54話 対価
金色の竜猿が巌窟寺院のドームに飛び込む直前。
ジムニーの中では、イリナの荒い呼吸が響いていた。
リーが隣で心配そうに、クゥンと鳴いて見上げた。
『みんなの紋様と、鬼猿の影を、私の光の術で……』
イリナは錫杖を掲げた。その手は恐怖と疲労で震えている。
イリナの光は、闇を打ち払うには届かなかった。
だが、イリナは顔を上げた。
『やらないといけない……』
『イリナ…… いや法王猊下…… ここはチョーローを待つべきかと……』
モーイの”恐怖”の紋様が妖しく明滅した。
モーイの顔に大粒の汗が流れた。
そのときだった。
金色の竜猿が壁を突き破り、飛び込んできた。
『グアァァ!』
碧の顔がパアッと輝いた。
「羽ピー!! ケイ兄ちゃん!!」
碧はジムニーの左側にいるケイの背中に向かって呼びかけた。
羽ピーを見た碧の瞳に涙が浮かんだ。
未来の顔が驚愕に見開かれた。
『グアッ!!』
そのまま羽ピーは、まさに棍棒を振り上げた鬼猿の真ん中に弾丸のように突っ込んだ。
鬼猿と大蛇をまとめて吹き飛ばし、着地ざまにケイに顔を向けた。
巌窟寺院にいるすべての者が息を飲んだ。
月の民の呪言すら、一瞬途切れた。
『……金色の竜猿』
使い手の口が歪んだ。
『金色の竜猿……』
田崎、リューシャ、グラン、ハンクが呆然とする中、羽ピーが立ち上がった。
もうもうと影と埃が立ち込める。
『ハネピー……』
ケイが羽ピーを見上げた。
ケイの紋様からの”絶望”の影は、まだ湧き立っている。
羽ピーはその影に引き寄せられたかのように、ケイに駆け寄った。
『グアッ!』
羽ピーがケイを見下ろす。
ケイが羽ピーを見上げる。
視線が交差した。
『ハネピー……』
その瞬間、ケイの瞳に熱いものがこみ上げる。
『イリナッ!』
オムカは、羽ピーの首に必死にしがみついていた手を離し、ジムニーのボンネットに飛び乗った。
顔は青ざめ、息も絶え絶えに叫ぶ。
『イリナ! 早く、封印の影を祓って!!』
オムカは目を回しながらも、必死の形相で叫んだ。
『早く! 古竜猿の封印をしないと!! あいつが来ちまう!』
そのオムカの絶叫に、使い手が反応した。
『再封印される前に……』
使い手は別の印を結びはじめる。
『”絶望”の影を手に入れねば…… 金色の竜猿など、どうとでも出来る』
使い手は再び呪言をはじめる。影の大蛇が再び頭をもたげた。
『呪言を続けよ! 封印を阻止せよ!』
使い手は月の民に呼びかける。
『法王猊下! 封印の影を祓うのが先だ!』
モーイもイリナに叫ぶ。
『紋様を解かないうちに封印の影を祓ったら、タサキさんたちが帰れなくなってしまう……』
封印の巻物の影を祓った時に発生する黒い霧。
それを利用して田崎たちはジムニーで日本に帰るのだ。
その場合、紋様も一緒に日本に行ってしまう。
こちらの世界から紋様は失われ、そして使い手の脅威は変わらない。
——紋様を左手につけたままでは、日本に帰せない……
しかし、祭壇の復旧は出来ない。
紋様をここに移す手段はない。
ジレンマだった。
だが、イリナも古竜猿封印の必要性は痛いほど感じていた。
イリナが目を閉じて首を振った。
『その前にみんな! 死んじゃう!』
モーイが悲鳴のような声を上げた。
『……分かりました。やむを得ません……』
イリナは封印の巻物を広げた。
その巻物に記された封印の聖戒の文言は、すべてドス黒い影に塗りつぶされていた。
イリナは覚悟を決めて、聖戒の詠唱を紡ぎ出した。
オムカもジムニーのボンネットの上で杖を構える。
封印にかかった影を祓うべく詠唱を始める。
二人の声が重なり、聖戒の力が増していく。
封印の巻物が光り始めたかと思うと、そこから黒い影が煙のように湧き上がった。
『グア! グア!』
大蛇がケイに向かう。羽ピーが身を低くして、それに噛みついた。
『ハネピー……』
鬼猿も棍棒を振り上げ、ケイと羽ピーに襲いかかった。
グランとハンク、リューシャがそれを阻止しようと立ち向かった。
聖戒の詠唱と呪言がドーム内を満たし、空気が震える。
そこに、さらに外から古竜猿の咆哮が響き渡った。
『古竜猿も来るか……』
使い手の顔にも、焦りの色が浮かび始めた。
『封印を阻止せよ! 先に我らの眷属…… 竜猿を呼び覚ます』
使い手から、さらに別の影が湧き上がる。
それは竜猿の封印の地に向かって、床を這うように広がっていった。
それとともに、低く不気味な呪言がその口から紡がれていった。
その瞬間、羽ピーに噛みつかれた黒い大蛇が霧となって消散した。
だが影で形成された鬼猿は、グランたちを圧倒していく。
棍棒を防ぐ剣が重く軋み、押し返されていった。
立ち上がった田崎のもとにも鬼猿が迫る。
『トオサン!』
ケイが震える声で、羽ピーに助けを求めた。
『ハネピー! トオサンを助けて……』
ケイは拳を握りしめ、その鬼猿を指し示す。
『グアッ!』
その言葉に答えるように、田崎に向かう鬼猿に対して猛然と突っ込んでいく。
ジムニーの車内では、イリナの詠唱が熱を帯びていた。
『この詠唱が途切れたら、全てが終わる……』
モーイの呟きは口の中で消えた。
”恐怖”の紋様は激しく光り続けていた。
そのモーイの目の前で、影が霧となって封印から溢れ出し、ジムニーの車内を満たしていった。
聖戒の詠唱で封印の巻物から影が解き放たれる。
しかし、月の民が呪言でその影を封印に再び戻そうとしていた。
封印から祓われた影が、再び染み込んでいった。
羽ピーは鬼猿の頭に噛みついていた。
その牙が影を引き裂いた。
鬼猿の影を貪り喰っていく。
それでも鬼猿は棍棒を振り回し、羽ピーに打撃を与えていった。
そして、噛みちぎられた鬼猿の頭に、また影が伸びて再生しようとしていた。
『これは…… バケモン同士の戦いだ……』
グランが剣を構えたまま、呆れたように呟いた。
『まったく。嫌になるわね……』
ハンクが鉄槌を振り回し、汗を拭いながら答える。
そのときだった。
巌窟寺院の崩れた壁から、小さな影が飛び込んだ。
チョーローを乗せた鳩猿だった。
眼下に広がる乱戦と、聖戒と呪言の綱引き。
そこに、さらに異なる不穏な響きがあることにチョーローは気がついた。
使い手が発する禍々しい呪詛に顔が強ばる。
『いかん! 竜猿の封印の地に影を送っている……』
使い手の呪言は、やがて取り返しのつかない異変を闇の森にもたらしていった。
*
巌窟寺院の裏手に広がる深い森の中。
かつて竜猿の封印された禁足の地。
深い森の中、苔むした無数の石像が並んでいた。
竜猿の姿をした石像。
その数、数百体。
使い手の影が薄闇に溶けるように、石像を染めて広がっていった。
使い手は鈴を懐から取り出す。
数百体の竜猿の石像に影がまとわりつく。
それと同時に石像に無数の亀裂が入っていった。
チリーン……
使い手の鈴が、影を通して鳴り響いた。
赤い目が光る。
一体、また一体。
森が揺れた。
最後の西陽が森の端を照らし、山脈に隠れる。
闇の森に夜の帷が降りていった。
満月が東の空に昇り始める頃、数百体の竜猿の咆哮が、一斉に闇の森に轟いた。




