事実
美月の目の前で、結衣は小さなくしゃみを連発しながらチョコレートパフェを食べていた。
くしゃみをするのは構わないが、その度に「あー」と低く唸るのはやめて欲しい。
結衣の隣に座っている海渡は完全に顔を引きつらせていた。
「くしゃみしながらパフェ食べる人なんて初めて見たよ」
今日の財布、洋が言う。
「洋ちゃん、次、カレー」
「分かったから、パフェ食べ終わってからね」
結衣のリクエストに苦笑しながら美月の隣の洋が頷いている。
「美月、続き話して」
物凄い勢いでパフェの器を空にしながら結衣が要求した。
「どこまで話したっけ?」
「榊連れて来たとこまで」
先程からジュースしか飲んでいない海渡が言う。確かに見ているだけでお腹が膨れてきた。
「それでね、何か嫌そうにしてたけど『何があったんだ』って」
「完全に俺ら疑ってたよな、あれは」
「そりゃあんな格好してたんだし」
洋がため息をつく。そんな格好をするように指示したのは結衣だ。結衣曰く「連想させるため」らしいが、それなら海渡だけでも良かったのではないかと思う。
榊が結衣の思惑通り、連想してくれたかどうかは分からない。
夕べ、嫌がる熊田を連れて花火をしている公園に行った。
そこで結衣は今日の更衣室での演出を細かく出した。
が、本人は今日起きたことのほとんどを覚えていないのだと言う。
そこで今、美月が見たことを結衣に説明するはめになっていた。
昨日、偶然花火に参加していた洋までを無理やり巻き込んだ結衣は、いつもよりかなり強引だったが、洋に訊くと昔からこんな風に我がままだったと言ったので、美月に見せてくれていない面を結衣はまだまだ持っているのかもしれなかった。
「カレー」
「はいはい」
洋はウエイトレスを呼ぶとカレーを追加した。
「それにしてもあの熊がよく協力したよな」
「昨日、半信半疑だったから、協力してくれないと思ってたんだけどね、僕は」
洋の言葉に海渡が頷いた。
確かに、あまり前向きには捕らえてなかったようだ。ただ、結衣の態度に気圧されたのはあるかもしれない、と美月は結衣を見た。
水のグラスを置いて、結衣が「その後は?」と皆の顔を見回す。
「すぐにドアが開いて、榊が中に入った途端、ドア閉まったもんな?」
海渡に同意を求められ、美月は頷いた。
「後は結衣が言った通り外で待ってたよ。合図あるの。でも、急に榊先生の悲鳴が聞こえたから熊田先生がドア開けて、結衣が倒れてて」
榊は泣きながらへらへら笑っていた。目は壁を見つめたまま、腕は何かを抱えるように不自然に折り曲げられていた。
美月は頭を振って榊を追い払う。
「西嶋、本当に何も覚えてないのか?」
海渡の問いに頷くと結衣はスプーンを手にした。ウエイトレスがカレーの皿を置いて行くのを待って海渡は続きを口にする。
「どこまで覚えてる?」
「二人が更衣室出て行って、水被ったら真っ暗になって、気付いたら保健室だった」
榊と二人で何を話したか、結衣には全く記憶がないのだと言う。
発見された結衣と榊は保健室に運ばれた。
結衣はすぐに目を覚まし、泣き叫ぶ榊の頬をぴしゃりとやった。
それで正気に戻った榊は泣きながら桜と祥子への謝罪を口にした。
「結衣、いつから榊先生と祥子の事気付いてたの?」
「先月ぐらい」
口の中のカレーを飲み込んでから、結衣は答えた。
「先月? 祥子から聞いたの?」
結衣は首を横に振る。
「じゃあどうして?」
「それまでうるさいぐらい榊先生のこと色々言ってたのに、急に言わなくなったから」
「それだけ?」
洋が驚いたように口を挟む。
「それに祥子、なんとなく嬉しそうだったし」
よく見ているものだと思う。
近くに居ても、美月は全く気付かなかった。榊の謝罪で初めて知ったのだ。
今、祥子の親が学校に呼ばれている。
榊が認めた罪は、桜と祥子と関係を持った事。
妊娠を聞いて桜をプールに突き落とした事。
祥子の場合は後ろから殴って気絶させたという事。
実際には祥子は倒れただけだったのだが、榊は派手に倒れ込んだ祥子を見て気絶したと思ったらしい。
それにショックを受けたから、という訳ではないが、祥子は中絶を選んだのだと、着替えながら結衣は言っていた。
もちろん、その事は洋にも海渡にも言っていない。こういう事を知っている人間は少ない方がいいと結衣に念を押されたからだが、多分二人も薄々気付いているだろう。
祥子が無断で学校を欠席していたのも手術の為で、祥子は結衣の家に泊まると嘘をついて入院したらしい。洋の姉に保護者のふりをしてもらったり、色々工作したのだが、結局バレるものなのだ。
そして当然ながら、あのチェーンメールは全てガセだったという事だ。
一体、誰があんな紛らわしいメールを作ったのかと思うと腹が立つ。
しかし結衣が殺されるかもしれないと一時期本気で悩んでいた自分は、やはりどこかおかしかったのかもしれない。
おかしいと言えば、桜とあれだけ仲の良かった香奈が桜の事を覚えていないというのもおかしい。
洋もそんな子がクラスに居たなんて知らないと言うし、どうやら皆、その辺りの事は都合良く忘れているらしい。
覚えているのは海渡と美月、最後まで姿を見る事は出来なかったけれど結衣の三人だけだ。
優シイネ、と言った桜の顔。
昨日、眠る時もちらついて、あまりよく眠れなかった。寂しい笑顔だった。そして少しだけ幸せそうだった。
あの顔が、保健室で結衣が一瞬見せた表情とよく似ていた。
榊の顔を叩いたのは結衣ではなくて桜だったのかもしれない。
世界で一番好きな人を狂気の淵から救った。
少しだけ誇らしそうな横顔。結衣はそんな表情見せた事がなかったから、美月はそんな風に思う。
「あぁ、そうだ。これ」
洋が突然言って、ポケットから一枚の紙を取り出した。
「ごめん」
少し恥ずかしそうに言ってから結衣に差し出す。
それを見た結衣の頬が一瞬赤くなって、洋を見つめる。隣から覗き込んだ海渡が眉を寄せる。
「どうしたの?」
「見てもいいよ」
美月が尋ねると洋が答えた。結衣は戸惑った様子を見せたが、結局そっと美月に掌を見せた。
写真だった。毒々しい赤い花が一輪写っている。
「これ、芥子の」
「折る前にさ、あんまり綺麗だったから携帯で写真撮ってたんだ。やっぱり西嶋さんには見せておこうと思って」
少し歯切れの悪い言葉。一抹の寂しさを残す横顔。
「折るって?」
気が引けたが美月は洋に尋ねた。
「西嶋さんの絵破いたの、僕なんだ」
「え?」
驚いて結衣を見る。結衣は俯いたまま頷いた。
「本当なの? なんで?」
「いいんだろ、もう終わったんだから」
海渡が苛々と口を挟んだ。何故か一人だけ仲間はずれにされたようで面白くない。
「中野さんもごめんね、嫌な思いさせて」
泣きそうな表情で謝る洋にそれ以上は聞けず、美月は押し切られる形になった。
「あとでデータ送ってくれる?」
結衣が小首を傾げて尋ねる。今まで美月が見たこともないような幼い話し方。結衣が甘えた声を出すのを始めて聞いた。
「うん。分かった」
洋がどこまでも結衣に甘いのは、結衣を傷付けたという負い目があるからだろうが、何となく面白くなくて美月は頬杖をつく。
海渡と目が合った。海渡の方は呆れたように肩をすくめている。
海渡の隣で結衣は写真を愛おしそうに見つめていた。幸せそうな表情がかなりむかついた。
洋がそんな結衣を見ながらふと呟いた。
「その桜って子、本当に榊先生の子供産みたかったのかな」
全員の視線がテーブルに落ちる。
それは本人にしか分からない。
本当の答えは本人にしか分からないだろう。
美月は洋の横顔を盗み見た。
果たして自分が妊娠したら、産みたいと思うのだろうか。
そこまで洋を好きになれるのだろうか。
指先がひんやりとしてため息が出た。
よく分からない。でもいつかは誰かのことをそこまで好きになるのかもしれない。
その時は、できれば喜んでくれる人を好きになりたいと思う。
「産ミタカッタヨ。伸君ノ、子」
ガサガサとした声に結衣を見る。宙を見つめていた。
「西嶋?」
不安になったのは美月だけではなかったようで、隣の海渡が軽く結衣の頬を叩く。
我に返ったらしい結衣が不思議そうな顔で美月を見る。
「今、停電した?」
美月は思わず洋と海渡の顔を見、次いで「してない!」と大きな声で否定する。
結衣は芥子の写真を胸に押し当てたまま、首を傾げた。