39話 影喰い
闇の森の入り組んだ洞窟。深い崖に突き出したテラス。
そこにイリナの光に焼かれた使い手と月の民はいた。オムカは羽猿の鉤爪に掴まれ、蛇のような影が体中に絡みつき身動きが取れない。
だが、囚われの身でありながら、その目と耳は、すべてを脳裏に焼き付けていた。
使い手は満月に近い月を見上げた。
『小娘の光…… やっかいなものよ…… 我が眷属の多くを奪った、あの老いぼれをようやく排除したというに……』
使い手の紋様が黒く光る。
濁った両の瞳に、憎悪と焦燥が渦巻く。
『この…… ”盲目の僧侶”の血に染められた紋様…… ようやく制御できた』
歪んだ使い手の口から漏れた言葉は、闇に溶け込んだ。
『満月…… 我らの力が最大化される…… 』
それぞれが月明かりから影をすくい上げ、羽猿と自らを治療していく。羽猿の目が光を取り戻していった。
『闇の流れが狂った世界…… 皆の者、もうすぐだ。じきにこの地獄から解放される……』
しかし、使い手のその声は苦渋と苦痛に満ちていた。
『我の体にすべての紋様を宿らせ、光と闇の均衡を体現する……』
『導き手様…… 光に怯え、闇に飲み込まれる恐怖…… この十二年…… なんと苦痛なものだったか……』
一人の影がひざまずいた。その小さな体が打ち震える。
祭壇が破壊された後の闇の暴走は、森に住む民の生活をも苦しめていた。
『影の衣も、闇の命水もわずかの中…… 猿どもの暴走に怯え、闇に飲み込まれる恐怖によく耐えてくれた』
使い手は民たちにねぎらいの声をかけた。
その声は一転、穏やかなものになった。
『祭壇の復旧は…… 光の民の主導では、我らの苦しみは変わらぬ…… 封印を破壊せねば……』
——あれだけの強大な力…… 野放しになんか、できるもんか。
オムカは心の中で毒づく。同情はできるが苦しんでいるのは皆、同じ。
その他のみんなの苦しみの原因が月の民に変わるだけだ。
『最後の紋様が、異界から帰還した…… あの因縁の鉄の車とともに……』
その唇が薄く歪む。
使い手の脳裏に十二年前のスコップで殴られた痛みが想起された。
『あの時、血に塗れた”盲目の僧侶”の”憎悪”が我に宿った……』
竜猿によって”盲目の僧侶”もろとも粉砕された祭壇、使い手の左手に刻印された紋様。
その日から”憎悪”に支配され生き延びてきた。
暴走する”憎悪”の影に翻弄されてきたこの十二年の苦しみが、使い手の脳裏に蘇った。
『あの異界の巨人族…… なんとしても依代に。その血によって我が身に祭壇の力を宿らせようぞ』
その”憎悪”は自分のものか、”盲目の僧侶”のものか、すでに判別はつかない。
使い手は立ち上がった。
呪詛の言葉がその口から紡がれていく。
やがて使い手の紋様が激しく脈打ち、呼応するようにオムカの紋様も青く光る。
『さあ、”絶望”の影と”希望”の光を巌窟寺院で取り入れる』
使い手の声が夜の闇に響く。
続いて呪言を唱え始める。
”憎悪”の紋様が脈打ち影が漏れ出していく。
『絶望の影が、地下にいる……』
使い手の左目が赤く光った。
その呪詛の言葉に呼応するように、オムカの紋様が激しく脈打っていく。
——ケイ! 逃げて!
オムカは必死に抵抗しようとするが、体は微動だにしない。
使い手を乗せた羽猿を先頭に、羽猿の一団が闇の夜に消えていった。
*
その頃、碧たちがいる地下空間。
「ケイ兄ちゃん? 羽ピー、元気になってきた?」
『うん。 ハネピー、おいで』
『ギャッ!』
羽ピーは一声鳴くとケイに擦り寄った。碧の光は微弱な光を放ち続けている。しかし、魔の森の民の影の治療は、少しずつ元気を取り戻しているようだった。
「ごめん、この光、ダメだよね……?」
碧は微弱に放たれ続けている光を、背中に隠した。
その様子をババ様と黒い塊が見ていた。
ババ様と闇の民は策謀の実行段階にあった。
『準備は整ったな、もし』
ババ様は下卑た笑みを浮かべる。
『騎士団には”希望”が鉄騎軍に奪われた事を伝えておいた』
『鉄騎軍にも”希望”が到着する事、鳩を飛ばした』
闇の民の側近がそれぞれ報告する。
『あとは”希望”を奴らのもとに放り込むだけだな、もし』
『猿どもも鉄の奴らに突っ込ませるぞな、もし』
『では、”希望”を捕らえるぞな、もし』
黒い塊から濃密な影が沸き出す。その影は巨大な大蛇となり、ケイと碧がいる一角に突き進んでいく。
『アオ! なんか変だ!』
ケイがその巨大な影の違和感に気づく。
巨大な大蛇が碧に迫った。
『アオ! 伏せろ!』
ケイが碧を庇った瞬間、二人の紋様が激しく光り始めた。
『これは…… 使い手の……』
「ケイ兄ちゃん! また光った! 羽ピーを傷つけちゃう!」
目も眩むような光が地下空間を満たし、視界が白一色に染まる。
『ギャギャギャッ!!』
羽ピーが苦痛の叫びを上げ、翼を垂らしてうずくまった。
碧が背中に回した手のおかげで、羽ピーは光の直射を避けられる。
そして、それは黒い塊から伸びてきた大蛇を一瞬にして消滅させた。
そして次の瞬間、黒い塊から膨大な影が噴き出し、ババ様一行を包み込んだ。白い空間の中で、そこだけ黒いカーテンに覆われたように取り残される。
『羽ピー!! 影を喰え!!』
ケイの紋様からはどくどくと濃密な影が湧き出ていた。
——中毒になる……
飼育係の警告がよぎる。しかし、羽ピーの苦しむ姿を見て、決意が固まった。
——もう戻れない。 ハネピー、ごめん!
濃密な影がケイの紋様から湧き立つと羽ピーの体にまとわりつくように影で覆い尽くしていく。制御はできない。
『ギャギャギャッ!!』
羽ピーは狂ったように叫んだ。
その目は赤く充血し、爪が鋭く伸びる。
その時、碧がケイの手に自分の手を重ねた。
「ケイ兄ちゃん、一緒に!」
碧の光が、ケイの影を優しく包む。影が落ち着きを取り戻し、ふんわりと影が羽ピーを覆っていく。
『ハネピー…… 影を食べて』
羽ピーの苦痛の叫びが止んだ。羽ピーの目に理知的な生気が戻る。
『アオ! 乗れ、今しかない』
ケイは碧の手を取ると羽ピーに掴まらせた。光が近づくと、羽ピーは身をすくませるが、ケイの影がそれを和らげる。
「羽ピー! ごめん! 飛んで!!」
『ギャギャ!』
羽ピーは二人を乗せると、力強く羽ばたいた。白い空間を出口に向かって飛び出す。
空間が元の闇に閉ざされる。
冷たい空気が、じわりと戻ってきた。
『肝を冷やしたぞな、もし』
『追わんかあ!! 逃げたぞな!! もしい!!』
ババ様から離れていた羽猿と魔の森の民は、光に焼かれ息も絶え絶えになっていた。
『またも計画は変更じゃあ!! 巌窟寺院で待ち受けるぞな、もしい!!!』
『あの羽猿は一線を越えたぞな、もし』
ババ様の目が怪しく光る。
『あれほどの影を喰らった猿は、もう元には戻らん、もし』
ババ様と魔の森の民、闇の民を乗せた羽猿も地下を後にして飛び立った。
限りなく満月に近い月を背に巌窟寺院に向かって飛び去っていった。




