阿呆みたい A Hold Me Tight
母はわたくしの世界の全てだった。
世界にはお菓子とお母さんしかいなかった。
物心ついた時を覚えている。
それは四歳だった。
四歳の時だった。
テレビの前でわたくしのオムツを替えている母親と、保育園に向かう兄の姿だった。
その光景でわたくしの世界は始まった。
わたくしの生涯は始まった。
わたくしの後悔は始まった。
母は愛情深い人だった。人一倍。
愛情を注いでくれた、このゴミ箱に。
だけどゴミ箱には穴が空いていた。
最初から空いてた訳じゃない。
ゴミ箱になる前のわたくしは、まだ血の詰まった肉袋ではあったと思う。
切欠があるとするとあの時か。
今も夢に見るあの時か。
ちいさいわたくしはずっと走りたかった。
いつもいつでも走りたかった。
走るのが楽しくてしようがなかった。
短くても走った。
距離が短くても、時間が短くても。
教室から隣の教室に向かうのだって走った。
五分だけの空き時間でも走った。
走り回った。
身体から放たれるエネルギーを抑え込めなかった。
オトナになった今なら分かる。みんな大人だから落ち着いているのではなくて、じっとできるのではなくて、エネルギーがなくなったのだ。
まぁ、わたくしは大人になれなかったオトナだが。ただ年をとっただけの子供だが。
話がそれた、それました。思い出したくないからかも。だから迂遠になりました。母とのことを書き付けます。ちゃんと思い出し、書き付けます。
ですからどうかご贔屓に。
わたくしは母が大好きでした。この世の何より大好きでした。いえ、今でも愛しております。今でもいつでもいつまでも。いくら彼女に嫌われても。わたくしが老いさらばえても、死してなお。
世界のすべては母でした。朝起きて、見る物も。昼にご飯をくれるのも。夜に抱きつき眠るのも。こわいオバケが来ないのも。
全然彼女でした。彼女のおかけでした。
それは言葉で表せられません。
御言葉如きで現せられない。
わたくしがあの方へ向ける愛を、言い尽くしてる言葉があるか?言い尽くし得る言葉があるか?言い尽くし終える言葉があるか?
そんなものはこの世の何処にもない。きっとこの胸の中にしか、だけどもこの胸は孔だらけ。
家庭で亡いまた一つ。
学校で亡いまた一つ。
社会で亡また一つ。
孔の空いたゴボウのような人間です。
腐ったゴボウの人間です。
どうぞ嗤って下さいお願いします。
臭いものをみるように、鼻を摘み嗤って下さい。鼻摘み者とて笑えましょうか?
花を摘むやうな人間が、花のように咲えましょうか?
鼻摘み者とて後ろ指を指される者が、花のように太陽を向いて咲ましょうか?
わたくしは太陽に向いていない向日葵です。太陽に向いていないニンゲンもどきです。
しかし、母は違います。彼女は太陽に向いている人間です。しかし決して太陽のほうを向いている人間ではありません。太陽になるのに向いているのです。
――原始、母は太陽でありました。
わたくしの世界を照らす太陽でした。
わたくしが『トイレがこわい』と言えば、やさしい彼女はこんな糞袋のわたくしが、わたくしが用を足すのをやさしく見守ってくれました。
わたくしは寒くもないのに彼女の脚にまとわりついていました。きっと鬱陶しかったことでしょう。きっと辟易していたことでしょう。
こわいテレビをみて、独りで寝れない時は一緒に寝てくれました。少し咳をするだけで心根からの心配を頂戴致しました。わたくしは咳をしても独りではなかったのです。決して。
わたくしが兄と遊んでいると、創意工夫でもって遊びをもっともっと楽しくしてくれたものでした。
公園に行く齢になっても、わたくしはいつも彼女の脚にしがみついておりました。他の子らが友達を作り、友と走り回っている時、わたくしは母から離れませんでした。
何かあれば母に話して褒めてもらおうと、驚いてもらおうとしました。兎に角全てを母に伝えたかった。わたくしの目が耳が鼻が肌が舌が感じる全てのものを彼女に伝えたかった。
然し少しして、わたくしも走り回ることを覚えました。世界を見ることを覚えました。脚にしがみつくのではなく、この両の足で地面を蹴り飛ばし、世界を動かすことを知りました。
地をければ景色が後ろに流れていき、気分が高揚し、きれる息さえ心地よかった。生きている気がした。僕の血は鉄の味がする気がした。
そう回り回って戻って参りました。
わたくしは走りたかったのです。
ポケットに何か詰め込むのは嫌いだった。走るのに邪魔だったからです。まぁ、今ではわたくしこそが邪魔者で社会の鼻摘み者なのですが。
それはある日のことだった。
それはあの日のことだった。
今でもしっかり覚えてる。
今でも脳髄にこびりついている。それは、その記憶は便器にこびりついた糞のやうに、わたくしの脳髄から離れない。
母への信を亡ったあの日の出来事。これはそんななんでもない日の出来事だった。
「近くのスーパーにお使いに行ってきてくれない?」
そう言われてわたくしは歓喜の調べに包まれた。母に頼られたことが、こんなわたくしでも母の役に立てるということが、どうしょうもなくうれしかったのです。
三枚ばかりのお札を貰い、二つ返事で引き受けて、一歩踏み出し家を出た。
景色を後ろに飛ばしてた。お金と買うものを書き付けた紙がポケットで邪魔だった。でもしょうがないと走ってた。
赤信号で足を踏み。青信号で足早に。
貴女のために、貴女のために。
早く帰り、抱きつくために。『偉いわねぇ』って褒めてもらうために。頭も撫でてくれるかな?そんなこと考え往路を往く。
暑い日だった。だから今でも暑い日は苦手だ。
しかしずっと覚えてる。あのスーパーに入った時の激しい冷気を覚えてる。
自動ドアが空き切るのもまてずに、カゴを引っ掴み駆け込んだ。メモとにらめっこしながら歩いてた。
一つまた一つと詰め込んで重くなったカゴを両手で抱え。胸の高さのレジに乗せ、お金を払って、袋に詰めた。そしていつの間にかクシャクシャになっていたレシートを捨て、外に出た。
ここまででやったあることがよくなかった。
馬鹿で愚かな子どもだった。
ムワッとした熱気に晒されて、腕いっぱいにスーパーの袋を抱え走り出す。母を思いて走り出す。あの笑顔を思い走り出す。今では靄のかかったあの笑顔。
袋とお金を渡したわたくしを待っていたのは『ありがとう』でも『よくできたわね、えらいわよ』でもなかった。
それは――
今でも思い出すそれは……
《……レシートは?》
だった。
褒めて撫でて抱きしめてくれることを所望していたわたくしは、すぐに答えました。
『はしるのにジャマだからすてた!』
そうすると母の顔からは表情が抜け落ち……みるみるうちにある感情へと変異していきました。
わたくしが予想だにしなかったこと――
その“感情”は……
……“怒り”だった。
『なんでそんな証拠隠滅みたいなことするん?』
……?……わたくしは意味がわからなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。
『なんでそんな証拠隠滅みたいなことするん?』
……もう一度言われた。
その時のわたくしは“しょーこいんめつ”が何なのかも、何故喜ばせようとした母が怒っているのかも分かりませんでした。
……そして“しょーこいんめつ”が“証拠隠滅”だと知った時あの時だったと思います。
――あぁ、わたくしがこの世で誰より愛する人は、わたくしをこの世で誰より愛してくれている人が、わたくしを信じてくれてはいないのだと。
そして、四歳の時にある真理に気がついた。
阿呆みたいに抱きしめてくれる信じてたのに。
……生みの母すらわたくしを信じてくれないのなら、これからいったい誰がこんなわたくしを信じるというのか――?




