友達
「おはよう!」
香奈と祥子は同時に教室に入ってきた。職員室前で一緒になったのだろう。
「おはよう。あのさ、ちょっと相談があるんだけど」
時計を見る。予鈴まであと五分ある。
「相談? 何?」
香奈は自分の机に鞄を投げた。中の缶ペンケースが派手な音を立てる。
「おはよう、結衣。後でリーディングのノート貸して」
祥子は有無を言わさずに話し掛け、結衣の手を引くようにしてやって来ると、五人は教室の隅にかたまった。
美月は思わず小さな声で話し出した。
「あのさ、昨日みのりからメールが来たんだけど」
「みのり?」
祥子が聞き返す。
「昨年、私と同じクラスだった子」
「あー……うん。あの茶髪シャギーの子」
香奈には分かったようだ。祥子は知らないがそれはこの際どうでもいい。
「チェーンメールだったんだけど、ちょっと見てくれる?」
携帯電話を差し出す。まず香奈と桜が読み、祥子から結衣へと回される。
「何これ。気持ち悪い」
香奈が顔をしかめた。
「ちょっと性質悪いね」
祥子も眉間に皺を寄せている。結衣が黙って美月に携帯を返した。
「どう思う?」
「いたずらでしょ? 本気にしない方がいいよ」
結衣の代わりに祥子が答えた。
「この前、三年生が交通事故で死んでたじゃない? 名前、確か彩子じゃなかった?」
食い下がると桜が「そうかも」と口元を押さえた。
「えー? 先輩たち、そんな話してなかったよ?」
部活動で三年と繋がりの強い香奈が反論する。
「そんなのガセとか偶然の一致だって。本気にしちゃ駄目だよ。どっかの馬鹿が面白がるだけじゃない。ねえ?」
祥子は香奈に同意を求める。香奈は頷いた。
「ちょっとそんな風に言っちゃ駄目だって」
「何、桜。あんた本気にしてんの?」
桜の態度を馬鹿にしたように祥子は鼻を鳴らす。結衣は微動だにしない。
「結衣?」
声を掛けると結衣は弾かれたように顔を上げた。
「どうしたの?」
桜が心配そうに尋ねる。だが、結衣は桜の顔を見ようとしなかった。
「美月は自分が止めて何かあったら嫌なんでしょ?」
香奈の言葉に図星を刺される。
「じゃあ転送しなよ。そうしたら美月の責任じゃないでしょ?」
「そうだけど」
桜が美月の代わりに膨れ面を作った。そのまままるで自分が美月であるかのように香奈に抗議する。
「それじゃあ無責任過ぎ」
「ごめん」
桜の言葉を遮って、結衣が言った。
「ちょっと結衣! どうしたのよ、突然」
祥子が大声で責める。驚いたのは美月や桜だけではなかったようだ。
「ごめん、美月。そのメール、私には転送しないで」
「結衣、あんたまで本気にしてんの?」
祥子の呆れたような声にも、結衣は俯いたまま首を横に振った。
「ごめん」
謝ると結衣は自分の席に着いた。顔を上げずに机を見つめている。
なんで、と口まで出掛かっていた。唇を噛んで我慢した。涙で視界が少しにじんだ。
「最近、結衣、変じゃない?」
香奈がゆっくりと言った。心持ち、声が小さい。
「少しおかしいよね。前から無口で無表情だったけど、最近ひどくない?」
美月が尋ねると祥子も頷く。
「ここんとこ、顔色悪いし。体調悪いのかもね」
「私、嫌われてるみたい」
桜の言葉に皆、顔を見合わせた。
「なんで?」
代表して尋ねるのはいつでも香奈だ。
「私と目、合わせてくれないし。朝も挨拶してくれないんだ」
「マジで? ちょっとひどいな、それ」
祥子が怒ったような声で結衣の席の方を見る。
結衣はまだ机の上に置いた手を睨みつけている。離れていても緊張した空気が伝わってくる。
異様な雰囲気に気付いたのか、海渡まで心配そうにこちらと結衣を見比べていた。
「どうしたんだろ。あんなにぴりぴりしてるの、初めて見る」
最も結衣と付き合いの長い祥子が言うのだから間違いないだろう。確か幼稚園から一緒だったはずだ。
予鈴が鳴った。
「じゃあ私と香奈に転送しなよ。いいよね、香奈?」
「うん。いいよ。私、原口に回してやろ」
「だから何で回すのよ。いいじゃない、放っとけば」
「本当になったら嫌だもん」
あくまで本気にしていない香奈の明るい笑い声。
それでも結衣は顔を上げない。何をそんなに思いつめているのだろう。
美月と違い、結衣は誰かに悩みを打ち明けるということをしない人間だった。
自分一人で考えて、何らかの結論が出た後で、美月に悩んでいたことを話したりする。
どうして相談してくれないのかと訊くと、相談することすら思いつかないぐらい悩んでいたと、冗談交じりに言っていた。
そんな身を切るような冗談、痛すぎて笑えない。
今回も、話してくれるだろうか。痛くても冗談にしてくれるだろうか。
結衣を見ていると不安になる。抱えきれない物まで一人で抱えていそうで。
荷物なら、半分持つよ。
そう言って肩を叩ければどれだけいいだろう。
だが、それは出来ない。
結衣が非常にプライドの高い人間であることは知っている。
自分の領域に踏み込まれることを嫌悪している。
歯がゆいが、ここで見ていることしか出来ないのだ。いつか、話してくれることを信じて。
一時限めの現代文の授業が始まってすぐ、美月は結衣の方を一度見た。
結衣はまだ机を睨みつけている。
その隣の席が空であるのに気付いて、美月は前に座っている祥子の肘をつついた。
「ねえ、今日、斉藤君、休み?」
「知らない。浜崎、何か聞いてない?」
祥子が隣の浜崎に尋ねる。浜崎海渡は首を横に振った。
教室の一番後ろの窓際が斉藤の席だった。結衣はその隣。振り返った瞬間、目を上げた結衣と目が合う。
美月が笑って手を振ると、結衣は少しだけ目を細めた。これで顔色が悪くなければ普段通りの結衣だ。
結衣は自分に対して特に心を開いてくれている。
だからこそメールを回さないでと言われたことはショックだった。
あまりにもあからさまに拒絶された。寂しいと思った。
もしかしたら親友だと思っているのは、自分だけかもしれない。そう思うと、とても寂しい。
もう一度、結衣を見る。結衣は斉藤洋の机の上にいた虫を手でそっと追い払っていた。
いつもは冷たい印象しか与えない結衣の横顔が優しく見える。
いつもの結衣だ。何も変わっていない。昨日までの結衣と同じ。
変わったのは美月なのだろうか。だから、あんな風に拒絶されたのだろうか。
それともメールの話を一番に結衣にすればよかったのだろうか。どうして皆に話してしまったのだろう。
結衣に一番に話しておけば結衣だってもっと親身になってくれたのかもしれない。
言わなくても分かってくれると勝手に思っていた美月の驕りだろうか。
結衣は親友なのだと、はっきり言わなかったからだろうか。
考えれば考えるほど心当たりがあり過ぎて、美月は小さくため息を漏らした。
教室の後ろの戸が開いた。
「すみません、寝坊しました」
斉藤 洋が一礼して入って来る。目が赤く腫れているのは寝不足のせいだろうか。
「気をつけなさい」
現文の熊田はそれだけ言うとまた授業に戻った。席に着く洋を、美月は目だけで追う。
結衣の席に座りたい。
斉藤 洋は色の白い少年だった。
長い睫毛に縁取られた茶色の瞳がとても大きい。
女の子よりも綺麗、というのが美月の感想だった。小柄で華奢な造りで、いかにも温室育ちと言った雰囲気。
どうしてアイドルになっていないのかと思うほど整った顔立ちをしている。
いじめられていても不思議ではないのに、常に大柄な浜崎海渡とつるんでいる為か、その気配はない。
二人はとても対照的だ。揃っていると人目を引く。気付いたら目で追うようになっていた。
洋の目が不意にこちらを見た。唇が「おはよう」と動く。笑みを返して美月は前を向いた。
見ていることに気付いただろうか。
気付いて欲しいのと、気付いて欲しくないのと。気持ちはまだ後ろの方が重い。
きっと今のままで良いのだ。
目が合っただけで息が詰まるほど嬉しくても、それはまだ告げるべきじゃない。
美月は無理やり納得すると、黒板の文字を写し始めた。