3-1 蒼瑛と母の芙蓉妃
昼下がり。蒼瑛が書斎でいつものように、山と積まれた書類に目を通していると、陳偉がやってきた。
「衣装の件で捕らえられた犯人は、紫雲の名を出していました。彼女にけしかけられたと」
紫雲――後宮出身の楽府の歌人だ。
蒼瑛は言う。
「けしかけたとは? 指示された訳では無いのだろう?」
「はい、なんでも翠蓮殿が孤児だと言う噂を流布していたようです。
紫雲は十代前半で、後宮の歌坊に入っています。しばらくはぱっとしなかったようですが、二年前から大きな役を与えられていますな」
蒼瑛は筆を止め、書類を横に置く。
「二年前に何かあったのか?」
「炎辰殿下と出会ったころでしょうな……」
「兄上と出会ってから、歌の才能が伸び始めたと?」
陳偉はもごもごと言う。
「紫雲殿は、炎辰殿下と関係がお有りなので」
「……兄上の想い人ということか?」
蒼瑛は驚いた顔で聞き返す。あの兄に、特別な人がいるとは知らなかった。
「いえ……炎辰殿下の "複数" いらっしゃるお相手の一人ということです」
蒼瑛は、その言葉を聞いて固まった。
「……そ、それは……規律違反ではないのか?」
皇子は女性関係も政治事の一つとみなされるため、本来は皇帝や皇后の許可なしに" そういったこと "は御法度のはずだった。
あまつさえ"複数"いるということに蒼瑛は衝撃を受けていた。
陳偉は歯切れ悪く答える。
「表向きはそうでございますが……皇帝陛下は黙認されています。」
皇帝自体が奔放で、皇子たちを縛りつけるタイプではない。おおよそ、成人した息子の女性関係に口出しなどしたくないというところか。
蒼瑛は、頭の中で炎辰の挑発を思い出す。
――翡翠の鳥はどんな声で
「いやいや……」
その続きは思い出さぬように頭を振る。ただの揺さぶりと思ったあの台詞だが、まさか、兄は本当に翠蓮を"そのような"対象として見ているのか。
蒼瑛は気分が悪くなってくる。
「そうか……。英雄色を好むと言うからな……」
どこへ向けていうでもなく、自分を納得させる。
蒼瑛は気を取り直し、改めて衣装破損の件に話を戻した。
「とにかく、指示したわけではないなら紫雲を罰することはできないな。
紫雲は厳重注意とするか」
「かしこまりました」
蒼瑛は書斎を出ると、後宮にある貴妃宮へ足を運ぶ。皇帝である父より「たまには芙蓉の元へ顔を出せ」と言われたためだ。
母親との関係は悪くないが、蒼瑛は後宮が苦手だった。
化粧や香のむせ返るような匂いのせいなのか。はたまた、ここにうずまく欲望のせいなのか。後宮は蒼瑛を陰鬱とした気持ちにさせる。
そもそも、幼少期に育った後宮にいい思い出がなかった。常に比べられ、庶子と蔑まれ、周りからの評価に応える日々――
「嫌なことを思い出したな……」
蒼瑛はため息をつくと、扉を開く。
「待っていましたよ、蒼瑛。久しぶりね。」
「ご無沙汰しております、母上」
蒼瑛に母と呼ばれるこの女性は柳 芙蓉。
柔らかく微笑む姿は、年を召したとはいえ、絶世の美女揃いの妃嬪の中でも、未だに人目を引くほど美しい。
彼女は皇帝の寵愛を一身に受け、蒼瑛の出産後に、淑妃から貴妃に封号を上げた。
「蒼瑛、あなたちっとも来てくれないんですもの」
少し寂しそうな母を見ると、蒼瑛は悪かったなと言う気持ちもある。
彼は芙蓉妃を、母として貴妃として敬愛している。だが、他愛ないおしゃべりを楽しむことは気恥ずかしかった。
蒼瑛は目で着席を促され、芙蓉妃の前に座る。
「ご無沙汰しております。忙しくてつい……」
「いいのよ、あなたももう成人したのですから。母も子離れして楽しんでいますよ」
芙蓉はふっと微笑む。
"子離れ"の言葉通り、芙蓉妃は皇帝や蒼瑛に依存せず、後宮での自分の役割を見つけ日々忙しく過ごしている。こういう明るく自立しているところが、皇帝の寵愛を得る所以なのか。
彼女は真剣な顔になると、蒼瑛をじっと見る。息子の表情に疲れを見て取ると、諭すように言う。
「あなた……また無理してるでしょう」
「……別にしていませんよ」
「昔からすぐ、いい子になろうとするんだから」
「もう"いい子"という年ではありませんよ……母上こそ……」
話題をそらそうと思った時に、母の目元に深いクマがあることに気がつく。
芙蓉妃は指で目の下を指さした。
「あぁ、これ?嫌ね年を取ると……」
「眠れないのですか?」
芙蓉妃は寂しそうに下を向く。
「後宮の女性は、皆不眠症よ」
重くなった空気を察し「冗談よ」と言い添えられるも、愛されず、一人部屋で待つだけの妃嬪たちを見てきた蒼瑛は笑えなかった。
貴妃宮を出た蒼瑛は、暗い気持ちだった。
(母も貴妃として寵愛を受けていても、孤独な夜もあるのだろうか)
夏が近づき、日は徐々に延びている。
まだ明るい空を見て考える。
(なぜ一人の女性では駄目なのか……後継者が必要だとしても、数百人規模で妃を持つ必要が、どこにあるのか)
女性達の心中を考え出すと、結局いつも、後宮という制度自体に反発を覚える。
暖かい風に、蒼瑛はふと翠蓮を思い出す。
(彼女には、一生無縁な気持ちであってほしい)
想い人を待って、ひたすら泣き暮らす人生なんて、翠蓮には送って欲しくない。
「後宮に行くと、いつもこうなるな」
蒼瑛は、暗くなりがちな思考を振り切った。
◇ ◇
その数日後だった。蒼瑛が皇帝から思わぬ依頼を受けたのは。
「楽府歌人である翠蓮を、芙蓉の寝殿に遣わすように」
青天の霹靂だった。




