18話 余計な仕事
店先を箒で掃いていると、ホッツーが元気よく声を掛けて来た。
「おっはようー!」
「おはよう。今日は元気だね?良い事あった?」
ホッツーの顔がにやけている。
ホッツーはこの時間に出勤して来るので、ほぼ毎日の様に挨拶を交わしている。
ナンバー1になっても、ホッツーはホッツーで、向こうもそれで良いのだろう気にした風も無い。
昔から会う度に思っていた事だが、コイツは本当に人間なんだろうか。
青白い顔に痩せこけた頬、体も細くて体重が何キロなのか想像出来ない。体が軽い所為か足音も無く近づいてくるホッツーに何度驚かされた事だろう。
金髪の髪の毛は前髪も後ろも長く、顔の表情が良く見て取れない。そんな髪の毛の間からカラーコンタクトの青い瞳がキラキラと光るのが、余計に人間では無い様に感じられる。
真っ黒いロングコートのポケットから真っ黒い携帯電話を取り出して、私に向かって開いて見せる。
「結婚するんだ」
其処には黒い髪で黒い瞳の見た事の無い男性と、茶色に染めた長い髪のふっくらとした頬の女の子が笑顔で並んだツーショットだった。
「・・・誰?これ」男の方に指を指す。
「オレ!普段のオレだよ。で、こっちがゆいっちー♪」語尾にはハートも付いた気がする。
「おー!おめでとう。可愛い子だね」
「サンキュー、俺、今月一杯で辞めて、地元に帰る事に決めたんだ。コイツさ、同級生なんだ」
「だから元気なんだ」
「うん。やっと許して貰えたからさ」
「良かったね」
ホッツーは嬉しそうにスキップなんぞしながら、エレベーターへと向かって行った。
あの金髪はヅラだったのか。
そう言えば時々ピンクだったりブルーだったりしていたのを思い出した。
「いらっしゃいませ」
今日も相変わらず忙しい。
「宮さん!この子借りるわよ!」
着物姿の綺麗な女性に腕を掴まれ、店から連れ出される。
「へっ?」
「早めに返せよー」
呑気な宮さんの声が後ろから聞こえてきた。
そのまま走る様に連れ込まれたのはこのビルの七階に在る「アゲハ」と言う高級クラブである。
「ごめんね!うちのバーテン、お客と喧嘩して警察行ってるのよ。戻って来るまでの間だけでいいからカウンターお願いね!」
そう頼む女性は、ゆるやかに結い上げた髪に鼈甲の簪、瓜実顔は白く切れ長の知的な目と高い鼻筋、唇は赤い紅で塗られ女の私から見ても妖艶である。
ここのママさんだろう深緑色の着物のお姉さんは、それだけ言うと奥の席へと優雅に走って行った。
今夜は金曜の夜である。
何処の店も忙しいだろうが、この「アゲハ」は高級クラブだと言うのに賑わっている。
不景気だの何だのと言われても、お金のある人には関係の無い話なのだろう。
それを証明するかのようにウイスキーなら山崎が、ワインならフランス物が、焼酎なら森井蔵と名立たる銘酒が次から次へとお客の所へと運ばれて行く。
カクテルを注文するお客は少なく、私はカウンターの中で氷や水と言った割り物の準備に追われていた。
中央の席のお客が帰るのだろう、男性2人と店の女性3人が賑やかに立ち上がり、おしゃべりをしながら出口へと向かって行く。
その際、カウンターの横を通り過ぎるのでカウンター内の私も頭を下げて「ありがとうございました」と礼を言う。
顔を上げてチラと其方を横目で見ると、向こうも此方を吃驚した顔で見ていたのに気が付いた。
「ルウ!」
ああ、ここでも五月蠅い奴に見つかった。
「オレにハイボール作って」
「畏まりました」
「ルウ、ここで働いてるの?」
「単なる手伝いですよ」
「なーんだ。ここで働くなら毎日来ようかと思ったのにな」
「毎日来れる程のお金持ちだったんですね」
「ルウの為なら借金してでも来るよ」
「あら、三輪さん、お帰りじゃ無かったんですか?」
カウンターに入って来たのはママさんである。
三輪さんの隣に腰を下ろして、自分にはお水を汲んで欲しいと頼まれた。
そう、何故か【SquareRose】下一階の三輪旅行代理店の三輪さんと会ってしまったのである。
三輪さんは一緒に来ていたお客を下まで行って見送り、また戻って来たのには流石に驚いた。三輪さんに付いていたお姉様方は大変喜んだのだが、彼女達を追いやってカウンターに座り、私と話し始めたのだからお姉様方の機嫌がすこぶる悪い。
そんな事にはお構いなしに、あれやこれやと質問攻めに遭う私にとって、ママの訪問は嬉しい限りである。
「彼女と知り合いなんだ。最近見かけなかったから驚いちゃってさ」
「三輪さんの知らない女性って居るのかしら。ね?」
ママさんは私を見て意味ありげにに笑いかける。
「ママー、オレの理想の女性はママだって言ってるじゃないか。信じて無いでしょ」
「嬉しいわ。そう言えばさっき愛ちゃんが、三輪さんに理想の女性だって言われたと喜んでいたわね」
三輪さんピンチだよ。
「理想に近いって言ったけど。本当の理想はママだよ」
何時になく真剣な三輪さんに少しだけ驚いた。
もしかしたら三輪さんが何時までも独身な理由に、ここのママさんが関係しているのかも知れない。
「ママー!二番さんです!」
奥の方から黄色のドレスを着た美人さんが手を挙げてママさんを呼んでいる。
「それじゃ、 」
三輪さんの肩に手を置き、無言の会話を済ませてにこやかに歩いて行った。
それからの三輪さんは静かだった。
二言三言話すと黙る。そんな事を繰り返す間もお客の流れは途切れる事がなかった。
また入口のドアが開き、二人の男性が入って来た。
「いらっしゃいませ」
店の女の子が席まで案内しようとしたのを途中で断り、カウンター席に腰を下ろす。
私は大量のグラスの洗浄に奮闘中だった為、声を掛けるのが少し遅れた。
「・・・いらっしゃ・・・いませ」
「何でお前が此処に居る」
「何ででしょうかね」
今日は知り合いに遭遇する日のようだ。
「高橋様、も彼女のお知り合い?」
カウンターに座った客にママさんがご機嫌伺いにやって来た。
「・・・そうだ」
「このままカウンターで宜しいですか?」
「ああ、ここでいいよ」
ママさんはお客の名前が入ったボトルを用意して、それじゃあお願いねとフロアの方へと歩いて行った。
「あの、水割りにしますか?ロックにしますか?」
「ロック、ダブルで」
「私は水割りを貰いましょう」
「畏まりました」
うえー緊張するー。
いたずらした所を先生に見つかった時の気分に似ているのは何故だろう。
目の前に居るのはHIHの高橋部長と、本社の監査官殿である。
会いたい人には会えないが、会いたくない人には会うものである。それもこんな場所で会うとは、神様も悪戯が過ぎると思うのだよ。
「今日は自腹だ。勘違いするなよ」
「はい。って別に言わなくても良いでしょうが」
「なんだかな、ばつが悪い。お前を夜の世界に送り込んだ気分になる」
「あなたは随分庇いましたね。それを無視して異動させたのは私です。あなたが気にする事は無いですよ」
二人の会話に妙に居心地が悪い思いをするのだが、口を挟むのも面倒なのでグラスの洗浄を続ける事にした。
部長も監査官も黙って飲んでいる。時折こちらをチラリと見るが何も話し掛けて来ない。
カウンターの端に座っていた三輪さんも、黙って飲んでいる。
そろそろこのままではいけないかと思っていたら、部長がグラスを出しながら話し掛けてきた。
「泉から電話は行ったか」
「はい。時々話してます。ありがとうございました」
「そうか」
泉さんには会社経由で私の携帯番号を教えて貰ったのだった。
突然辞めてしまった事で一番困っていたのは彼女だったと思うし、仕事の割り振りでも私の分かる事は伝えておきたかったのである。
彼女も相談相手が欲しかったようで、事有る事に電話が掛かって来てはついつい長話をしてしまう。
那智さんの事も気にかけており、辞めてしまうのは勿体ないからと、彼のフォローの仕方を随分と聞いていた。
辞めてしまってからも、縁のある人とはこうやって続いて行くのだと思うと嬉しいものである。
監査官がグラスを差出し、何かを言おうとした時に、この店のバーテンが戻って来た。
ママさんと何か話してからカウンターに入り、私にお礼を述べてグラスを拭き始めた。
監査官の水割りを作って差し出してから、丁寧にお辞儀をしてカウンターから出る事にした。
三輪さんは相変わらずで、部長と監査官は小さく頷いていた。
出口に行くとママさんが待っており、今日のお駄賃だと言って熨斗袋を手渡してくれた。
それを丁寧に受け取り、お礼を述べて下へ降りて行った。
店に戻ってみると店内は混んでおり、宮さんと言葉を交わす暇も無くカウンターで注文を捌く事になった。閉店が一時間も伸びた所為か、体中が怠く足の感覚も無い。
宮さんはいつも通りにすたすたと歩いて帰って行く。
私もそれを見習って歩いて帰りたかったが、流石に今日はタクシーに乗り込む事にした。
「アゲハ」で頂いた熨斗袋を宮さんに渡したが、中身を確認する事も無くそのまま私に返すので、ついつい楽な選択をしてしまった。
しかし今日は本当に疲れた。
暫く忘れていた「会社」と言う雰囲気を、上司に会って思い出した所為だろうか。
しかし、ホッツーの結婚話で始まった楽しい筈の一日は、相も変わらず黒いスーツ姿の監査官のお蔭で色褪せてしまった。
夜のお店のお手伝いって楽しいです。これは実際に経験しているので忘れられない思い出ですね。キャバクラとかの着飾ったお姉さんに扮した事は有りませんが、バーのカウンターなら気軽なものですよ。でも、お手伝いだから楽しいのかも知れないですね。あれが本当に仕事としてなら・・・結構大変だと思います。