8話 昔の恋人
25日の夕方、携帯電話が鳴っている。
一向に鳴り止む気配が無い。
ソファーから起き上がり、ベッド脇のチェストの上から携帯を取り上げる。
【着信中:夏目のバカ】
やや暫く凝視したが、画面をタッチする。
「・・・・・」
「夏目のバカって名前はまだ変えて無いのか?」
「そのままだ」
「いい加減変えろ。てか、抹消してくれ」
「分かった。今すぐでいいか」
「悪いが会話が終わってからにしてくれないか」
「会話も無いと思うが」
「ルウくん?ちょっと荒れてる?」
「普通だ」
「そう?それじゃあ、北仙台駅前の白木屋で待ってるね」
「なっ!・・・おい・・・」
こっちの返答も聞かないまま電話は切れてしまった。
「おー、こっちこっち」
笑顔で手を振る夏目は、少し日に焼けて、少しだけ髪が伸びていた。
それでも相変わらずスラリとした美少年で、黒いタートルネックが似合っている。
「私が実家に帰ってるとは考えないんですかね」
「電話に出た時のお前の声で、こっちに居ると思った」
「声、ですか」
「相変わらず分かり易いから、可愛いんだけどね」
「分かり易いと言うのはあなただけですよ」
「オレの特権だねー。所で何があった?藤堂に迫られたか?」
「あっ、えっ、何で藤堂さんが出てくるんですかね」
「やっぱり迫られたのか。相性は良かったか?」
「相性も何も、まだ付き合ってませんよ」
「へー、俺が居なくなったら直ぐに手を出すと思っていたんだがな。彼奴は結構慎重派だったのか」
「何の話ですかね」
「お前は気づいて無いだろうが、お前を狙ってた奴は結構居たんだ。おれの先制攻撃で雑魚は諦めたようだが、藤堂だけは読めなかったな」
「そんな事を言われてもなー。藤堂さんはお兄さんみたいなんですよねー」
「ああ、藤堂が可愛そうになってきた」
「五月蠅いな」
「それで?話は何ですかね」
「・・・バレてたか」
「夏目さんが、こーんな賑やかな場所に呼び出すって事は、マズイ事か、イイ事でしょ?それと会社の人には知られたく無い事」
この場所は、HIHに努めている人間にとっては鬼門だ。
北仙台駅前と言えば、TTK技研の東北支社が目の前にある場所である。
自ずとその周辺には、TTK関連の企業も軒を連ねているし、居酒屋やバーを利用する人もTTKの人が多い。
わざわざそんな場所の居酒屋チェーン店で待ち合わせが出来るのは、夏目この人だけだろう。
(お蔭で見なくていい物まで見てしまった為、気分が悪い)
「やっぱりお前は永遠の恋人だわ」
「それは脚下致します」
「つれないねー。オレが後にも先にも惚れた女はお前だけだよ。惚れてるから一緒にはなれないんだ。オレは腐った奴だからね」
「・・・・・」
「基本的に、オレは仕事人間だ。仕事の為なら何でもする。裏だろうが女だろうがね。だから家庭を持つ気は無かったし、持ったとしても安心出来る場所が欲しい訳じゃ無い。オレの安心できる場所、知ってるか?」
「会社、それも給水室」
「流石だねー。お前の良さを分かってくれる奴を探せ。藤堂は無難だが、無難過ぎるかもしれないな。でも彼奴はいずれ本社勤務になる男だ」
今日の夏目は随分饒舌だ。
昔から話し上手ではあるが、今日は何か切羽詰まった事でも抱えているのだろうか。
「九州で良い事あった?」
「何で九州に飛ばされたと思う?」
「会長の出身地でHIHの御膝元。試された?」
「結婚する。HIHの会長の孫とな」
「そうなんだ。おめでとう。少し寂しいかな」
「馬鹿だね。オレの恋人はお前だけだって言っただろうが」
「幾つ?」
「二十三。去年の本社会議で会って以来、ずーっと追いかけてくる女だ。オレが何を言っても、何をしても鼻で笑う奴だ。まったく可愛く無い。でも、あの会長の孫だけの事はあって頭が良いんだ。有名大学を出ている訳でも無く、普通のお嬢様学校出で、のほほんとしている癖に頭の回転が速い。オレが考えもしない事を実行に移す女だ」
「仲が良いんだね」
「そうかも知れないな。アイツと居るのは結構楽しい」
「それなら良かった」
ああ、肩の荷が下りた様な気がする。
夏目が転勤になった時、寂しい気持ちも確かにあったが、ほっとする気持ちが大きかった。
初めは人の気持ちに土足で踏み込んでくるこの男に苛々していたが、気が付けばこの男が私の素直な気持ちの唯一の捌け口となっていた。
夏目から見れば私は分かり易い女だったのだろうが、私から見た夏目はとても分かりずらい男だった。
素を出せるが、緊張もする。
あの頃は、自分から会いたい等と一ミリも思わなかった。
一年近く離れた所為だろうか、今は手に取るように夏目の気持ちが良く分かる。
好きだが一緒に居られない相手。
一緒に居るだけでお互いが傷つく。
今の関係が一番しっくりくる。
離れてる方がお互いが良く見え、気持ちを察する事が出来る。
他人には理解出来ない関係だろうな。
夏目が私を通り越して、後ろのガラス窓の向こうを見ている。
ガラス窓の向こう側にはTTK東北支社の八階建てビルが聳えている。
「お前の部屋に足を踏み入れる奴が憎いな」
「そんな奇特な人が居るかな。夏目さんでさえ踏み入らなかったし」
「お前の居場所を知ってしまうと、抜けられなくなりそうだったからな」
「ああ、そういう事だったんだ」
「そうさ」
「・・・お前、とんでもない奴に好かれたな」
さっきから夏目の目線はガラス窓の向こうから外れない。
「え? 何が?」
後ろを振り返ろうしたら、夏目に腕を掴まれ慌ただしく店を後にした。
「・・・はぁ・・・はぁ・・・ちょっと、どうしたんだ・・・」
「・・・はっ・・・はっ・・・ぶっ、あははは!」
手を繋いで走った先は、ビルとビルの狭間の小さな神社だった。
まだ息が上がっている私を思い切り抱きしめる夏目は、肩を震わせて笑っている。
「く、苦しいって」
「お前にもう一つ話しておきたい事が有ったが止めた」
「何だよ」
「ルウ、兎に角、逃げろ」
「はあ?」
首筋にチクリと痛みが走った。
「お前は右に走れ。オレは左に走る」
「何で?」
「それと夏目のバカじゃ無く、夏目大先生に変更しておけよ」
意味が分からないと首を傾げて見ると、他の男の前でそんな顔をするなと釘を刺された。
「よーい、ドン!」
笑いながら走り出す。
数メートル先で立ち止まり振り返ると、向こうも立ち止まって振り返っていた。
ほんの少し立ち止まったまま、スッと手を挙げ大きく左右に振る。
向こう側でも同じ動きが見て取れる。
(何を考えているのやら)
前を向いてコートのポケットに手を突っ込み、何処までも真っ直ぐに歩いて行った。
夜の風は冷たく、コートの襟から覗いた首元が寒い。
持って来た筈のマフラーを探すが、バッグの中にもコートのポケットにも無かった。
店を出る時には手に握り締めていたのを覚えている。
走る途中で落としたか。
カシミア100%の千鳥柄のマフラーは大のお気に入りだった。
(高かったんだぞー)
そのまま歩いていたら、北仙台駅隣の北四番町駅に辿りついた。
夏目くん、やっぱり、やさしいんだよ。
仙台市の駅名は実際の名称を使用しておりますが、ビルや駅周辺の様子はまったくの架空の物です。その辺をご了承下さいますよう、お願い致します。
夏目っち。自分中心の男だけど仕事も出来て女にモテる。こういう男に惚れると大変辛い毎日を送る事になるのだけど、なかなか抜け出せなくなるのは何故だろうね。こんな男には出来るだけ近づかないのがベストと思ってる。(笑)
追記:次話でやっと0話に到達出来ると思います。長くなってすみません。