大切だし、それよりも結衣の絵と芥子の花の方が気になっている。
結衣は去り際に絵を裏返していった。だから切り裂かれた部分は見えない。
裏に書かれたYui.Nというイニシャルが宙に浮いている。小ぶりで右肩上がりの字が結衣らしい。
落ちていたカッターナイフは百円均一に行けばいくらでも見つかる安い物だった。
結衣はそれを拾ってロッカーの上に置いた。それから芥子の花を拾い上げた。
また悲鳴が上がった。美月がそちらを睨む。
結衣は花をじっと見ていたが、もう一度「見えてる物は怖くない」と呟いた。
花を持った手が白くなるほど握られていた。
「結衣?」
桜が声を掛けても相変わらず無視で、結衣はそれ以上何も言わず、教室を出て行った。
美月も慌てて後を追う。
無表情に前を向いた結衣と、今にも泣きそうな顔で結衣を見ていた美月が対照的だった。
夏だというのに白い顔の結衣が不気味だった。
美月は知らないだろうが、結衣の評判はあまりよくない。
得体が知れない、というのがクラスの大半の意見だ。
近寄れば何をされるか分からない。
香奈ですら言っていたことがある。その時は近くにいた祥子がなんとなく制止していた。
「あの子も、そんなに悪い子じゃないからさ」とか、何とか言って。
誰も近寄らない結衣の絵を裂いた。
犯人は報復が怖くないのだろうか。
結衣も平然としていたが、もし、桜が結衣の立場だったらあんなに落ち着いた行動は取れなかった。
絵が裂かれているというだけでも混乱するに違いない。
誰が、何の為にと考えて他の授業どころではないはずだ。
国語よりは音楽、音楽よりは美術という考えで絵を描いている桜と違って、結衣は美術部員だ。
絵が好きで、描くのが好きで作り上げた作品。
たとえ出来が悪く、自分で納得出来ていない作品だったとしても、思い入れはあるだろう。
それを破かれて、犯人も分からない。
そして、芥子の花。
贈られた者は三日後に殺される。
そんなことを知っていて、贈られて。いい気分がするわけがない。
桜なら怒り狂っていたかもしれない。混乱で辺り構わず喚き散らしていたかもしれない。泣いてしまったかもしれない。
自分が逆上しやすい人間だという自覚はある。キレたらどうなるか分からない。
その点、結衣は凄いと思う。凄い落ち着き方だと思う。
けれど、あまり気持ちのいい賞賛ではない。
美月には悪いが、結衣は落ち着き過ぎている。
それに、あの独り言。
誰かに聞かせる為でもなく、完全に自分自身に言い聞かせるような言葉。
気持ち悪いとしか言い様がない。
結衣はいつも無表情で何を考えているか分からない。
美月の友達でなければ桜はずっと口も利かなかっただろう。
こけし人形を連想させる面立ちは桜にとっては近寄り難い存在の象徴だった。
全てを見透かすようなあの目は、自分にとっては緊張を強いる物でしかない。
どうして美月はあんな子と仲良くなったのだろう。
最初から気に入らなかった。不気味過ぎる。
もしかしたら、最近の結衣の態度は、桜が拒否していることに気付いたからかもしれない。
そういえば、最初から避けられ気味だった。結衣から桜に話し掛けてきたことなどない。
桜も話し掛けないから、二人きりで会話したことはない。
挨拶ぐらいはしようと思ったのに、それすら無視するなんて、一体何様のつもりなのだろう。本当に腹が立つ。
「よう、海渡。勉強か?」
四組の須藤が海渡の机を覗き込む。
四・五・六組が合同になる選択授業では、帰宅部の桜の知っている顔は少ない。
人数の多いサッカー部の海渡は苦労していないようだが、桜はまだこのクラスに馴染めずにいた。
「古典、まだこんなとこやってんの? 進むの遅ぇなあ」
「仕方ないだろ、山根が遅刻すんだから」
山根とは桜達五組の古典担当教師で、育児休暇が明けたばかりのせいか、非常によく遅刻して来る。
一限目が古典という日が二日もある五組にとっては疫病神のような教師だ。
中間試験前には早足の授業展開でついていけない生徒が続出した。
今回もかなりぎりぎりまで粘って、結局テスト範囲が狭くなった。他のクラスもいい迷惑だ。
それでクビにならないのだから教師とは素晴らしい。人間的には悪くないのが分かるだけに、もどかしい。なんとかしてほしい。
「おー、すげえ細かい書き込み。これ誰のノート?」
「西嶋」
「さっき来た奴? 髪の短い方?」
「ああ」
「あの一緒にいた髪長い奴は?」
「中野 美月」
「結構可愛いよな、中野」
須藤が嬉しそうに言うのを、海渡が冷めた目で見ている。
そのまま無視するかと思ったが、海渡はノートに目を戻しながら「今度、須藤が褒めてたって言っといてやるよ」と答えた。これが男の友情とかいう奴だろうか、と桜は思う。
「マジ? 紹介してくれんの?」
「セットで西嶋が付いてくるけどな」
「あれはいらねえ。あーいう暗い奴、俺苦手だし」
「ふーん」
海渡が振り返って結衣の絵を見た。
「ひどいことするよな。でも、なんで西嶋なんだ? 特別巧いってわけでもないだろ?」
須藤は結構ひどいことを言う。でも本当のことだと思うから、桜は特に腹も立たなかった。
「そうだな」
海渡は同意すると視線を戻す。通過点だった桜と目が合った。
見ていたことが気に入らなかったのか、海渡の眉間に少しだけ皺が寄った。桜は慌てて単語帳を見るふりをした。
「ねえ、浜崎君、西嶋さんにチェーンメール回ってるって本当?」
須藤と同じクラスの女子が海渡に話し掛ける。
確か、和田雪枝という名前だった。雪枝は甲高い声をしている為、自然と桜の耳はその会話を拾う。
「知らねえ」
愛想のない返事。隣の須藤が苦笑している。
「今ね、不幸のチェーンメールが回ってるの。芥子の花を贈られた人は三日後に首切られて殺されるっていう」
「くっだらねー。皆、信じてんの?」
須藤が鼻で笑った。
「信じてるわけじゃないけど、親友のうち一人が死にますとか言われたら嫌じゃない? 殺されなくても事故とかでもなんかちょっと、ねえ?」
雪枝は一緒にいた女子生徒に同意を求める。こっちの生徒の名前は分からない。たぶん、雪枝と同じクラスだろう。
海渡は興味なさそうにノートを書き写している。
「おまえ、それコピーとった方が早くねえ?」
「いいんだよ。書いてるうちに覚えるから」
須藤が軽く笑った。
結衣が話題になっている。
いや、結衣のされたことが話題の中心になっている。こんなことは初めてだ。
地味で、なのに人形みたいに綺麗で。影のようにひっそりとしているのに、どうしてもそちらを見てしまう存在で。
それでも今までは決して誰も結衣の名前を口にしなかったのに、一時のことかもしれないが簡単に口に上がる名前になった。
結衣はどう思っているのだろう。もし、誰かに心配されることが嬉しいと思うのなら、やっぱり好きになれない。
誰だって話題の中心にいたい。それを結衣一人に持っていかれたくない。
皆、そう思っているに違いない。仲良くしている美月だって、きっとそうだ。祥子も香奈も、そう思うに違いない。
結衣はなんだかずるいと思った。