6話 出発前夜
小屋には燭台の灯りだけが揺れている。
薄暗く、だがどこか暖かな光りの中、小人たちの賑やかな給仕で夕食を終えた。
暖かい食事は、物思いに沈んだ田崎の心と体にわずかな活力を与えてくれた。
——嘆いていても仕方がない……
帰るために、出来ることをやるしかない。
「チョーローはもちろん、来てくれるよな?」
しかしチョーローは首を振った。
「わしは結界を張らねばならん。この里を開けるわけにはいかんのじゃ……」
うちのじいちゃんと似たようなことを言う、と田崎は苦笑した。
「だけど通訳とナビ、あと、その”影伝え”だったか。それができる小人は他にいるのか?」
田崎は、十二年前に小人の里に来た時のことを思い出していた。
あのとき、妙にタイミングよく小人たちが集まり、薬から食事から用意してくれていたが、そういう便利な伝達手段があったとは……
「いるには、いるが……」
チョーローが渋い顔をした。
小人たちは食べ終わった食器を賑やかに下げると、またぞろぞろと帰っていこうとした。静かになった小屋で、チョーローが田崎たちが座った寝台を杖で指す。
「モーイ! いつまで寝ておる! 起きんか!」
そのとき、未来が座った寝台の手をついた先で、丸めてあった汚い布の塊がモゾモゾと動いた。
「きゃ!」
「うーん……うるさいなあ……寝られやしない……」
小汚い布がひっくり返ると丸々と太った小人の顔が覗いた。
流暢な日本語で答えながらあくびを一つ。
「よっこらせ」
言いながら起き上がる。
「ちょっとごめんよ」
未来の腕にもたれかかった。
「ちょっと……重くて臭いんだけど……」
嫌そうな顔をして未来が腕を引っ込めると、その小人はひっくり返った。
「ひどいなあ……」
チョーローは深くため息をついた。
「こやつは、モーイ。まあ天才じゃ。十二年前まで日本にずっと住み着いておった変わり者でな……」
「またマック食べたいなあ……『進撃の巨人』面白かった。『ハンターハンター』の続きも気になる……」
「あなた、何しに来てたの?」
未来は怪訝な目をしてモーイに尋ねる。
「……そんな、ニートを見るような目で見ないで欲しいな。僕は文化人類学の研究を……」
ぶつぶつ言うモーイは、確かに性格に難がありそうだった。
「わしは里を離れられん……通訳が出来て影伝えができるのは、こやつしかおらん」
田崎は不安な目でモーイを見た。
「あとはイリナ、あの娘も役に立つ。車に乗せてやってくれ」
いつの間にか、全員で助けに行く段取りになっている。
「奥方と娘さんは留守番じゃな?」
「やだッ! パパとママと一緒が良い!」
「わたしも行きたいわよ」
未来が天井を仰いだ。
「あーあ。リューシャさんにも会いたかったな」
未来は碧の目を覗き込む。
「でも……碧。またさっきの猿みたいな化け物みたいなのが出るのよ。ママとお留守番ね」
羽猿の凶悪な顔を思い出して碧の顔が強張った。
「……でも、一緒にいくもん」
「碧、ここだったら安心だよ。チョーローもママもリーもいる。小人たちも遊んでくれる」
「ケイ……お兄ちゃんも……?」
ケイは顔をしかめながら立ち上がってチョーローに何かを言う。
「怪我は大したことはない。母さんを救いにいきたいと言っておる。……連れて行ってやってくれ」
それからケイは壁に向かって歩いていった。そして壁にかかってある小刀を一つ手に取ると碧の前に戻ってきた。無言で差し出す。
「くれるの……?」
皮を張った鞘に、文字のような紋様が刻まれている。
「……きれい」
鞘から抜くと、冷たい刃が鈍く光った。
「……すごい……ほんもの……帰ったらみいちゃんに自慢しよ」
はっと顔を上げると田崎の顔を見る。
「くれるって! パパ、もらっても良い?」
どうしたものかと未来は田崎の顔を見た。
「使う時は、ママかパパにちゃんと言うんだぞ。危ないからな」
碧の目がぱっと輝いた。
「ありがと。ケイ兄ちゃん。わたし、碧。アオ」
碧は自分の胸を叩いて名乗り、手を差し出した。
『……アオ? ****』
戸惑った様子で、ケイはその小さな手を握り返した。
『ありがとう。ケイ』
田崎がケイに、覚えている数少ない現地語で伝えた。
驚いた顔をしたケイが捲し立てるように口を開いた。
「分からないから、ごめんね。チョーロー? なんて言ってる?」
「王都まで一緒に行く。父さんと一緒に母さんを助けに行きたいと言っておる」
チョーローはあくびをして伸びをした。
「もう夜も遅い。明日の朝、出発で良いかな? イリナに地図を持ってくるよう伝えておく」
そう言ってチョーローは、文句を言うモーイの首根っこを掴んで小屋を出て行った。
取り残された田崎一家とケイ。
賑やかだった小屋が静まり返る。
「碧はもう寝なさい。その前に歯磨きしてこようか」
「やだ、眠くない……」
そう言いながらも、碧の目はとろんとしていた。
「碧、もう限界でしょ」
「……とっとだけ眠い」
呂律が回っていない碧に、未来は苦笑した。
碧と未来は手洗いのため小屋を出ていった。
そして、田崎とケイは、二人きりで取り残された。
「ケイ……」
改めて向き合うと、何と声をかけて良いか分からなかった。
ケイは立ち上がり机に向かう。傷の痛みはあるはずだが、それを感じさせない背中だった。左手の紋様は、不安定なバッテリーのように明滅を繰り返していた。ケイはデスクの引き出しから一冊の手帳を取り出した。
それは田崎の父の手帳だった。
「これは……あの手帳……」
巌窟寺院で無くした父の手帳……大事に取っておいてくれたのか。
この手帳を片手に、この小屋でリューシャと過ごした短い時間を思い出した。
田崎の父がこの異世界に迷い込んで、すでに二十四年が経っている。
紙は茶色く変色し、ところどころ破れていた。手帳を受け取り、後ろの単語帳を開く。薄暗い中では文字は読めない。
『ケイ……ありがとう』
田崎はケイの目を見た。言葉は通じなくても、心は伝えたい。
「トオサン、来るの遅くなってごめんな……リューシャと二人で苦労したろう……」
『トオサン……』
ケイは目を真っ赤にしてうつむいた。その表情だけで、彼がどれほど父を待ちわびていたかが痛いほど伝わってきた。
「大切に保管しておいてくれたんだな……」
そのとき、ケイの左手の紋様が、単語帳に書かれた現地の文字と似ていることに気がついた。
「ケイ……それ文字か?」
田崎の視線に気づくと、ケイはパッと左手を隠した。
その時、碧とケイが部屋に戻ってくる。
ケイは少し気まずそうに視線を逸らす。
寝台は十二年前は藁が盛られていたが、今は薄い絨毯が敷かれているだけだった。毛布が一枚。
「車から寝袋取ってくる……碧、未来、三人でこの寝台で寝るか……」
「そうね……さすがに疲れたわ」
『ケイ……おやすみ……』
田崎は手帳をケイに返し、小屋を出ていった。
*
その夜は不安で眠れないかと思ったが、疲労が勝ったようだ。
寝袋に潜り込むと、隣で碧はすぐに寝息を立て始めた。
燭台の蝋燭を吹き消すと、小屋は深い闇に包まれた。
「未来……?」
田崎は小声で呼びかけたが、返事はない。どこででも寝られると豪語の通り、彼女もすでに夢の中のようだった。
田崎もまた、疲労で泥のように眠りに落ちた。
目が覚めたのは夜明け前だった。隣では碧と未来がまだ眠っていた。ケイも隣の寝台で寝息を立てていた。
田崎は、そっと小屋を抜け出した。
冷たく湿った朝霧の中、父の軽トラックの隣に停めた愛車の点検に向かう。
「……ひどいな」
田崎は車内からライトを取り出して、車体を照らした。納車して半年。あんなにピカピカだったボディは、泥と草の汁、そして所々についた血の跡で汚れている。
リアバンパーはパックリと割れ、バックドアは歪んでいた。昨日、バックで木に衝突したときの傷だ。左右のドアにも、羽猿が突っ込んできた時の生々しい凹みが残っている。フロントバンパーも大きな凹みがあり、ズレていた。
「ローン、あと六年残ってるんだぞ……」
ため息をついて、ぶら下がっている助手席側のフロントオーバーフェンダーを見つめた。
「軽トラに工具箱、まだあるかな……」
荷台のブルーシートをめくると、あの日そのままに工具箱は残っていた。
田崎が慎重にオーバーフェンダーを取り外している時、背後で気配がした。
「……派手にやったね」
未来が腕組みをしてジムニーを眺めている。
「起こしたか?」
「目が覚めたの。……ちょっとライト貸して」
未来は田崎からライトを受け取ると、慣れた手つきで下回りを照らした。
「サスは平気そう。アームも曲がってない。……シャフトに蔦が絡まってる。取らないと焼きつくよ」
「お? おう……」
的確な指摘に、田崎は舌を巻く。
未来はボンネットを開けさせると、オイルレベルゲージを引き抜き、指先で粘度を確かめた。
「オイルもまだ平気。ラジエーターの水も入ってる。……エンジンマウントも無事みたいね」
その横顔は、保健師の顔ではなく、かつて峠を攻めていた「走り屋」の顔だった。
「走れるよな?」
恐る恐る聞くと、未来はボンネットをバタンと閉めて、ふっと笑った。
「外装はボコボコだけど、エンジンと足は生きてる。ランエボほどの剛性はないけど……この車、あんたに似てしぶといよ」
「あんた……って。……それ、褒めてる?」
「さあね」
二人は並んで、朝霧に煙るジムニーを見つめた。
これから向かう場所は、ここよりもっと過酷な場所になる。
だが、この鉄の箱が動く限り、希望はある。
「この車が動く限り、わたしたちは止まれないわ」
「……ああ」
東の空が白み始めていた。
その光は避けられない苦難の始まりを示していた。




