55話 決断
満月が、引き裂かれた雲間からその冷ややかな姿を現した。
巌窟寺院の上空で古竜猿の凄まじい咆哮が響く。
ドーム内の黒い壁が共鳴するように振動し、土煙が舞い落ちる。
ドーム内では呪言の呪詛と聖戒の詠唱が、不協和音となって響いていた。
影となった鬼猿と田崎たちが、激しく棍棒と剣を打ち交わした。
田崎の剣が鬼猿の棍棒を辛うじて受け止める。
その瞬間、腕が痺れ、剣が手から吹き飛ばされた。
そこに金色の竜猿が横合いからその鬼猿に喰らいついた。
ドーム中央には、まだ使い手の呪詛が続いていた。
使い手が白濁した両目を見開いた。
『古竜猿を…… 寺院に近づけさせるな……』
使い手が鈴を鳴らす。
森の奥がざわめいた。
封印の地で、数百体の竜猿が一斉に翼を広げる。
次の瞬間、竜猿たちが森を揺るがす雄叫びを上げた。
地響きとともに、数百の巨大な影が夜空へ飛び立った。
「何が、起こってるの……?」
「ママ…… 怖い……」
「グルルル……」
リーが低く唸り声を上げる。
未来が揺れるジムニーの車内で、身をすくめて周囲を見まわした。
「封印の地で、竜猿が目覚めた……」
モーイが恐怖に頭を抱えた時、ジムニーのボンネットにチョーローが舞い降りた。
『止むを得ん。封印が先じゃ……』
『チョーロー!』
チョーローも印を組み、聖戒の詠唱に加わる。
イリナ、オムカにチョーローが加わった詠唱は、月の民の呪言の響きを徐々に押さえ込んでいく。
イリナが手に持つ封印の巻物から、さらに影が煙のように湧き上がった。
封印の言霊を覆っていた影が徐々に薄れていく。
月の民の呪言との均衡が、ついに崩れた。
ジムニーから黒いドライアイスのように影が溢れ出し、ドームの床を舐めるように広がっていった。
*
『じじい! 生きとるか? もしい!』
『もう、食えんわいな、もし、むにゃむにゃ』
『寝ぼけとるがな、もし……』
封印の地で竜猿の復活する強大な影の気配を感じ、ババ様は目を覚ました。
吹き飛ばされた先は、巌窟寺院のほど近くの森の中だった。
木々の間から、開けた巌窟寺院の広場が見える。
羽猿は地面に突っ伏し、黒い塊はババ様の上で気絶して眠っているようだった。
ババ様は上空を見上げる。
古竜猿は明らかに弱っていた。
上空を力なく羽ばたいている。
時折、苦しげな叫び声を上げていた。
『あれだけの影を取られて、無事な訳はないわな、もし……』
ババ様たちの決死の戦いは、古竜猿に少なからずダメージを与えていた。
やがて何かに気がつき、古竜猿は巌窟寺院に向けてその巨大な目を向けた。
その先から、数百匹の竜猿の群れが古竜猿に向かって牙を剥き出し、飛来していた。
『じじい!! 起きるだああ!! もしい』
ババ様は杖で黒い塊と羽猿を引っぱたいた。
『早く巌窟寺院に行くだあ! 月の奴ら、竜猿の封印を解いただあ!! もしい!!!』
『ババよ、とんでもないことになっておるな、もし』
黒い塊も竜猿の群れの影に触発され、ようやく目を覚ました。
『起きんかあ!! もしい!!』
ババ様は影の力を強引に与えて、羽猿を叩き起こした。
やがて羽猿は、ふらつきながらもババ様たちを乗せて夜空に舞い上がった。
その背後で、竜猿の群れと古竜猿の壮絶な戦いが始まっていた。
*
巌窟寺院の前の広場で、マオルカとメガネはハッと飛び起きた。
『この影の力…… 竜猿が復活した……』
『結界が…… まずい……』
巌窟寺院の上空では、数百匹の竜猿と古竜猿の死闘が繰り広げられていた。
古竜猿が一体をつかみ、頭から噛み砕いた。
血飛沫が夜空に散る。
その瞬間、別の竜猿が古竜猿の全身に群がり、鱗に無数の牙を突き立てる。
古竜猿がその太い尻尾、鉤爪を振り回し、竜猿を次々と捕らえては喰らい、引きちぎる。
数十体の竜猿の死骸が、雨のように広場周辺に叩きつけられていた。
落ちてきたその巨体に、鉄騎軍の死兵は次々と押し潰されていった。
『今、結界が破れたら……』
『全滅じゃ……』
結界の外を覗いていた二人の小人は、蒼白な顔を見合わせた。
マオルカとメガネは気力を振り絞り、再び詠唱を始めた。
ヒビが入りかけた結界を修復していく。
結界が消えれば、落ちてきた竜猿に潰されてしまう。
『よく頑張った! あとは任せろ!』
『ナヴィ! 助かる』
ナヴィは周辺の偵察を終え、大急ぎでホーガイ隊に戻ってきたのだった。
ナヴィも加わり、結界強化の詠唱に入った。
その上空では、ますます戦いは激化していた。
『グワアアアアアァァァ!!!』
古竜猿は竜猿に噛みつかれ、鱗が剥がれ、その体はドス黒い血に覆われていった。
その赤い目が怒りに燃えた。
特大の咆哮が、まとわりつく竜猿を吹き飛ばす。
そのうちの一匹が、巌窟寺院に激突した。
巌窟寺院全体が激しく揺れ、土煙が舞う。
「危ない! 未来! 逃げろ!」
壁が轟音とともに崩れ、竜猿の巨大な顔が現れた。
その崩れた隙間から、満月が怪しく覗いた。
壁が崩れ落ち、巨大な岩がドーム内に降り注いだ。
封印から流れ出る影は、ジムニーから溢れるようにドーム全体に広がっていた。
『封印はまだかあ!!』
グランが叫んだ。
鬼猿との戦いで、すでに満身創痍だった。
その横でハンクが懸命に鉄槌を振り回す。
『さすがに厳しいわね……』
『ギャギャッ!!』
羽ピーが落ちてきた岩にぶつかり、苦痛の悲鳴を上げた。
『導き手どの、ここはもう持たぬ、地下に退避を』
『しかし、再び封印されてしまうぞ!』
月の民たちが動揺の声を上げたのを使い手は制した。
『……だが、”絶望”を手に入れれば封印はたやすく破れる。ひとまず、地下に避難だ』
使い手が月の民に囁いた。
月の民の一団がひっそりと闇に溶け込んだ時、聖戒の言霊がドーム内の影をすべて祓った。
巻物が本来の封印の力を取り戻していく。
鬼猿が闇に溶けるように霧散し、棍棒のみを残して消えていった。
『——光をもって影を祓い、ここに影の力を封印する』
チョーローとオムカ、二人の小人とイリナの声が重なり、ついに封印が完成した。
すべての聖戒の詠唱が終わった時、上空の竜猿、古竜猿の石化が急速に始まった。
ドーム内が一瞬、静寂と闇に包まれた。
ほっとした空気がジムニーの車内に流れた。
「終わったの?」
未来がモーイに聞いた時、
『ケイ! 危ない!』
モーイが叫んだ。
暗闇から伸びた大蛇が、ケイに忍び寄っていた。
モーイの声と黒い影の殺気に気がついた田崎が、ケイを間一髪、横へと突き飛ばした。
田崎はそのまま勢いで、大きな岩陰に身を寄せて転がり込んだ。
大蛇は身をくねらせ、再びケイを狙うように、岩石と亀裂が走った床を這っていった。
『”絶望”だけでも良い……』
その大蛇の先には使い手がいた。
ドームのもっとも奥、地下へと続く螺旋階段の前で使い手は、執念深く機会を伺っていた。
その”憎悪”の紋様からは、どくどくと影が流れ出ていた。
『”絶望”だけでもあれば、また始められる……』
その光を失った目が、”憎悪”で黒く濁り始めた。
「ケイ兄ちゃん!」
碧も叫んだ。
大きな岩が崩れ落ち、ジムニーのすぐ側で轟音を立てた。
ケイはその落ちてきた岩の側で尻餅をついていた。
「ケイ兄ちゃん! こっち! 早く!!」
碧が助手席のドアを開けた。
崩れた岩を縫って、大蛇がケイに迫る。
そのとき、モーイが叫んだ。
「未来ッ! ケイが乗ったら、あの影の霧の中に飛び込め!」
「はっ? 何で!!」
未来が叫び返す。
田崎が土煙に霞む視界で、ジムニーを捉えた。
田崎とジムニーの間にも、大きな岩が降り注いでいた。
岩塊が轟音とともに落下し、田崎とジムニーの間に障壁となって立ち塞がった。
声を限りに、田崎は未来に叫んだ。
「このままじゃ! 下敷きになる!!」
二匹目の石化した竜猿が、天井を破り巌窟寺院に飛び込んできた。
寺院が再び激しく揺れ、天井全体が崩れはじめた。
「ケイ兄ちゃん! 早く!」
助手席から身を乗り出して手を伸ばした碧の手を、ケイは取った。
そのまま転がり込むように助手席に飛び込む。
「ミクどの! 時間がない、影に突っ込め!」
チョーローが叫び、オムカとともにボンネットの上から鳩猿に飛び移った。
「ミクッ! 天井が崩れるッ!! 早くッ!! 霧の中に!!」
モーイが頭を抱えて絶叫した。
「分かってるわよッ! でもッ!」
未来も冷静ではいられなかった。夫を置いていけない。
「あの霧の向こうは、日本だッ!!」
モーイが叫んだ。
「ケイの絶望を日本に避難させるんだッ!! ここにいたら潰されて奪われる!」
「……日本に、……帰る?」
未来は呆然と呟いた。
震える手でギアをローに入れる。
「圭一ッ!? 早く! 圭一ィッ!」
ハッとした未来は叫んだ。
アクセルに乗せた足がガタガタと定まらなかった。
ハンドルを握る手が震えた。
そして振り返った。
だが、田崎の姿は闇と土煙、そして崩れた岩壁に閉ざされて見つからなかった。
「圭一ィーッ!」
「未来ッ!! 必ず、生き残る! 先に行けッ!」
岩の向こうから、田崎の力強い声が聞こえた。
未来の目に涙が溢れ、視界が滲む。
封印から解放された影は霧となってまとまり、ゲートのようにジムニーの前方に浮かんでいた。
「圭一ッ!」
「碧とケイを守るんだ!!」
「きゃああ!!」
頭上で崩落音が響き、碧が悲鳴を上げた。
未来は唇を噛んだ。
——信じるしかない。あの人は、絶対に死なない。
「分かった! 待ってるから! 絶対よ」
未来は意を決してアクセルを踏み込んだ。
エンジンが唸り、急発進したジムニーは大蛇を掠め、黒い霧の渦の中に飛び込んだ。
その直後、凄まじい轟音とともに天井が崩落した。




