強引男子
「藤崎、消しゴム貸して」
次の日、だった。
学校についてすぐに、灰田は筆箱の中をみて何かに気付いた様子であたりを見渡す。
落ち着かないその様子に「どうしたんだ」と尋ねても、俺の筆箱を覗いただけですぐまた前を向く。なんなんだよ・・・と思いながら、灰田の後ろ姿を見つめていると、灰田がすっと自分の左の席に顔を向けた。
左の席は・・・藤崎美織。その人だ。
まて、何をいう。何をいうつもりなんだ。お前は。
灰田の視線は明らかに、文庫本に目を落とす藤崎をロックオンしている。
俺が灰田の背中を叩くより、灰田が口を開いたのが早かった。
灰田の声に、藤崎は数秒たってからやっと反応した。
すっと伏せていた顔をあげると、ゆったりとした動作で灰田に顔を向ける。
「・・・友達は持ってないの? 本田君とか・・・」
すっと藤崎の目が俺に向けられる。
藤崎のベビーピンクの唇から、熱い吐息とともに漏れた俺の名前は、これまで聞き覚えのないほど柔らかく耳に響いた。
藤崎が俺の名を呼んだ。というか知っていた!
クラスメイトだから当たり前だろうと、つっこむもう一人の自分を蹴りつけて俺は喜びにうちふるえる。
名前を覚えてくれていただけで、呼んでくれただけでもう十分だよ…。
くいくいと灰田の背中を引っ張る、もう十分だよと。
しかし灰田は俺の合図を無視して言葉を続ける。
「こいつが予備の消しゴムなんてもってるわけないだろう」
藤崎はじっと灰田を見つめたまま、机の中に手をいれる。
入れた手の先に持っていたのは透明の筆箱で、その中にはちっちゃい消しゴムが二個行儀よく並んでいた。
藤崎はそれを取り出すと、灰田の机の左上にちょこんと乗せた。
「ありがとな。次の休みに購買いって買ってくるから」
灰田のお礼に、藤崎はこくりと頷くと「返すの授業が全部終わってからでいいから」と言いながら、再び本に視線を落とす。
ほんのわずかな間だったが、灰田はあっさりと藤崎と会話をしてみせたのだった。
「お前・・・本当にすごいな」
藤崎の言葉を何度も、何度も頭の中で擦り切れるほどに再生する。
「知らなかっただろ」
「知ってたけど、知らなかった・・・」
俺を知っててくれた・・・。
もういいや・・。
目を閉じながら幸福感に酔いしれていると、灰田の手が俺の肩をがしりと掴んだ。
「おい。まだなんにも始まっていないというのに、お前なに達成しました的な顔してんだ?」
灰田のもっともなその言葉に、浸っていた時間を邪魔されて俺は不機嫌もあらわに顔をあげる。
たしかに、灰田のいうことはもっともだ。
今はただ名前を、名字を呼んでもらっただけで、それ以上でもそれ以下でもない。
俺の喜びの基準が低いのは重々承知だ。
中学校になって異性を意識したとたん、女子と話すのが億劫になった。
恥ずかしさが大きいが、もう一つの原因は女の子の恐ろしい一面をみてしまったことだろう。
ニコニコ笑いあって「私たち親友よね」といっていた二人が裏では・・・・。という有りがちなそれだが。
当時中学生という多感な時期であった自分にとって、それは衝撃的だった。
「確かにそうだよ! でも、もういいよ。なんか、そういうの・・・」」
女子、苦手だし。
口では色々言えちゃうけどね。
あははと乾いた笑いをもらしながら、片手をあげると灰田は俺を勇気づけるように肩を掴んだ。
「大丈夫。俺、きゅーぴっと」
灰田の片言のきゅーぴっとの一言と、満面の笑顔に・・・こいつが完全に楽しんでいるのがわかった。
確かに、俺が逆の立場だったとしたら、灰田みたいな行動力はないだろうか見えないところで色々いうだろう。自分のことじゃないから。
あとそういうのは見てて楽しいし。
灰田の根拠のない大丈夫だの一言と、肩を大きな掌で揺らされることで無理やり頷かされながら俺はおもった。
やられた当人には、笑えない、と。
かくして、俺のれんあいじょーじゅ作戦は始まったのだ。