45話 夜明け
ジムニーは森の中でエンジンを止めていた。
血と臓物と獣の臭いが、割れたバックドアから容赦なく流れ込んでくる。
田崎は後部座席で長剣を握り締め、後ろを振り返った。
リューシャは助手席で小弓を強く握りしめていた。
「昨日の夜、何が起こっていたのか…… 考えたくもないわね」
あちらこちらに散らばる猿の凄惨な死骸を見て、未来の眉間のしわが深くなる。
「オムカがついてる。碧たちは、大丈夫なはずだ」
田崎は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
モーイは「ちょっと様子を見てくる」と言ってジムニーを出たきり、三十分は経っていた。
取り残された田崎たちは、不安な顔を見合わせるしかなかった。
巌窟寺院まで、もう目と鼻の先まで来ていた。
時刻は昼前。
イリナはまだ眠り続けている。リーはそばで静かに車窓の外を警戒していた。
「巌窟寺院を見てきた」
さらに一時間が経ったとき、ようやくモーイが戻ってきた。
「どうだった?」
田崎が身を乗り出す。
「……鉄騎軍が、占拠してる」
「まじか……」
田崎は舌打ちした。
——スタンピードで全滅したんじゃ……?
「すぐに終わったからね。でも、怪我人ばかりだけど、数百騎はいる……」
「数百騎……」
未来が眉を寄せた。
「使い手もくるんだろ?」
「来る、それに……」
モーイがためらう。
「闇の民が協力してくれるという話はどうなった?」
「昨晩の竜猿にやられちゃったみたい」
モーイは首を振った。
——戦力は足りるのか……?
「グラン隊ももうすぐ合流する。ヴォルノ隊と協力して、二方向から巌窟寺院の鉄騎軍に攻め込む」
モーイは影伝えで受けた作戦の概要を伝えていく。
「その混乱の隙にジムニーで巌窟寺院に突っ込むわけね。でもイリナが起きないと……」
「いつ、起きるか分かるのか?」
「碧の光で起こしてもらうのが、手っ取り早い」
「……それは確実なの?」
未来が詰め寄る。
「……分からない」
モーイが目を逸らした。
「……」
「どうするのよ? どこで碧たちと合流するの?」
未来が苛立った声を上げた。
「巌窟寺院…… だけど、少し問題が……」
モーイが口ごもる。
「何?」
田崎と未来が身を乗り出す。
「碧たちが手なづけた竜猿……」
「竜猿?!」
田崎の顔が強張る。
「羽猿って…… 聞いたけど……」
「進化した…… らしい」
「やばいの?」
「……やばい」
「どう、やばい?」
田崎は続きを促す。
「多分、古竜猿に狙われて、喰われる……」
「……」
「オムカの結界から出られないんだ。出た瞬間、使い手と古竜猿に追いかけ回される……」
「……つまり」
田崎の声が震える。
「……今は、碧たちのところに、行けない……」
その言葉を口にした瞬間、田崎は状況を理解した。
行けないのではない。
行けば、碧たちが危険にさらされる。
「じゃあ…… どうするの?」
未来がエンジンキーに伸ばした手を引っ込めた。
「タイミングを見て、巌窟寺院のドームで落ち合うしかない……」
未来はため息をついた。
田崎は長剣の柄がきしむほど強く握った。
——碧…… もう少しだけ……
「じゃあ、グランさんたちが来るのを待たないと、いけないのね」
「とりあえず、近くまで行って待機しよう……」
未来はエンジンをかける。
ジムニーは、ゆっくりと動き出した。
*
碧は羽ピーの背中で目を覚ました。
午後の光が、木々の間から差し込んでいる。
——あれ……?
碧は、違和感を覚えた。
——羽ピーの背中…… 広くなった?
羽ピーは、さらに巨大化していた。
背中の羽毛はまだ残されていたが、その長い首は鱗に覆われていた。
「羽ピー?」
『グアッ!』
羽ピーが振り向く。
「羽ピー…… また、大きくなったの……?」
『アオ、おはよう』
ケイはすでに起きていた。
『オムカさんが水と食料を取ってきてくれたよ。ゴハンあるよ』
ケイは羽ピーを見上げた。その背丈はすでにケイの三倍ほどになっていた。
ケイの紋様が、黒く脈打っていた。
影が、止まらない。
どくどくと、絶え間なく羽ピーに流れ込んでいく。
『……止められない』
ケイの顔に、暗い陰が落ちる。
『僕が生きている限り、影は止まらない……』
ケイは羽ピーから滑り降りてきた碧の紋様を見た。
その紋様の光も、呼応するように輝き続けている。
『……アオの光が、ハネピーを支えてる』
ケイは黄金色に輝く羽ピーの鱗をなでた。
光と影が、羽ピーの体で混ざり合っている。
「羽ピー…… 大丈夫?」
『グアッ! グアッ!』
羽ピーの鳴き声は低く、野太く変質していた。
——だけど、羽ピーは、羽ピーだ。
碧は羽ピーの変わらぬ、その瞳を見上げた。
「アオ、オハヨウ」
オムカが両手に皮の水筒を持って近寄ってきた。
「コビトノ、オチャ」
「ありがとう、オムカさん…… 苦い……」
碧は顔をしかめつつ、木の実の殻に注がれたお茶をすすった。
そして、果物と木の実を手に取った。
「オムカさん? 早く、パパとママに会いに行きたい」
『今は…… 無理……』
オムカは首を振った。
「どうして?」
碧の目に、涙が浮かぶ。
『結界を出たら…… 使い手に場所が見つかる』
「……なんて、言ったの?」
碧が、不安そうにケイを見上げた。
『今はアオの光で結界を補強してるから、使い手から、身を隠せてる』
オムカはケイに説明している。
「羽ピーだったら、ビューンって逃げ切れるよ! ね、羽ピー?」
碧の言葉に、オムカは深いため息をついた。
オムカの”悔恨”の紋様も青く脈打つ。
『それに今、ケイの影とハネピーが動いたら、間違いなく竜猿が目覚める……』
ケイがそれを聞いてうつむいた。
「ダメなの? オムカさん……」
「アオ、モウチョット、マッテ」
オムカは一転してほがらかに言った。
『騎士団が、鉄騎軍をやっつけたら……』
オムカの言葉に、ケイがうなずく。
「ガンクツジインまで、ハネピーで、イッキニ、イク」
『……本当?』
「ホント」
オムカがにっこりと笑う。
碧は、涙を拭った。
「うん、分かった……」
その瞳には希望の光が宿っていた。
結界の外では、太陽が、高く昇っていた。
*
『ちょっと、大変だったわね』
ハンクがグランに片目をつむった。その鉄槌と白銀だった鎧は、どす黒く血まみれだった。
『猿どもには手こずったな……』
グランも疲れた声を出した。
夜明け前——
グラン隊は行動を開始した。
スタンピード自体は終わっていたが、取り残された猿たちは凶暴だった。
喰らいつき、引き裂く獣たち。
ハンクの鉄槌が熊猿、鬼猿を次々と血祭りにあげていた。
太陽が昇り切ると、猿たちは光を嫌うように森の奥へと姿を消した。
『ナヴィの結界がなければ…… 危なかった』
『まあ、被害は少なくて良かった。あちらさんは壊滅だろうけどね』
『油断は禁物だ。やつらには……使い手がついてる』
グランの表情が、引き締まる。
鉄騎軍のスタンピードによる被害状況を、グラン隊はまだ正確に把握していない。
後ろから追ってくるはずの鉄騎軍の進行状況は分からない。
悪臭壺の残り香も、この猿たちの死臭の前には意味をなさなかった。
昼過ぎに、巌窟寺院に向けて出した斥候の騎士が帰ってきた。
『生き残った精鋭が防衛戦を張っています、それに……』
騎士が口ごもる。
『明らかに、致命傷の騎士が、動き回っています……』
『……死兵。……強力な影の術…… 使い手がいる?』
ナヴィが身を震わせた。
『死人か? 倒せるのか?』
『さすがに死人は動かせない…… ただ、痛みは感じない、首を落とすしかない』
グランは目を閉じた。
『ヴォルノ団長も、来ているんだな?』
グランは確認する。小人から作戦の概要は聞かされていた。
ナヴィはうなずいた。
『ホーガイの荷物ももう少しで届く。……錫杖と封印も』
——聖戒の封印……
イリナ…… いやイリナ法王猊下……
グランの胸に、十二年前に訪れた巌窟寺院までの、あの冒険の日々がよぎった。
きっかけはイリナにかけられた闇の呪いだった。
あの小さな少女が、今は、法王猊下……
そして、今、イリナは世界を救うために立ちあがろうとしている。
『イリナ……』
グランはつぶやく。
——あなたを、必ず守る。
グランの瞳に、決意の炎が宿った。
『十二年前のけりをつける』
グランは、愛剣をすらりと抜いた。
『行くぞ』
グラン隊は巌窟寺院に向けて進軍を開始した。
午後、決戦の時が、刻一刻と近づいていた。




