56話 断光
森の中の関所は、すでに血と泥で無残にぬかるんでいた。
竜猿の咆哮が森を揺らし、地響きが大気を震わせる。
ヴォルノ隊は、一歩も退くことを許されない死闘に追い込まれていた。
関所の防衛線を破られれば、巌窟寺院まで一直線。
たとえ使い手を倒したとしても、武力で巌窟寺院は制圧されてしまう。
日没前、鉄騎軍は赤い目を不気味に光らせ、致命傷を負ってもなお武器を繰り出してきた。
闇の森は黒い不気味な霧のような影が、まとわりつくようにうっすらと漂っていた。
『使い手の術だッ!』
『小人はいないッ! 倒しても、気を抜くなッ!』
ヴォルノは叫びながら槍を繰り出す。
鉄騎軍は関所の三重の柵に、波状攻撃のような突撃を繰り返した。
臓物をぶら下げながら、折れた腕で影をまとった剣を振りかざす。
柵の前には鉄騎軍の死体が積み上がっていく。
『こいつらも、死兵だッ!』
『足を狙えッ!』
闇の森に入った鉄騎軍は、明らかに人間の軍隊ではなかった。
次々と押し寄せ、倒れた仲間を踏み台にして襲いかかる。
『グルルルッ!!』
闇の森に入り迂回した鉄騎軍は、猿の群れに襲われた。
血の匂いに誘われて集まってきているようだった。
『猿もいるぞッ!』
ヴォルノ隊は最後の柵まで後退していた。
その内側で槍を構えていたが、鉄騎軍と猿の襲撃に、隊全体が恐怖に支配されつつあった。
森の奥では、竜猿と古竜猿の世界の終わりのような戦いが空気を震わしていた。
『もう、終わりだ……』
絶望の声が上がる。
『我らに光を……! 光の元に……!』
別の声が祈るように叫んだ。
『諦めるな!! イリナ様が、法王猊下が救って下さる!!』
ヴォルノが絶叫し、剣を振り上げたその時——
聖戒が本来の封印の力を取り戻した。
刹那、森を覆っていた不気味な影が取り除かれていく。
ふっと、空気の質が変わった。
目に見えない浄化の光が、闇の森を駆け抜けた。
ピタリと、鉄騎軍の動きが止まる。
一瞬の静寂の後、影が抜けると、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
武具からも禍々しい影が霧散し、消えていく。
猿の目からも狂気の光が消え、気を失ったようにその場にうずくまる。
『これは、イリナ様の…… 法王猊下の光だ……』
眼前に迫っていた死兵の左手に、紋様が刻まれているのにヴォルノは気がついた。
『……これは、”憎悪”の紋様』
『……使い手の、呪いか』
『消えていく……』
副官が隣で呆然と呟いた。
暗闇の中で動く鉄騎軍は、もう一人もいなかった。
『呪いが…… ようやく……』
ヴォルノは脱力したように、剣を鞘に収めた。
*
轟音とともに巌窟寺院のドームが崩壊した。
天井の岩盤が次々と落下し、床を粉砕する。
その時、石床に亀裂が走った。
田崎の足元が陥没し、底なしの暗闇が口を開けた。
床の崩落が始まった。
立てないほどの揺れの中で、田崎はなす術もなかった。
落ちてきた岩盤にもたれるように、よりかかることしかできない。
「リューシャッ! グランッ! ハンクッ!」
落下する岩盤の大音響の中で、その叫びは無情にもかき消された。
「チョーローッ! オムカッ!」
返事はない。
「うわあああッ!!」
田崎が立っていた床が、ごっそりと崩れた。
支えを失った体が、宙に浮く。
——助けられなかった……
これで終わるのか……
全身が一瞬にして冷たくなった。
「リューシャッ! グランッ!」
叫びも虚しく、田崎は瓦礫とともに奈落の底へと飲み込まれていった。
『ギャギャッ!!』
遠くで羽ピーの叫び声が聞こえた気がした。
大蛇のような影の気配を一瞬感じる。
『”絶望”の影の代わりに! ”憤怒”の依代…… お前を……』
使い手の禍々しい声が耳元で聞こえたのが、意識の最後だった。
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気を失っていたのは、どのくらいなのかは分からなかった。
遠くで岩盤が崩れ落ちる音が響いていた。
目が覚めたとき、田崎は完全な暗闇の中にいた。
冷たく湿った石の床に横たわっていた。
「くっ……」
体が自由に動かない。冷たい感触が体中を締め上げている。
左手の”憤怒”の紋様が淡い光を発し、そこから影が立ち上っていた。
「黒い蛇……?」
四肢に黒い蛇が幾重にも巻き付き、拘束されていた。
「……ここは? 巌窟寺院の地下……?」
そのとき、その空間にゆらりと影が揺らめいた。
苦しげな呼吸が響く。
”憎悪”の紋様が赤く光る。
その指先から伸びる影が、田崎に蛇となって巻き付いていた。
『”憤怒”の…… 紋様…… お前は逃さぬ……』
その声の調子に、田崎は本能的な命の危機を直感する。
心臓が激しく脈打つ。
体を必死に動かそうとするが、きつく蛇は巻き付いて体を動かせない。
「うわあああッ!!」
田崎は叫んだ。
「未来ッ…… リューシャッ……」
声を限りに叫ぶが、喉が詰まったようにその声はかすれる。
使い手の口から呪詛の言葉が紡ぎ出される。
蛇が田崎の首に這い上がり、巻き付いていく。
「く……苦し……」
田崎の紋様が徐々に浮かび上がる。
首に巻き付いた蛇はキリキリと締め上げていく。
視界が明滅し、意識が途切れかけた。その時——
『グアッ……』
——金色の竜猿……?
ふっと、蛇の拘束が緩む。
『タサキッ! 今、行くぞ!』
『待ってなさい!!』
——グラン……? ハンク……?
「タサキ! ガンバレ!」
——オムカ……?
『タサキッ!』
——リューシャ……?
「リュ…… リューシャ?」
その声は、間違いなくリューシャだった。
絞り出すような嗄れた声が漏れた。
声の方を横目で必死に向ける。
その先に、金色に輝く羽ピーに乗ったリューシャが見えた。
逆光の奥で黒く人影が浮かび上がる。
『無事か、タサキ!』
——グラン…… ハンク……
リューシャが光をまとった長剣を力いっぱい投げつける。
その長剣は正確に大蛇に突き立った。
拘束が一気に緩む。
「プハッ!」
田崎は荒い息をついた。
田崎はまぶしさに目を覆った。
「気がついたか……」
チョーローが目の前で光を放っていた。
はっと左手を見ると、”憎悪”の紋様は変わらず鈍く脈打っていた。
そのチョーローの光の先に、金色の竜猿が音を立てて降り立った。
その前には使い手と数人の月の民の姿。
『タサキッ!』
リューシャが羽ピーから飛び降りると、田崎のもとに駆けつけた。
「タサキ! ヨカッタ!」
オムカが胸に飛び込んできた。
田崎を縛る蛇は消失していた。
「ハネピーにミンナ、タスケテ、モラッタ」
「……オムカ、……お前、日本語が、話せるのか?」
田崎は体を起こして呼吸を整えながら、思わず聞いた。
「今は、そんな場合ではない……」
チョーローが厳しくたしなめた。
さらにチョーローは光をいっそう強めた。
闇を押し返すように杖をかかげる。
「使い手は健在じゃ…… なりふり構わず、紋様を奪いに来ておる……」
使い手の呪詛の叫びが響いた。
”憎悪”の紋様から膨大な影が湧き上がった。
チョーローの光を吸収するかのごとく、濃密な闇へと変えていく。
その影が再び蛇の形を取り、田崎に伸びる。
『タサキっ!!』
リューシャがその蛇の前に飛び出した。
「リューシャ!」
一瞬の出来事だった。
蛇が田崎ではなく、飛び出したリューシャに絡みつき、使い手の元まで引き寄せられる。
『”欲望”か…… これでも構わぬ……』
使い手は低く呟くと、影が湧き立った。
使い手の”憎悪”の紋様は、封印をもってしても消えていなかった。
より濃く、より深く影が湧き出していく。
その影はチョーローの光を閉ざし、辺りを完全な闇へと変えていった。
鈴の音が響き、羽猿の羽ばたきが遠ざかっていく。
「リューシャアッ!!」
田崎は起き上がり、手を伸ばした。
だが、その手は虚空を掴むだけだった。
——また守れなかった。
再びチョーローの光が届いたとき、そこには誰もいなかった。
頭上の崩れた穴から、月明かりだけが虚しく差し込んでいた。




