観念の扉
ピンポーン、男は自己と同調するような、快い響きのするチャイムを鳴らした。
「入りたまえ」
インターフォンから、抑揚のない声が返ってきた。
男はしばらくためらった後、大きく深呼吸をすると、意を決したようにドアを勢いよく開けて、部屋の中に足を踏み入れた。全身に緊張感を漲らせながら、部屋の様子を窺おうとしたが、灯りを消しているせいか、豪華そうな応接セットが部屋の真ん中にぼんやりと見えただけだった。
「ドアを閉めて、早く入りたまえ」
命令する風でもなく、その声は穏やかに言った。
男はその声に促されるようにドアを閉めると、部屋の方へと歩いて行った。
「そこに掛けたまえ」
その声は男に向かいの席に座るように言った。
男はゆっくりと腰を下ろすと、大きく息を吸い込んだ。そして得体の知れない無気味な感じを漂わせているその声に向かって、弱々しそうな声で訊ねた。
「あ、あのう…私に何かご用でしょうか?」
「私は君とこのようにじっくりと話せる機会を、長い間待ち望んでいたんだよ」
その声は落ち着いた口調で、楽しみを噛みしめるように言った。
「冗談ではありませんよ。私の方には、あなたと話すことなど何一つもないのですよ」
男は自分でも驚くほど、冷静に言ってのけた。
「それでは、どうして私を訪ねて来たのかね?」
その声は満面の笑みを浮かべながら楽しそうに言った。
男は不意打ちを受けたように、言葉を飲み込んだ。まさかその声からそのように訊ねられるとは考えてもみなかった。
―どうしてこんなところまで、わざわざ来てしまったのだろう?
男は意味もなく自問自答していた。
穏やかな沈黙が二人の空間を支配する。
やがて男は自らの焦燥と不安に苛立ち、口を開いた。
「いや、その…特にあなたと話すことは何もないのですが、ただあなたと話すと、つまり何かが…そう、私が見失っている大切なものが分かるような気がしたのです。それに…」
男は体中の毛穴が全開していくのを感じた。
「それに、何だというのかね?はっきりと言いたまえ」
その声は男の支離滅裂な言葉にも気分を害することもなく、やさしく話の先を促した。
「それに、一度あなたと話さなければならない、という掴み所のない奇妙な、しかし確固たる使命感のようなものを感じるのです」
「そう、君は私を必要としているのだよ」
男はその言葉を聞くと、一瞬救われたような安堵感に捉われたが、次の刹那には、空漠な自問を彼方に呟いていた。
「私があなたを必要としている?それはどうしてだろう?」
「今の君には理解しかねるだろう。つまり君がこれから許された人生を歩んで行くには、私という存在が絶対的に必要なのだよ。なぜなら私は君の人生そのものだからね」
その声の言うことを聞いて、男は驚いたように目を見開いた。
「そんなに驚くことではない。間違いなく私は君の人生なのだから」
その声が確固たる自信をもって、当然のように言い切ったので、男は戸惑ってしまった。何がどうなっているのか、全く見当もつかず、頭の混乱だけが加速度的に強まっていった。
「もしもあなたの言うようにあなたが私の人生そのものとするなら、私自身の人生は一体どこに消えてしまったのですか?」
男は自分でも何を言っているのか理解できないまま、気弱そうに訊ねた。
「君自身の人生だって?ハハハハハハ…いや、笑ったりして失礼。しかし余りにも君がおかしなことを言うものだから、許してくれたまえ。元々君自身の人生は存在していなかったのだよ。存在していなかったものが、突如として消え去ってしまう訳がないだろう」
その声はおかしそうに笑いながら、当然のように言った。
「しかし、しかしですね…私はこの通り、現に今まで生きてきたではありませんか。そしてこれからも生き続けていくつもりです。それが私の人生ではなくて、一体何だと言うのですか。ぜひともお教えていただきたいものです」
「ハハハハハハ…いや、実に愉快だ。君には大変失礼だけど。それでは教えてあげよう。それは君自身の単なる率直な錯覚以外の何ものでもないのだよ」
その声が悪戯っぽい目をしながら、首を傾げるようにして男を見た。
「私の人生が単なる率直な錯覚ですって?私が今まで生きてきた汗と涙を、白昼夢のようなものだと、あなたはそう言うのですか?そして希望と至福にあふれるかもしれないこれからの明るい未来も、あなたは単なる幻想だと言うのですか?」
男は自分の存在をいとも簡単に否定されて、怒りと興奮を押し殺しながら言った。
「そう、単なる錯覚、夢に見た幻想にすぎないのだよ」
その声は男の怒りなど気にも留めず、冷たく突き放すように言った。
その声の断定的な言い方に、男の怒りはやがて不安に変り始めた。そして訳がわからないままに、自分の観念が瓦解していくような眩暈を覚えた。
「分からない…分からない…錯覚であろうと、幻想であろうと、今現実に、私はここで、このようにあなたと話をしている。そしてそこには、私が今まで生きてきた過去という事実が、絶対的に存在している。それを否定することは誰にもできない筈です」
男は苦しそうに声を振り絞るようにして言った。
「絶対的に存在している過去という事実自体が、本当は錯覚の産物にすぎない。君はそう思わないかね?」
「それは単に錯覚という言葉を、絶対的に存在している過去の事実に当てはめただけではないですか」
男は不服そうに声を荒げた。
「私が考えていた以上に、君は賢明なようだ。このように君と話す機会が出来たことを非常にうれしく思うよ」
その声は満足そうに肯いた。
「お褒めの言葉と受け取っていいのかどうか分かりませんが、あなたの論理だと、私には過去というものがなく、突然ここに出現したことになります。はっきりと言いますが、そのようなことは異次元の世界でしか考えられないことです。今のこの世界では、あなたの意見など、一切受け容れられることはないでしょう。恐らくあなたの考えは、一笑にふされるか、狂気の世界に追いやられることでしょう」
男は自分の存在を挽回するために、たっぷりと皮肉を含ませて言った。
「おお、お願いだ。論理という馬鹿げた言葉だけは使わないでくれ。論理などという言葉は使うのも忌々しく、聞くのに閉口してしまうほどだ」
その声は両手で耳をふさぎ、頭を左右に激しく振りながら喘ぐような素振りを見せた。
「とにかく、あなたは私の過去を否定するのですね?」
男はその声が落ち着きを取り戻すのを待って言った。
「いや、君の言う通り、君の過去を否定することなど、誰一人としてできないだろう。もしもそんな輩がいるとすれば、それこそ傲慢というものだよ」
「それでは私の過去をあなたは認めるのですね」
男はそう言うと、安堵したようにイスに深くもたれかかった。
「どうも君は考え違いをしているようだ。私は君の過去など認めてはいないよ」
その声は強い口調で言って、男の期待を簡単に裏切った。男の頭の中は、矛盾した言葉の暗雲に覆われ始めた。
しばらくの間、男は腕を組み、虚空を見つめ続けた。その様子をその声は楽しむようにやさしそうな眼差しで見つめていた。
やがて男がその声に確認するかのように言った。
「あなたは私の過去を否定することもなく、認めることもしない、ということですか?」
「そうだ、案外物分かりがいいではないか」
その声はうれしそうに目を輝かせながら言った。
「もしそうなら、あなたの矛盾した言葉が何を意味しているのか、私は考えなくてなりません。矛盾すべき言葉で評価された私の過去は、一体何だったのだろう?」
男が自問するように呟くと、腕を組みながら目を閉じて考えようとしたが、その声が強い口調で遮った。
「矛盾が意味することは何もない。それほど難しく考える必要はない。とどのつまりは、否定すべき過去もなく、認めるべき過去もない、ということだよ。ただそれだけのこと」
「どうしてあなたはそのような矛盾した言葉を、それほど苦もなく、たやすく言うことができて、それを容認することができるのですか?それでは話も何もならないではないですか。ただの言葉の遊戯にすぎないではないですか。さきほどあなたは論理という言葉を忌々しい、と言いましたが、もう少し論理というものを勉強した方がいいのではないですか。今までのあなたの話を聞いていますと、論理の一貫性が全くなく、矛盾した言葉で、私の頭を混乱させようとしているだけとしか思えません」
「ハハハハハ…なるほど、君の言う通りかもしれない。君にとっては、矛盾は次への論理の障害物となって、君の前に大きく立ちはだかるわけだ。だから論理だけが会話に対する唯一の武器となり、それを否定してしまう相手には全くのお手上げという結末だ。それとも狂気の烙印を押した方が救いはあるのかな?とにかく君の論理的価値観と私のそれとは、相当大きな隔たりがあるようだね」
「やはりあなたは私という存在を含めた私の過去のすべてを、一切合切闇の中に葬り去りたいのですね?」
男は自己の固執する観念を、不安定に揺るがせながら言った。
「そんなことは少しも思っていない。君が過去に存在した事実は、私から見ると、存在しないことになるだけだ」
「しかし私は生まれてから、こうして今まで存在し続けていたのですよ。その事実によって、存在し続けた過去は、現に過去として、そこに存在しているではないですか」
男は右手で自分の胸を叩くようにして、存在を主張した。
「確かに君の過去は存在し続けるだろう。君が過去を振り返った時に、そこには厳とした君の過去が、否応なく存在している筈だ。しかし私としては、その過去を認めることができないのだよ」
その声は両手を軽く上げるようにして、お手上げという風な素振りを見せた。
「どうしてあなたは私の過去を認めようとしないのですか?」
男の声は少し苛立ちながらも哀願するように言った。
「君がやむなく存在させ続けてきた過去というものに、私にはどうしても価値を見出せないのだよ」
その声は困惑し切ったように言った。
男は急に強い衝撃が全身に走るのを感じると、地獄の底へ一直線に転落して行くような恐怖に襲われた。
―価値を見出せない…価値を見出せない…
男の頭の中にはその言葉が反響し続けていた。
「君は自分の過去を価値あるものとして、自身で認めることができるのだね?」
その声は優しく穏やかに訊ねた。
「……」
男の思考が停止したかのように、どんな言葉も思い浮かばなかった。観念と存在の崩壊が、目前に迫りつつある不安と焦燥を増長させ始めた。やがて男は小さな声で、うなだれるようにして言った。
「自分の過去が価値あるものかどうか、今まで考えたことなど一度もなかった。また、思いつきもしなかった」
「もちろんそうだろう。誰一人として、そのようなことを考える必要は少しもない。過去はただそこにあっただけだからね」
男は体中の血液が逆流し出したのを感じた。
「しかし君は賢明な人間だ。このように私を訪ねて来たのだからね」
「私はただ…今生きていても、いつも胸の奥深くに潜んでいる暗雲と、そこから生じてくる焦燥を感じるのです。それが一体どこから来るのか、あなたと話すことによって、少しは分かるのではないかと思いまして…」
「少しは分かってきたのかね」
「いいえ、一向に。返ってその暗雲が、果てしなく徐々に広がって行くような気がします。それが取り返しのつかない、非常に恐ろしいことのように思えてならないのです」
「今なら、君が入って来たそのドアから元の世界へ、まだ引き返すことができる。今すぐに君がそのイスから立ち上がって、来た道を引き返そうとも、私は君を非難したり、軽蔑したりなどしないから安心したまえ。君が抱いている恐怖心がなくなった時か、あるいはそれと対峙しなければならない必要性を痛感した時に、もう一度私を訪ねて来ればいい。私はいつでもこのように君を待っているのだから」
男はこれ以上恥ずかしい思いをしたくはなかった。それと同時に、何か言いようの知れない恐怖を感じ始めていた。それは動物が本能的に持っている自己保存からくるものだった。男はそれに突き動かされるようにイスから立ち上がると、入ってきたドアの方へよろよろと歩いて行った。そのドアさえ開ければ、明るく希望に満ちた元の世界に戻ることができる。
―今、ここから出れば、もう二度とここには戻って来ないだろう。私はそれほど強い人間ではないから…しかしそれでいいのだろうか…それで私は満足なのだろうか…
ドアのところで、男は長い間ためらっていた。やがて男自身が気付かない、より強い自己保存本能の衝動が、男をその部屋に踏み留まらせた。
「ふう」
男は大きな溜息をつきながら、元のイスに腰を下ろした。
「やはりダメだったようだね」
その声が同情するように言うと、男は小さく肯いた。
「私には過去というものがあるのでしょうか?」
男は内部のエネルギーを、消耗し尽くしたような声で訊ねた。
「君の質問に対する答えは、明白すぎるほどだ。つまり君には過去というものがない。いや、今となっては、なかった、と言うべきだろう。ここに君が踏み留まったという事実によって、初めて君は君自身に過去を与えるのだよ」
「ここでこのように、あなたと話すことによって、初めて私には過去ができるのですか?もしもここに来ることもなく、このようにあなたと話す機会もなしに生き続けていたなら、私には過去というものが永遠に存在しなかったのですか?」
「そうだ」
その声は自信にあふれた表情で頷いた。
「あなたは私にとって、一体何なのですか?」
男の喉はカラカラに渇き、言葉を搾り出すように言った。
「私は君に過去という価値を与える存在なのだよ」
「私はあなたによってしか、過去という価値を与えられないのですか?第一過去は与えられるものなのですか?」
男は不思議そうな目をその声に向けた。
「もちろんそうだ。与えられない過去は、一切の価値を放棄する運命にあるのだ」
「あなたと話すことによって私の過去が認められる。そういうことですか?すべての人がそうですか?」
「そうだ。この世界に生存しているすべての人々は、私と話すことなしに過去というものが与えられることはない。私と話すことなしに、自分の過去を語るのは、君と同じように、それは単なる錯覚で、幻想にすぎないし、傲慢なだけだ。そういった輩は、幻想の過去を抱いて愉悦し、幻聴の声に心を悩ませるだけだ。しかし最も残念に思うのは、私がここに厳と存在していることさえ全く気付かず、あるいはたとえ気付いたとしても、本能的に無視しようと必死に努力している人々が、この世界にいかに多いかということだよ。それは人間の本能に由来するものだから、やむを得ないこととは思っているがね。私に惹かれつつも、決して近付こうとはしない人々…もっとも私に近付いたところで、恐怖と自己分解に続く自己崩壊を、一瞬のうちに成し遂げてしまうだけだから、その方が賢明なのかもしれないが…」
「あなたは私や他の人々に、過去という輝かしい栄光を与えたり、取り上げたりできるのですね。それではまるで全知全能の神のようですね」
男は敬意と賞賛と驚きを込めて言った。
「全知全能の神だって?神・神・神…何ということだ!私がそのような痴呆的におぞましい存在だ、と君は言うのか?君にすれば敬意の表現かもしれないが、私には明白な侮蔑の言葉としか受け取れない。私には神が欺瞞の悪魔のように思えてならない。長い間、私は祈り続けている。神がこの世からいなくなることを、神にのみ祈り続けている。もっとも神が多く現れる方が、それだけ私が活躍できる機会も増えてくるというものだが…」
「詭弁の上手な方だ。ほとほと感心しますよ」
「そう、詭弁だよ。詭弁の中に含まれる真実ほど、救いのあるものはない。それこそが、正しく私に対する敬意絶賛の言葉だ。ありがとう!」
その声は今にも立ち上がって、歓喜の握手を求めんばかりの勢いだった。
「とにかく、あなた自身がすべての人々の過去の生殺与奪権を掌中に握っている、ということをあなたは認めるわけですね」
「どうも君とは観念のすれ違いが多いようだ。君自身がそれを認めるかどうかということだよ」
「……」
男は錯乱している観念の渦の中に放り出されて、頭を抱え込んでしまった。
「まだよく分からないようだね。つまり君自身が、私を過去の生殺与奪権者として認めるか否か、ということだよ。考えてもみたまえ、たとえ私がそうであろうとなかろうと、君には全く関係のない外部の意見にすぎないのだよ。重要なことは、君が私をどのように判断するか、ということだよ。私が君の過去を一刀両断したように、今度はそれを、君自身の力で判断しなければならない」
「しかしもし私があなたの判断を否定したなら、私の過去は何の抵抗もなく、無残に、いとも簡単に、あなたに取り上げられてしまうのでしょう?」
「ハハハハハハ…君も随分と分かってきたようだ」
「もしそうなら、私の過去をあなたに認めさせるには、あなたの判断を肯定するしかないわけでしょう。あなたはどうも矛盾した質問を、私にしているような気がするのですが…」
「確かに君が私の判断を否定したなら、私も君のその判断を否定することになるだろう。それでいいのだよ。君はその過程で、君自身の過去を認めさせることができるのだからね」
「なるほど。それでは、私があなたに私の過去を認めさせようとすれば、あなたの判断を否定すればいいわけですね」
「そうだが、残念なことに、君は私の判断を否定することはできないだろうね」
「……」
男は弄ばれた言葉に服従するかのように、黙り込んだ。頭の中の脳みそがぐつぐつと音を立てながら、煮えたぎりつつあるようだった。頭がこのまま膨張限度を超えて破裂してしまい、醜悪な脳みそが辺り一面粉々に砕け散ってしまいそうな気持ちに捉われた。
―沈黙だ。沈黙以外にそれを防ぐことは出来ない。これ以上相手の言葉を聞いていると、気が狂いそうだ。
男はそう思うと、目を閉じて、呼吸を整え、心の動揺を鎮めようとした。
闇に閉ざされた沈黙が男に安堵感を与え始めたが、それも瞬時の内に過ぎ去ってしまうと、把握できない曖昧な焦燥感が男を襲い、呻吟させ始めた。その名状し難い不安な感覚が、男の胸中に広がり、次第にろ過し始めた。やがて耐え切れなくなった男は、額の汗を拭いながら、恐る恐る訊ねた。
「私は…私は間違っていたのですか?どうかはっきりと教えて下さい。このままでは、気が狂ってしまいそうです」
「君は間違っていないから、安心したまえ。もっとも間違っていたのかどうかなど、私の関知するところではない」
「もしそうならば、どうして私が間違っていなかった、と断定的に言うことができるのですか?」
「そんなこともまだ分からないのかね。今日初めて私を訪ねて来たのだから、無理もないことかもしれないが…その質問の答えは明白だよ。つまり今君が私に、“私は間違っていたのですか?”と訊ねたからだ」
「私があなたに間違っていたのかどうかを訊ねたこと自体が、あなたにとっては、私が間違っていなかった、というあなた自身の判断なのですか?あなたは物事を正しく判断できるのですね」
矛盾した言葉の迷路に入り込んでしまった男は、その声の論理に従ってみるしか、脱出する術は見つからなかった。
「ハハハハハハ…私には、物事を正しく判断できる能力などないのだよ」
「それでは、どうしてあなたはそれほどまでに自信をもって、私が間違っていなかった、と言い切ることが出来るのですか?」
「自信など全くない。そんな無用なものを持つ気もさらさらない。第一正しい判断というのは、正しい側から見れば、しごく当然のことにすぎない。もっとも間違った側から見たとしても同じことだ」
「それはどういうことでしょうか?私には中々理解し難いのですが…」
「つまり君から見て、間違った人間だと思えるような人間が存在していたとすると、その人間も君のことをそのように見ている、ということだ。だからその人間が間違っていないと判断したことでも、君から見れば、間違っていると判断するだろう。また君が間違っていないと判断したことでも、その人間から見れば、間違っていると判断するだろう」
「もしそうなら、正しい判断というのも、間違った判断というのも、すべてが同列に帰してしまう結果になります。それは水掛け論にも等しいと思います。それでは善悪の区別が全くなくなってしまいます。人間にとって、正しい判断、間違った判断というものは、絶対的に必要なものだと思います」
「そう、必要な人間にはね」
「それを必要としない人間なんているのでしょうか?私には到底信じられません。もしそういう規準がなければ、人間は思い悩み続け、挙句の果てに、生きて行けなくなるような気がします。だから人間として生きて行く上には、絶対的になくてはならないものだと思っています。しかしあなたにすれば、それは必要なことでも何でもない、そういうことですか?」
「そうだ。私には全く必要性などない。どうしてか、君には分かるかね?」
「私にはとても信じられません。私はごく普通の人間ですから、想像も及びません。しかしどのようにすれば、あなたのように強くなれるのか、非常に興味があります」
「その内に、君もいつかは理解できるようになるだろう。そうなれば、私のことを強い人間とは言わなくなるだろう。それはそれでいい…私が正しい判断、間違った判断を必要としないのは、つまりそれは人間自身で創り出されたものに過ぎないからなのだよ。人間は間違った判断に基づいて、自身の行動を律するほど強くはない。間違った判断を自ら下し、それに基づいて自らの行動を決すること自体に、自らの正しい判断が絶対的に関与しているわけだ。だからこそ悪しき行為もそれによって許されるのだよ。自ら下した正しい判断に従い、悪しき行為をする。そこに個人としての非が見出せるだろうか?…否、その行為者個人は正しいと判断したのだから、非はどこにも見出せない。しかし、非なのだ。その個人の行為を、間違った判断による悪しき行為だ、と判断し非難するのは他の人々にすぎない。結局、古来からの歴史的多数決の原理がその行為の判断を下すことになるわけだ。それがいかに愚かなもので、多くの人間を苦しめてきたかということは、歴史を眺めてみれば一目瞭然だ。だから私には無用のものにすぎないのだよ」
「それは極論すぎるのではありませんか?もしそうなら、社会秩序など一向に保たれなくなります。そればかりでなく、個人個人の自我欲がそこら中に蔓延し、社会の混乱を招き、争いが絶えることなく跋扈し、人の心は猜疑心に凝固してしまい、今以上に殺伐とした社会になることは、火を見るより明らかではないですか。そんな社会になることを、あなたは望んでいるのですか?」
「どうも君は現実に生起することだけに、一切の耳目を奪われているようだ。君のいう社会秩序とは、現に君が生存している世界のことだね。その世界で、現在の社会秩序は保たれている、と君は考えているのかね?」
「絶対的に正なるもの、真なるものを認めることができないとするならば、一応相対的には現在の社会秩序は保たれている方だと思います」
「それは君自身の驕りの証であり、錯覚にすぎない。君の言う保たれた社会秩序というのは、相対的にせよ、何を規準にどのような判断を下せば出てくるのだろうか…それは悪しき行為と大同小異ということになるのだよ。分かるかね?保たれた社会秩序など、絶対的に存在しないのだよ。いや、存在すること自体が許されない、と言った方がいいだろう。それは卑しい人間共が、安住のためにのみ創り出した、幻想産物にすぎないのだから」
「あなたの考えでは、安住を目的とした幻想は否定されるべきもの、というわけですか?」
「いや、否定することなどない。そこで必要なのは、ただそれを知っているということだけだよ」
「つまり幻想を幻想として認識することですね」
「そうだ、認識することだ。君に似合わず、便利な言葉を使うではないか。そうこないと会話の妙は枯れ果ててしまう」
「そうすると、一つお伺いしたいのですが、無用なものとしてしまうことはできないのですか?」
男は興味津々といった感じで、話を先に進めようとした。それに応えるように、その声は満足げに言った。
「君は飛躍した考えが好きなようだ。実にいい、実に愉快だ。やはり私が見込んだだけのことはある」
男は真剣な表情をして、その声を見つめた。
その声はそれに気付くと、威儀を正すように座りなおすと、言葉を続けた。
「その認識を無用なものすることはできる。簡単にね。本質的には、それさえも無用の長物にすぎないのだから…しかしもしその認識が脳に留まり、一度腐食し始めたなら、二度と君はそれから逃れられなくなるだろう。そうなれば、その腐食をいかに進展させ、醸成させて行くか、という道しか君には残されていないのだよ。その認識腐食を、君は永遠に払拭できないだろう」
底知れぬ恐怖の予感が、男を包み込み始めた。これ以上観念の泥沼に入り込めば、男は生涯もがき苦しむことになる。しかし空中に浮かんだままの観念を抱いては、引き返すこともできない。
男はその声を見つめて、きっぱりと言った。
「その蝕むべき認識が、私には必要だ、と言うのですか?」
「いや、君が言うように、それは無用のものだよ。自己を蝕み、腐敗に導く認識を、一体誰が必要としようか。それは決して必要なものではない。湧出してしまった細胞菌として、ただそこに存在するというものにすぎないのだよ。たとえそれが幸いなことに死んでしまったとしても、その残滓は永遠にその形を留めて存在し続けるだろう。もっともそれが休止することはあろうとも、死ぬようなことは運命的に起こらないだろう」
「私にはまだまだよく分かりませんが、これだけは言えると思います。私が幻想する保たれた社会秩序を、幻想という認識の上で、個人的には認めてもいい、そうですね?」
「もちろん一向に差し支えはない。私にはそこまで君に干渉する権利はないし、またしたくもないからね。それで、君自身は個人的にそれを認めるつもりかね?」
その声は非難する口調でもなく、楽しそうに男の答えを待った。
「そうですねえ…」
男はしばらく考えてから、苦しそうに言葉を続けた。
「あなたの言葉をお借りするなら、私は無用の必要性を認めなければならない、と痛感しているのです。幻想は絶対的に存在しないのですが、社会秩序はたとえ幻想であろうとも、必ず存在しなければならないのです!」
男の最後の言葉は絶叫に近い口調になって、反論を拒絶するかのようだった。
男の興奮が鎮まるのを見届けてから、その声は穏やかに言った。
「君はヒューマニストだね」
男はその声から“ヒューマニスト”と評されて、一瞬耳を疑った。
「えっ、私がヒューマニストと言うのですか?この私が…」
「それほど自分を疑わなくとも、君は正しくヒューマニストだよ。人間を信じ、人間愛に燃えているヒューマニストだよ。それは、今の君の言葉が明白に証明している」
「あなたは私を買いかぶりすぎていますよ。私は人間愛に燃えているヒューマニストなどではなく、現実に存在していると思われるものを否定する勇気がない小心者です。それを否定するには、あまりにも犠牲が多すぎます」
「君は自己否定することに、非常な恐怖心を抱いているようだね」
「もちろんです。誰が自分で自分を否定できるのですか?自殺志願者なら、そういうことも可能でしょうが、普通の健康な人間なら考えも及びません」
男は言葉とは裏腹に、かなり精神的な衝撃を受けていた。男の観念の隙間に、見事に石杭を打ち込まれたようだった。
「自己の存在を否定することなど、誰も望まないだろうし、できないかもしれない。それは確信的な不快だからね。自己の存立は生命の存立に等しい。その存立を否定するのは、多くの人にとっては短絡的な死を意味する。それに直面するには、あまりにも恐ろしすぎる、というわけだ。違うかね?」
男の心を見透かしたように、その声は淡々と冷たく言った。
男は認めたくはなかったが、認めざるをえなかった。
「そ、そうです…多分…」
「多分ではダメだ。はっきりと認めなければ、君自身の精神は混乱から錯乱へと移っていき、取り返しのつかないことになる」
その声は男の精神を支えようとして、力強く同意を求めた。
「そうです。死というものを考えたくはないのです。漠然とした他人の死に考えが及んでも、自分の死を少し想像しただけでも、恐ろしくて、気が狂いそうになるのです」
「しかし現在君が生と直面している限り、それと同列に死とも直面しているわけだ。もしそれが避けることの出来ないものならば、真正面から捉えた方が、君の魂はより救われることになるだろう」
「そんな恐ろしいことが、私にできるのでしょうか?到底考えられないような気がします」
「それでは、自分で否定するのではなく、他の人々から否定されたらどうだろう?やはり君自身の存立は、死に直面して行くことになるだろう。なぜなら、今君は他の人々の幻想的認識によってのみ、社会生活を維持しているにすぎないからね。脆くて儚い他人の幻想が、君自身の存立の基盤になっているのだ。そこには君個人の存在など、どこにもない。他人の幻想が崩れ去ってしまえば、君の存在も消え去ってしまう。それが“死”というものだ。しかしその“死”は君個人の死ではなく、他人の死なのだ。そうすれば君は“生きた”というのでもなく、“死んだ”というのでもない」
「それでは、私は何だったと言うのですか?」
男は両手を力強く握り締めて訊ねた。
「君は存在しなかった、という言葉で、すべてが葬り去られてしまうのだよ」
「そ、そんなこと…」
男は人知れず葬り去られている自分の姿を思い浮かべ、哀しく寂しい感情に包まれた。
「それほど悲観することもない」
その声は優しく言った。
「そう言われても、あなたから見れば、いつも私は否定されているのですよ。あなたに、私の過去、未来、存在、死、すべてが取り上げられてしまったのです。それで失意のどん底に陥らなければ、どうすればいいのですか?」
「君はそれを取り戻せばいい。もっとも私は何一つとして、君から取り上げた覚えはないが…君は大切なことを、言葉の渦の中で見失ってしまったようだ」
「それは一体何でしょうか?」
男が怪訝そうな顔で訊ねた。
「分からないかね?…それは君自身だ」
「えっ、私自身ですって?」
「そうだ、君自身だ。今、私と話している君だ」
「私…」
男はしばらく考え込んだ。
やがて暗く沈んでいた目が、明るく輝き始めた。
「ようやく分かったようだね」
その声は男の希望に満ち始めた目を見て、安堵した。
「なるほど、つまり、今あなたと話をしていて、取り上げられてしまったものも、あなたと話を続けている限り、いつの日か取り戻せる、ということですね。それと、今取り上げられたと私が思っているものも、すべては私の幻想からくるものにすぎない。その幻想を創り出したのが私自身なら、それを消滅させてしまうこともできる。そういうことですね?」
「そうだ」
「しかし…」
男は再び考え込んだ。観念と言葉の迷路が、男に不安と焦燥を与える。結局何一つとして解決していなかったことに、男は気付いた。
「しかし私には、あなたから取り戻せる自信がありません。それに、やはり恐ろしいのです。すべてのことに対峙し、結論を出すことに、言いようの知れない恐怖を覚えるのです。それは自己の死と直面することになるからだろうと思います。もしできるなら、すべてを忘れて、楽しく生きて行きたいとも思いますが、どうしてもできないのです」
男は悲痛な声で訴えた。
「それは、虚無に対する本能的恐怖と憧憬の混合状態だね。やはり君は私の期待通りの人間だ。実にユニークで愉快な存在だ。益々君のことが気に入りそうだよ」
「しかし私の方は、あなたとこのように話していますと、なぜか非常に疲れてくるのです。それでもあなたと話さずにはいられない強い衝動を感じるのも事実です。それが私の心を、あなたに強く惹きつけて行くのです」
「そう言ってもらえると、私も嬉しい。君には私が必要なのだ」
「確かに私は長い間、あなたを待ち続けていたのかもしれない。私の心の中に潜んでいる寂莫たる空白を、あなたが満たしてくれそうな気がしていたのです。しかし…」
「しかし、私は一向に君の空白を満たしはしない、そう言いたいのだろう?」
「そうです。私の空白を混沌とした闇にさえ変えてしまう。そこでもがけばもがくほど、どんどん深く引きずり込まれて行くような感覚に捉われる…」
男は自分に言い聞かせるように言うと、少し首を傾げた。
「それでも君はそこから逃げ出そうとは思わないだろう。自らの意志で私を訪ねてきたのだから」
「虚無に対する憧憬と恐怖心が、私にあなたを訪ねさせたのかもしれない」
「虚無存在の反射こそが、君の存在の根拠なのだよ。今、君はそれに近付こうとしている。恐怖によってその憧憬に、憧憬によってその恐怖に、近付こうとしている。君の心の中に、生来存在し続けていた闇の正体を、君は今まさに知ろうとしている。君がこの部屋に入ってきた時に開けたドアを、君はもはや二度と開けることは出来ないだろう。君は腐食し始めたのだから…そして生き始めた」
その言葉を最後に、その声は静かに立ち上がると、男をそこに残したまま、闇の彼方へ消え去った。そして二度と男の前に姿を現すことはなかった。
完