49話 暗黒
巌窟寺院のドームを竜猿の咆哮と地響きが揺らす中——
碧の光が、イリナの覚醒を促していた。
「……イリナ」
モーイがダッシュボードの上にしゃがみ込んでいる。
モーイの左手の紋様が冷たく、脈動していた。
そこに刻まれている紋様の意味を即座に理解する。
——恐怖…… の紋様……
モーイの顔がさっと青ざめた。
「くうん」
リーが心配そうにイリナの頬を舐めた。
「リー……?」
イリナがゆっくりと目を開け、リーの頭をなでる。
その瞳に光が戻る。
「これは、”希望”…… アオ?」
イリナが顔を上げる。車内を満たしていた碧の光は収束に向かっていた。
「巌窟寺院だ、イリナ…… 使い手がいる……」
「……巌窟 ……寺院」
イリナが視線を前に向ける。
ジムニーのヘッドライトの先に、小さな人影の集団が浮かび上がっていた。
その前に、巨大な鬼猿たちが影をまとい立ち上がった。
「パパ…… 来るよ……」
「未来と碧は早く車に……」
田崎は長剣を握り直した。
その手がわずかに震える。
「パパ、やだよ……」
「碧、行くよ」
「大丈夫、パパは昔、あれを二匹倒したことがある……」
震える声を必死に押し殺し、田崎は鬼猿を睨みつけた。
田崎は未来と碧を庇うように、ジムニーのドアまで誘導する。
「イリナ……」
後部座席に座っているイリナと目が合った。
イリナは小さくうなずいた。
そして、短く聖戒の言霊を唱える。
ジムニー全体に火が灯ったように、淡い光の膜が輝き出した。
「頼む、モーイ、イリナ。ここで待っててくれ」
三人に声をかけて、田崎は振り返った。
「リューシャ! ケイ!」
リューシャが小弓を構えている。ケイは小刀を逆手に持ち、低い姿勢をとった。
*
外では、グランとハンクは、死兵の群れを蹴散らしていた。
巌窟寺院の入り口に向けて、馬を走らせる。
『しっつこいわよ!!』
ハンクの鉄槌が唸りを上げ、鉄騎軍の兜ごと頭を粉砕する。
グランの剣が閃き、首をはね飛ばす。
その首が黒い影を引きながら地面に転がった。
『完全に息の根を止めないと駄目だ』
腕のない死兵が馬の前に飛び出す。
倒しても倒しても、影に囚われた死兵は人形のように立ち上がってくる。
鉄騎軍は入り口を守るように集まり、壁となって二人の馬の前に立ち塞がった。
そのとき、上空から金色に光る竜猿が巌窟寺院の門に飛び込んだ。
直後、巨大な影が太陽を遮る。
『グワアアアアッ!!』
石畳を凄まじい衝撃波が襲う。
『竜猿だあああ!!』
馬が本能的な恐怖に駆られていななき、跳ね回った。
『どうどうどう!!』
『落ち着きなさい!!』
グランとハンクが暴れる馬を制御したそのとき——
地響きと土煙とともに古竜猿が石畳に降り立った。
竜猿は鉄騎軍の集団にその太い腕を伸ばすと、掴み上げ、次から次へと大口に放り込んでいく。
『?! 影だ! 影を喰ってる?』
古竜猿は巌窟寺院の前に居座るように、影に囚われた鉄騎軍を貪り喰っていく。
死兵にまとわりついた濃厚な影が、古竜猿の飢餓感を刺激し、惹きつけているようだった。
まるで地獄絵図のような光景に、グランは戦慄した。
『一旦、退避ー!!』
グランとハンクは距離を空けざるを得ない。
『どうする?』
二人が顔を見合わせた時、巌窟寺院から、何かが弾丸のように飛び出した。
金色の竜猿だった。
黒い影を撒き散らしながら、古竜猿の顔面に向かって一直線に飛んでいく。
『ハネピー!! 突っ込め!!』
オムカが杖をその顔面に向けて叫んだ。
オムカの杖の先から光が放たれていた。
それは羽ピーの体内に蓄積された影を、強制的に放出させていた。
黒い影の尾を引き、羽ピーが古竜猿の鼻先をかすめて飛び抜けた。
『グワアアアァァ!!』
『逃げろ!! 羽ピー!!』
羽ピーはそのまま垂直に急上昇していく。
古竜猿が”絶望”の濃厚な影の匂いを嗅ぎつけ、天を仰いだ。
次の瞬間、古竜猿が翼を広げる。
『グアッ! グアッ!』
『小回りと素早さじゃ、負けない!!』
だが、古竜猿は羽ピーの背後に一瞬で追いついた。
『って、早すぎ!!』
古竜猿の鉤爪が羽ピーにつかみかかり、空を切った。
『グワアアアア!!』
『羽ピー!! あっち!!』
オムカは羽ピーの長い首を移動し、頭のツノにしがみつくと杖を下方に向けた。
『グアッ!』
『グワアアアァァ!!』
『イリナ! 早く、封印の影を払って、こいつ! 封印して!』
オムカの悲痛な叫びが、森の奥へと吸い込まれていく。
羽ピーは囮となり、古竜猿を引き連れて闇の森の中へと消えていった。
*
『ハンク! 今だ!』
古竜猿が去り、鉄騎軍の陣形が崩れた一瞬の隙を突き、グランたちは巌窟寺院の門へと馬を踊らせた。
なおも手を伸ばす死兵を馬の前脚で蹴散らすと、ドームの中に駆け込んでいく。
ドーム内では五匹の鬼猿に、田崎たちは絶体絶命の戦いを繰り広げていた。
『タサキ!』
鬼猿の丸太のような棍棒が、田崎の脇腹を捉えた。
激痛が右腹部を貫く。
体が宙に浮き、床に叩きつけられる。
リューシャは弓をつがえる間もなく、手にした矢をそのままその鬼猿の首筋に突き刺した。
矢が折れる。
首に矢を突き刺されたまま、鬼猿は返す棍棒で薙ぎ払った。
リューシャが紙切れのように、吹き飛ばされる。
「リューシャ…… くそ」
脇腹を押さえた左手の紋様が、焼けるような熱を帯びる。
吐き気をこらえながら倒れたリューシャを目で追うことしかできない。
「……ケイは?」
ケイもすばしっこく動くが、短い短剣では鬼猿の皮膚を浅く切り裂くだけだった。
肉にも届かず、骨にも達しない。
二匹の鬼猿に追い詰められていた。
「圭一!!」
「パパッ!!」
車内からの未来と碧の悲鳴。
田崎の目の前に、とどめの鬼猿の棍棒が迫った。
その時、馬蹄の音が響いた。
『させんわああッ!!』
馬に乗ったまま突撃してきたハンクの鉄槌が、鬼猿の横面を粉砕した。
『タサキ!!』
『わたしたちに任せて!!』
グランがリューシャに向かった鬼猿に突進していく。
「グラン! ハンク!」
目の前に、頼もしい男たちの姿が現れた。
『ウオオオ!!』
グランの剣が閃き、鬼猿の体を深く切り裂く。
反対側からハンクの鉄槌が鬼猿を吹き飛ばした。
血飛沫と怒号がドームに飛び交う。
『イリナ様はッ?』
『鉄の車…… 無事』
リューシャがふらつきながら床から起き上がる。
田崎も激痛に耐え、体を起こした。
「くそっ!!」
田崎の紋様が、ドクンと脈打つ。
激しい怒りが沸き起こる。
何もできない自分、助けられない自分に腹が立つ。
未来、碧、リューシャ、ケイ……
そして、ドームの中央に立つ黒い人影——
「ケイッ!」
痛みが純粋な怒りへと変換されていく。
剣を握り直す手に力がみなぎる。
二匹の鬼猿に囲まれたケイの一匹に駆け寄ると、渾身の力で剣を叩きつけた。
重たい反動が両腕を襲い、手が痺れる。
「このやろう!」
振り返った鬼猿と目があった。
さらに剣を振りかぶり、叩きつける。
「なんで! 切れない!」
怒りで頭に血が上り、視界が赤く染まる。
かつてこの場所でスコップで鬼猿を殴り殺した記憶。
あの時の狂気じみた興奮、力の昂揚。
——忘れていた……
理性で蓋をし、葬り去ろうとしていた過去のその昂揚感、万能感が体中を駆け巡った。
——飲まれたら駄目だ……
理性が警告する。
だが、直後「それでも構わない」という甘美な声が、胸の奥で囁いた。
「うおおお!!」
紋様がうずく、もう何も考えられなかった。
——憤怒
目の前が、怒りだけを残して、真っ暗になっていく。
田崎の心は、深い暗黒へと染まっていった。




