右斜め、一席後ろ。
彼女の背はいつもまっすぐで、つま先から頭の先までピンと糸が張られているのかと錯覚してしまうほどに―――きれいだった。
その清麗といっても過言ではない彼女は、他のクラスメイト達が眠いからといってだらしなく机に顔を伏せたり、化粧直しのために老婆のように背を丸めて鏡を必死で覗き込んでいる女子生徒たちの中で凛とそこに佇んでいた。
僕は小学校の時の修学旅行の時にいった、隣県の有名な寺院でバスガイドに受けた説明を思い出す。泥の中から数千年ぶりに生まれ出たという一輪の蓮の花を。
柔らかく、なまぬるい、ねっとりとしたいやらしい感触の泥から顔を伸ばしたそれは、そんな汚い場所から産まれでたと思えないほど、美しく清らかで遥か昔にどこぞの国で男と通じずに子を孕んだという聖女の頬笑みが頭にふっと浮かんだ。
聖母とは人間の男には触れられないもので、蓮の花はお釈迦様の周りに咲く花だ。
つまり彼女は俺の手の届かない人。
でも、別にそれでいい。
見つめるだけでいいのだ。
学生時代に好きな人がいて、その人の席が近かった。それだけで十分なのだ。
彼女の名は藤崎美織。
俺の名前は本田馨。
名字の始まりが『ふ』と『ほ』である僕らの距離は、入学式からまだ一度も席替えのしていない今の時点はこうで、今は希望的観測から未来があるように言っているがたぶんこの距離が縮まることはずっとない。
……右斜め、一席後ろ。
俺と君の距離はこれ。
ずっと変わることのない、この数メートル。
(あっ……)
昨日、発売されたばかりのゲームを徹夜でやっていたために、俺は半分寝たままで前から回ってきたプリントを受け取る。
前の男子はいつものことだが、今日も後ろも振り返らずに後ろ手でぞんざいにプリントを投げてきた。
空中に放られたことでひらひらとまったそれを、俺は両手をぱしんと合わせることによってキャッチする。
いつもの、何気ない動作だった。
ぱしん。
教室に小さく響いた、俺の掌。
普段だったら、自分も誰も気がついたとしても無意識に意識から排除するであろうその音に、右斜め一席前に座る彼女の肩がぴくりとゆれる。
肩先で切りそろえられた黒髪がゆらりとゆれたかと思うと、その陰からほっそりとした白い顎先が現れる。
授業中に黒板ではなく、彼女をみることがこの学校にはいってからの一カ月の間ですでに習慣となっていた俺は眼をそらすこともせずに、むしろ食い入るようなまなざしで彼女の動きを見守った。
スローモーションのように、彼女の高くはないがすっと通った鼻梁、マスカラもつけていないのに黒くて長い少し伏し目がちな瞳を縁取るまつ毛が揺れる。
瞳を一つ、またたくその瞬間、彼女の深いまつ毛が日の光で光るのを確かに俺は見た。
すっと切れ長の猫目が俺に焦点を合わせたときに、瞳の中の一番黒い部分がきゅっと狭まるのを俺は確かに見たのだ。
刹那のその瞬間は教壇に立った教師の一声で終わりをつげる。
瞳はすでにそらされた。
いつも後ろ姿しか見せない彼女は、確かに先ほど俺をみた。
「俺を」というのは俺にとって都合のいい間違いで、実際の所はたまたま耳に障った音の正体をつかもうとしただけだろう。
しかし、しかし、彼女がこちらをみたのは確かな事実であり、それが妄想だけが趣味な童貞男子の哀れな妄想ではなかったことが、また微かに揺れている彼女の肩口で揺れる髪が知らしめる。
ふつふつと胸のおく、いやもっと下から湧き上がってくる何かに俺は思わず身を捩ると、あふれ出そうになるそれを抑えるために、眼の前でだるそうに背伸びをするこの学校に入って初めて話した灰田誠の椅子を後ろから軽く蹴りあげた。
灰田は伸びをしたついでに「なんだ」と言いたげな眼で、上体をそらしてこちらに眼をむける。
ちらっと眼をむけるだけならよかったものを……、男としても大柄な体をもつ灰田のそれは教室の中で一際めだった。
あきらかに話を聞く気がない灰田の姿が、教壇の前にたつ教師歴云十年の男子教師の眼に入らないわけがなく、「こんらっ!灰田!」という叱咤の声が飛んでくる。
当然のことながら、それまで手渡されたプリントや机の中の携帯などに向けられていたクラス中の注意がこちらに向けられる。
灰田は「すみませーん」と間延びした声で謝ると、教室中でひそやかな笑い声がおこる。
くすくすと、でも嫌な感じではないそれは、灰田のでかい図体とその上にちょこんと乗った小さくて整った顔立ちのせいだろう。
教室がざわめく中で、怒られた灰田にかるく手を挙げることで許しを請いながら、俺はそっと右斜め前に眼を向ける。
―――彼女は、本田美織は先ほどと姿勢をいっさいかえることなく、この教室のざわめきから一枚膜を隔てたような静けさをまといながら、静かに前を見つめていた。