その男、救いか、深淵か。
深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
フリードリヒ•ニーチェ『善悪の彼岸』
それは、晴れた冬の日のこと。リサはバルト海に面した、とあるビーチに向かっていた。真冬だというのにビーチに足を運ぶ理由は、リサが港町生まれで、海に愛着を持っていたからだ。
スマホの地図アプリを開きながら、リサは船着場で船を待つ。橋のかかっていない穏やかな流れの川の前には、屋根付きのバス停のような船待ち場があった。船着場の壁には、船の行き先と発着時間が書かれた表が貼られているが、英語ではないのでリサには読めない。リサは船待ち場のベンチに座っていた老婆に、地図アプリを見せながらビーチに行くにはこの場所で船を待っていていいのかと尋ねた。老婆は聞かれた意味が分からなかったのか、困ったような表情でリサを見る。リサは自分の拙い英語が伝わらなかったのかと、老婆の隣に座っていた娘と思われる女にもう一度尋ねた。女はまた、困ったような顔をする。再度、女にリサが訪ねようとした時、後ろから声をかけられた。
それは、荷物のたくさん詰まったリュックザックを背負い、ニット帽を被った中年男性であった。英語の訛り方や立ち振る舞いから、彼も旅行者か、この国に来たばかりの外国人のように思えた。彼は聞いてもいないのにリサのスマホアプリを覗き込んだあと、その行き先ならここで船を待っていれば大丈夫だ、自分も同じ船に乗るからここで待とう、と言った。リサは手短に礼を言い、男に何処から来たのかと訪ねた。男の出身は、ここより東にある別の国で、今はこの国に働きに来ているのだと答えた。リサは、自分は日本から来て、今は旅行に来ていると伝えると、男は、てっきりマレーシアかタイ人だと思っていた、日本人だったのか、とリサに言った。
数分後、小型のフェリーがこちら側の岸に向かってきた。男の言うことを疑っていた訳ではないが、リサは少し安心した。乗客は次々と船に乗り込む。青色に塗られた硬い腰掛けに座ろうとしたところ、先ほどの男がパンパンに詰まったカーキ色のリュックザックから、これまたカーキ色のシートを取り出してリサの座ろうとしていた椅子に敷くと、ここに座れと言った。シートは一人分のスペースしかないのでリサが断ると、男は、君は女の子なんだからここに座りなさい、お尻が汚れてしまうでしょう、と自分はそのまま隣の硬いままの椅子に座るので、リサは礼を言って男の敷いてくれたシートの上に座った。
ぶーー、と音が鳴って、フェリーは動き出す。青空と、眩しいくらい差し込む白い太陽と風が心地良かった。それほど遠くないように思える川の向こう岸に着くまでの間、リサは船の外と、隣に座った男の顔を交互に見ていた。男も、時々リサを見つめながら、眩しそうに目を細めていた。
船着場で降りた先の地面はぬかるんでいた。昨夜の雨のせいだろう。ヌルヌルと滑りそうな泥を避けてリサは船着場から歩道に向かった。いつの間にか隣にあの男も歩いている。何処に行くのかと尋ねると、男は知らない岬の名を口にした。地図アプリで検索すると、目的地のビーチからはやや離れた場所にあった。リサはアプリの案内に沿って道を進んだ。男も並んで歩いてきた。やや不審に思ったが、方向が同じなだけで途中で別れるだろう、とリサは気にせず進んだ。リサが鼻をかんで、少し咳をすると、男は風邪をひいているのかと訪ねてきた。リサは数日前まで滞在していたイギリスで体調を崩していたが、治りかけていたのでノーと答えた。男は、そうか、と言って、自分の娘は昨日まで熱があったが今はもうすっかり元気なんだ、と何故か嬉しそうにリサに話した。リサはこの男に娘がいたのか、と思った。男の身なりからは、どこか独身男性を想像させる男臭さがあったからだ。
リサはアプリの案内に沿って真っ直ぐ道を進む。目的地までは、あと5キロ程ある。せっかくなので、お互いが別れるまでの間、リサはこの男と話すことにした。男の英語は息継ぎが多く、また一方的にたくさん話すために、リサの頭は理解が追いつかなかったが、なんとか相槌を打った。一人で海外を旅するのが初めてのリサにとって、異国で出会う人との話はどれも貴重で、少しでも新たな気づきや情報を持ち帰りたいと思った為だ。男の話を聞き、また時々質問を交えながら、随分と歩き進んだ。
住宅街を抜けて大通りに出ると、店がたくさん並んでいた。男は緑色の看板を指差して、少し休憩しないか、と言った。目的地まではあと1キロ程で到着するため、リサは、自分は休憩は必要ないから先に行くと伝えたが、男はコーヒーが飲みたいと言って店に向かっていく。リサが無視して歩き出すと、一緒に来い、と男が振り返る。面倒臭いので男がコーヒーを買うのを見ていることにした。
この国のあちこちに店舗があるそのコンビニで、男は店員にコーヒーを注文した。リサにもどんなコーヒーが好きか、と男は尋ねた。リサは、コーヒーは要らないと言ったが、男は無視して再度聞いてきたので、ミルクと答えた。リサは普段あまりコーヒーを飲まないので、味の好みなど分からなかった。男はコーヒーが並々と注がれた紙カップを店員から受け取ると、片方をリサに渡した。男はリサに砂糖はいるか、と聞いた。リサは断わった。ああ、と男は生返事をして、カウンター端に置かれた砂糖のステックを、七本ほどカップにぶち込んだ。すごい量だ、とリサが驚いていると、男はお前の分だと言って、リサに砂糖のステックを一本渡してきた。
店に座る場所がなかったので、道路沿いにある古びたコンクリートの端に腰掛けた。受け取ったコーヒーを見つめながら、リサは、これは口にしても大丈夫なのだろうか、と一度警戒したが、コンビニの機械で一瞬で入れたコーヒーだし大丈夫だろうと口にした。店員やこの男がグルであるという可能性は考えないようにした。一口飲むと、コーヒーの香ばしい香りとミルクのまろやかさが口の中に広がった。胃のなかが温まっていく。リサは自分の体が冷えていたことに気がついた。青空が広がる晴れの日だとしても、この国の冬は、日本より寒い。カップを包む指先がじんわりと温まっていくのを感じた。ふと、この男の名を聞いていないことに気づき、リサは尋ねた。
「アレクサンドル」
男は答えた。
アレクサンドル。リサは隣に座る男の顔をまじまじと見ながら復唱した。男の乾いた肌には短く剃られた薄茶の髭が生えており、薄い唇だけが唾液で濡れていた。瞳は灰色がかった青い色をしており、目元には皺が何重かになっている。ニット帽を脱いだ頭には、よく見ると短い毛が生えており、リサは動物園で見たゾウの頭か、ハダカデバネズミを想像した。
「飲めたか、いくぞ。」
アレクサンドルはいつの間にかコーヒーを飲み終えていたので、リサは、まだ、と答えて無理やりコーヒーを流し込んだ。一気に胃が膨れる。全身が温まって、意識が弛む。二人は立ち上がってまた歩き始めた。
大通りを抜けると松林が広がる細い道に出た。海の近くでは、この国も松が生えているのか、とリサは故郷と目の前の風景を重ねる。
アレクサンドルは徐にスマートフォンを取り出すと誰かに電話をかけた。
「Hey!What’s up?」
女性の声がした。画面には、ブロンドの髪をした女の人と、褐色の肌の少女が映る。妻と娘だ、とアレクサンドルはリサに言うと、リサを画面に映して、
「彼女はリサという日本人で、途中で出会ったんだ。」
と、上機嫌で妻と娘に紹介した。
「Hey,Lisa. Hello.」
「Hello.」
いきなり夫から電話がかかってきて見知らぬ国の女を紹介されて、この奥さんはどんな気持ちなんだろうか、とリサは考えた。何処となく、奥さんの笑う口先が引き攣っているような気がしてリサは気まずかった。アレクサンドルだけが機嫌よく妻と娘と話した後、ブチっと電話を切って、今のが俺の奥さんと娘なんだ!とリサに嬉しそうに言った。リサはこの男が何かしらの犯罪組織の一員で、何かを企んでいるという事は無さそうだ、と判断したが、それにしてもいきなり家族にビデオ通話で自分を紹介するなんて変な奴だと思った。アレクサンドルは、ふうーっと長く息を吐いた後、何やら落ち着かない様子で、トイレに行きたいからここでちょっと待っていてくれ、とリサに説明して松林に消えて行った。リサは、この国では林の中で用を足しても良いのだろうか、と一瞬気に留めたが、ここは自国ではないので、細かいことは気にしないことにした。数分後にアレクサンドルは林の中から出てきた。手を繋ごうとしてきたので、リサはさりげなく断った。
松林が並んだ道を抜けると砂浜が広がっていた。目的地だ。ビーチは真冬だというのに賑わっていて、人々は波打ち際で遊んだり、写真を撮って楽しんでいる。真っ青に広がる海の端には、赤と白のストライプ模様のガントリークレーンがいくつか並んでいた。
リサは遠くに見える貨物船を眺めて目を細める。澄んだ青緑色のビーチもいいけれど、やはり故郷を連想させるような、港がある海に惹かれてしまう。
せっかく自国を飛び出して冒険しようと旅に出たのにも関わらず、ノスタルジーに浸っていることに気づき、リサは自嘲した。
アレクサンドルは、しばらく一人で感慨に耽っているリサの横で退屈したらしい。リサに写真を撮らないか、と言ってリサの体を隣に引き寄せた。そのあまりの力強さに、リサは思わず、猛禽類が獲物を掴むシーンを想像する。頬が触れそうな程近い。一瞬戸惑ったが、旅行中に何度かツーショットを撮るときは、皆距離が近かった事を思い出し、彼は自分に心を開いてくれているのだと思い直した。アレクサンドルがカメラを向ける。リサは反射的に微笑んだ。
海風に吹かれていたらトイレに行きたくなった。リサはアレクサンドルに、この辺りにトイレがないか尋ねる。アレクサンドルは周りを見回すと、カフェのような建物を指差し、あそこにあるかも知れないと言ったので向かうことにした。
海辺に一つしかないそのカフェには人が集中しており、トイレの前には列ができていた。リサはアレクサンドルに、カフェの外で待っていてくれと言ったが、アレクサンドルは紅茶を飲むからいい、行ってこい、と言い、店内に消えた。
リサが戻ると、リラックスした表情でカウンター席にアレクサンドルが座っており、テーブルには湯気を立てた紅茶が置かれていた。アレクサンドルの前には、飲み掛けのコーヒーが置かれている。
「紅茶でよかったか?」
リサは小さく頷いて隣に座る。正直飲み物は欲していなかったが、リサはカップの端に口をつけた。カウンターの向こうで忙しなく飲み物を用意する店員の動きを目で追いながら、リサは海外だと、席を外していた際に飲み物に睡眠薬を入れられている可能性があるから飲むな、という忠告を思い出したが、口に含んだ紅茶と一緒に飲み込んだ。
何も話さず、店内の人の動きだけを目で追うリサの横顔を、アレクサンドラは嬉しそうに見つめていた。こうして隣に並んでいると、まるで父と娘のようだ、とアレクサンドルは満足げに笑った。




