結衣
「榊先生!」
中野 美月が蒼白な顔で職員室に飛び込んで来たのは、テストが終わった翌日。
今日中に採点して、欠点の者には連絡しなければならない。忙しいのに、と手を止めて立ち上がる。
「結衣が更衣室から出て来ないんです!」
「更衣室?」
聞き返すと美月は形の良い頭を上下させた。
「もう死ぬしかないって」
脳裏を嫌な思い出が過ぎる。
「どうしたんです、榊先生」
国語担当の熊田がのそのそとやって来た。
「いえ、大したことでは」
「どうしよう、熊田先生! 結衣が死ぬって言って、更衣室から出て来ないの」
「結衣って、西嶋か?」
言ってくれるな、という榊の願いに反して、美月は大きく頷いた。
クラスの恥を簡単に晒してくれる。口の軽い生徒だけに止めようがない。
これが反対に結衣の方が来てくれていたら、何も他の教員にまで知られることなく処理出来た。
以前の例もあり、査定がぎりぎりなのは分かっているから、腹立たしさが募る。
「早く、榊先生!」
職員室を出る。美月が急かしながら階段を上がっていく。後ろからは何故か熊田が来ている。
どうしてついて来るんだ、と怒鳴りたい気持ちを堪えて階段を上がる。本当にどうしてこう問題ばかりが起こるのだろう。
西嶋結衣は不気味な生徒だった。成績は上の中。
表情も乏しく口数も少ない為、何を考えているか分からない。
それで何故、友人がいるのか不思議だが、この美月をはじめ、数人と親しくしていた。
中にはここ数日連絡の取れない近藤祥子も含まれている。
それにしても祥子はどこに行ってしまったのだろう。こちらに連絡をして来ないなど以前の祥子なら考えられない。
「西嶋! おい! 返事しろ、西嶋!」
「西嶋さん!」
浜崎 海渡と斉藤 洋が女子更衣室のドアを叩いていた。
二人とも制服のシャツがだらしなくズボンの外にはみ出している。
海渡はともかく、きちんとした性格の洋までそんな格好をしているのは珍しい。
「何があったんだ?」
「西嶋さんが中に閉じこもって」
「それは分かったから、どうしておまえらがここにいるんだ?」
問うと海渡と洋は顔を背けた。
本当にこれ以上の問題はごめんだ。
うんざりして、榊は更衣室をノックした。
「西嶋、開けなさい」
「先生?」
中から弱々しい声が聞こえた。
「西嶋、どうしたんだ? 何があったんだ?」
「先生、どうしよう、私」
耳障りな音がして、更衣室のドアが開いた。
中を覗くと全身濡れたままのセーラー服の少女がしゃがみこんでいる。俯いたままこちらに背を向けている。
「西嶋?」
微かに、少女の肩が動いた。
「伸君」
小さく空気を揺らす声。唾を飲み込んだ。
これは、西嶋 結衣ではない。
この制服は、あの時の制服だ。
「桜か?」
後ろでドアが閉まった。
少女がゆっくりと顔を上げる。鼻をつく、塩素の匂い。湿った木製のロッカー。
桜がこちらを見た。
榊は一歩、退く。桜はふらふらと立ち上がると榊に近付いた。
「どうしてここにいるんだ!」
叫びたいのに、口からは空気が漏れるような声しか出ない。
桜は小首を傾げてこちらを見上げる。青色の顔。濡れた長い髪。
そしてまた一歩、こちらに踏み出す。ルーズにした白い靴下の下で、水がぐじゅぐじゅと嫌な音を立てた。
「桜」
「私だけって言ったのに」
榊はドアを開けようとノブに手を掛けた。全く動かない。叩くが外にいるはずの熊田も美月も何も言わなかった。
「開けろ! 開けてくれ!」
「逃げるの?」
桜の手が榊のシャツの背中を掴んだ。振り向くと桜の頭がそこにあった。
「祥子にも同じ事言ったの、伸君」
桜の手がシャツをなぞる様に上がってくる。
「やめろ」
「どうして? あんなに好きって言ってくれたのに。巧くなったって褒めてくれたのに」
息を飲むと同時に桜がしがみついてきた。冷たい水に首まで浸かったような感触に声を飲み込む。
「祥子にも、同じ事したの?」
「違う! 違うんだ」
逃げ出したいのに体が動かない。桜が顔を上げた。青い唇。黒一色の瞳。
赤ん坊の泣き声が聞こえた。立っているのが精一杯の足首を、何かに掴まれる。
「赤ちゃんも来たよ。お父さんに会いたいって言うから連れてきちゃった。デモ、コノ子ハ、知ラナイ」
桜は榊から手を放すと床から何かを拾い上げ、壁に叩きつけた。
潰れる音と共に榊の顔に液体が飛び散る。
人の体温程、温かい液体。壁から赤い液体が流れ落ちる。
桜は榊を見ると微笑んだ。足元に何かが落ちてくる。桜は壁に叩きつけたそれを見ようともせず足で踏み潰した。
赤ん坊の泣き声が大きくなり、足首を掴む小さな手がずるずると膝の裏辺りにまで登ってきた。
「事故ダッタンダヨネ? ソウデショ? 伸君、子供好キッテ言ッテタモンネ? 私ガ妊娠シタカラッテぷーるニ、突キ落トシタンジャナイヨネ?」
榊は頷いた。後ろ手にドアノブを回すが、今度は空回りするばかりで扉は開かない。
「ヤッパリ。ソウダト思ッタンダ。ナノニ結衣ハ、流産サセル為ニ背中押シタンダッテ思ッテルノ。ソンナコト、ナイヨネ?」
何度も頷いた。桜は嬉しそうにこちらへ赤い手を伸ばしてくる。
「デモ、祥子ノ時ハ違ウヨネ? 殺スツモリデ突キ飛バシタンデショ?」
桜はべたべたする手で榊の顔を包み込む。塩素の匂い。血の匂いで頭が痛くなる。
「分カッテルヨ。伸君ノ事ハ何デモ。私ノ事ガ、一番大事。ソウデショ? 私ト一緒ニ居タイデショ? 私ト赤ちゃんト三人デ、ズットズット、一緒ニ居タインダヨネ?」
桜の手が首に掛かった。
このままでは殺される。
一瞬、我を忘れた。無我夢中で桜の体を突き飛ばす。
太ももまで上がって来た薄緑色の赤ん坊を壁に投げつける。泣き声が止んだ。
ドアを叩く。開かない。
「開けてくれ! 誰か! 中野! 熊田先生!」
「先生」
振り返ると祥子が立っていた。腕に赤色の塊を抱いている。
「抱いてあげて。先生の子だよ」
塊が動いた。頭が潰れ、目玉がはみ出している。手首はあらぬ方向に曲げられているが、その手を榊に向かって伸ばしている。
「ほら、先生」
腕に押し付けられる。おぞましさに払いのける。赤ん坊の頭が足の上に落ちた。
どこかで男の絶叫が聞こえた。