イヤホン
〈イヤホン〉
百万枚売れたラブソングが左耳を流れる。
隣には可憐な少女が、この曲を僕と共有していた。お互い外側の耳にイヤホンを嵌め、寄り添い合って座っている。
電車内に溢れる喧騒や駆動音を大音量のプレーヤーで遮断し、僕たちはふたりの世界に没頭していた。
「なあ、クミ……」
「どうしたの? シンイチくん」
「いい曲だよな、これ」
顔と顔が近い。ふたりの声だけが届く。
クミは微笑んで頷いた。
愛を歌うバラード。“Forever love”なんて散々使い古された言い回しだけど、それでもその言葉は、僕たちの心根に響いた。
誰だったか、百万人のために歌われたラブソングに心を重ねる人間を批判したアーティストがいた。けれど、僕にはそれが理解できない。そこら中にありふれた恋愛だろうが、淡々と続くばかりの日常だろうが――
だって僕たちは、今この瞬間、こんなにも幸せなんだぜ?
「クミ……ずっと一緒にいような」
つい感傷的な気分になった僕は虚空を見つめ、眩しい陽光に瞳を細めながら愛の言葉を囁いた。
周囲の視線なんてクソッタレだ。嫉妬でも敬遠でも好きにしろ。僕の意識から、彼らの存在はとっくに掻き消えていた。
――こんなおいしいシチュエーション、ちょっとくらい二枚目を気取っても許されるはずだ。
突然の台詞に照れているのか彼女からの返事はなかったが、僕は構わず続ける。
「なんだかんだ言って、僕は世界一幸せな男だと思うんだ。たとえこれが地球に満ち溢れた恋愛のひとつでも、クミがいるだけで他の奴らとは別格だ。ホント、最高だよ。長年連れ添った夫婦だって、僕たちの愛には霞んじまうさ。だから僕は、絶対にクミを手離したりしない――」
そっと肩を抱くと、彼女の頬が僕の肩に乗っかった。柔らかい髪が首筋をくすぐる。
「う……!」
突如跳ね上がった密着度に、攻勢から一転、僕は激しく狼狽した。鼓動の高鳴りが彼女にバレないか心配になる。ああもう、冷静になれよ。甘いシャンプーの香りも、ぷにっとした頬の感触も、普段から慣れっこじゃないか。
そう必死に自己暗示をかけても、恥ずかしさでクミの表情すら窺えない。左耳の音楽が遠い。唾を呑む音が、やけに大きく感じる。
――いや、頑張れ、僕。最愛の恋人と盛大にいちゃつくだけだ、たいした仕事じゃないさ。
意を決した僕は、勇気を振り絞ってクミに顔を向け、
「……は?」
愕然とする。
クミは穏やかに寝息を立てていた。唇は半開きで、どことなく間抜けな容貌だ。
その幸せそうな寝顔を見て確信する。これは“うとうと”って次元じゃない、本気の昼寝状態だ。
――いつから寝てたんだ? 意識してクミを視界から外していたからわからない。
……もしや僕は、寝こけている彼女にずっと語りかけていたのではないだろうか。
蚊帳の外に感じていた周囲の世界が、急に蘇る。
小声で囁き合う女子高生、真っ赤な顔で笑いを堪えるおっさん、嘲るように下卑た笑みを向ける同年代の男子……。
すべての視線が僕に――その痴態に注目していたのだ。
羞恥心と屈辱感が、さっきまで幸福でいっぱいだった胸に浸透していく。頭が熱くなる。顔面中の穴という穴から蒸気が噴き出そうだ。
「お、お見苦しいところを……」
情けなく呟いて、僕は自らの失態を押し隠すようにクミの肩を揺すった――
読んでいただきありがとうございます!
恋人持ちの人間は、ちょっとくらい恥をかいて笑い者になった方が独り身と釣り合いが取れていいと思うのですよ。人類皆平等! 盛大に失態を晒してしまえフハハー!
……ごめんなさい、嘘です。みなさんお幸せに。