35話 接迫
魔の森の夜。
十三夜の月が雲間に浮かぶ。
全てを凍らすような風が身体を切り裂いた。
ケイは何かに弾かれたように目を覚ました。
心臓が激しく打っている。理由は分からない。
ただ、何か、恐ろしい何かが近づいている。
ぼんやりとした月明かりの中、隣では碧が羽ピーにもたれて眠っている。
ケイは、はっとして左手の甲を見た。
タールのような影が脈動するたびに溢れ出し、止まらない。
羽ピーの体にその影が吸い寄せられては消え、また溢れる。
——中毒になっちゃう……
ケイは左手を右手できつく押さえたが、指の隙間から影がぬるりと這い出してくる。
『”絶望”の子よ、闇の森のやつらが追ってくるべな、もし』
気がつくと飼育係が目の前で羽ピーを見上げていた。
『飼育係……さん? 止められない……』
『この子はもうおででは何にもなんね。ババ様ならば、助けられっかも、もし』
飼育係は羽ピーをなでた。
『この影を止めて……』
『それもどうにもなんね、もし』
『ギャ……』
そのとき、羽ピーが翼を広げて小さく鳴いた。
折れた右の翼を確かめるように折りたたむ。
『ハネピー! 治ったのか?』
『ギャギャッ!』
羽ピーは嬉しそうに鳴いた。
『ババ様がこっちに来るぞな、もし』
飼育係は夜空を見上げた。
「ケイ兄ちゃん……? 何? 羽ピー? 朝?」
碧が目をこすりながら伸びをした。
その左手の紋様がケイの紋様に呼応するように淡く脈動している。
「光ってる…… これ、何?」
ケイが何かに気づき、自分の左手の甲を碧の紋様に重ね合わせた。
『止まった……』
——ドォォン!!
大気が爆発したように振動した。
内臓が揺さぶられ、鼓膜が破れそうになる。
竜猿の咆哮が全身の骨を震わせ、碧が悲鳴を上げた。
突風が森を薙ぎ払い、石礫や枝が羽ピーに叩きつけられる。
「ドラゴン……モンキー?」
『飼育係!! おめ! 何やってるだ! もし!』
上空から羽猿の一団が、竜猿の咆哮に煽られるようにしてケイの前に降下してきた。
先頭にババ様と黒い塊が乗っていた。
『ババ様! 竜猿がこっちに来るだ、もし!』
『こら飼育係! 竜猿だけじゃ、あんめ! 月の連中もこっちに来てるだ! もし』
『それだけじゃないぞな、闇の連中もこちらに来てるだ、もし』
黒い塊がぼそっと言うとババ様に杖で殴られる。
『それは分かっとるだな! 巌窟寺院にいくだあ! もし!!』
「ケイ兄ちゃん……? なんて言ってるの?」
碧が困った顔をしてケイに聞いた。
『僕たちを狙ってる人たちがたくさん、いる……』
「……?」
ケイの強張った顔を見て、碧も緊張する。
『巌窟寺院に行くつもりだ、この人たち』
碧はケイの震える声に不安を感じ取った。
「? なんとか寺院? 連れて行ってくれるの? ねえ! パパもママも来るんでしょ?」
碧はケイの手を握りしめた。その手は冷たく震えていた。
『助けてくれるかは、わからない…… けど、行かないと』
ケイが碧の手を取り、羽ピーにつかまらせた。
ケイもそれに覆い被さるようにしがみつく。
「羽ピー? 治ったの!?」
ババ様たちの羽猿が飛び立った時、東の濃紺に染まる空に無数の羽猿の群れが黒い点として見えた。
『ギャギャギャッ!!』
『逃げるだな、もし!』
『月の連中、もう来よったぞな、もし』
黒い塊が冷静に確認したとき、羽猿は一斉に飛び立った。
羽ピーは負傷したとは思えないほど力強く羽ばたくと、先頭を行くババ様の隣に並んだ。
『巌窟寺院へ行って、”絶望”の影を取り込むだ! もしぃ!!』
『取り込んだ影で竜猿を縛り上げるちゅうわけだな、そんなにうまくはいかないぞな、もし』
ババ様は黒い塊を叩くのをすら忘れて、羽猿を駆り立てた。
東の空が白み始める頃、その羽猿の最後尾へ使い手の羽猿の一団が音もなく迫っていた。
*
その少し前、上空では——
竜猿の咆哮が大気を歪めていた。一瞬遅れて羽猿の群れに衝撃波が襲った。
『咆哮の前に”絶望”の反応が消えた…… ”希望”が一瞬だけ光った……』
使い手が呟く。
夜明け前の魔の森の薄闇を、編隊を組んで数十匹の羽猿が西へと飛んでいる。
そのとき、ジムニーのエンジン音がその上空にかすかに響いた。
『タサキ……』
羽猿に掴まれたままのオムカは、森の中を見え隠れ走行する鉄の車のライトを見た。
オムカの紋様はドクドクと脈打ったまま、まるで気力を奪われているようだった。
『鉄の車…… 導き手様、あれに”欲望”の女と依代候補が乗っている。もし捕えるなら我が行くが……』
月の民が使い手の隣に羽猿を寄せた。
『放っておけ』
使い手は冷たく言い放った。
『今は”絶望”と”希望”の確保が先だ。引きこもっていた魔の森の奴らも出張ってきている……』
『魔の森の魔女……? なぜやつらが……』
『……目障りだ、蹴散らせ』
使い手の赤い目が冷酷な光をたたえた。
*
その頃、ジムニーは荒れた森の中を走行していた。
羽猿の群れがジムニーの頭上を通り過ぎる。
リューシャは見逃さなかった。
矢を取り出し、厳しい目を空に向ける。
『羽猿の群れ…… ケイの方向に向かってる?』
『……リューシャさん ……急がないと』
イリナが青白い顔をして揺れる車内で口を押さえている。
「言うこと! 聞きなさい!!」
未来が叫んだ。
暴れるハンドルを押さえつけ、アクセルを踏み込む。
サスペンションはすでに死んでいる。
車体と車軸が絶えずぶつかり、ガタガタと不快な揺れと音を響かせた。
振動で田崎は舌を噛み、後部座席で振り回された。
減速・加速するとゴン!という衝撃音と振動が車内を襲う。
「走ってるのが、奇跡だよ!」
田崎は後部座席で呻くように叫んだ。
「こっちでいいの!?」
未来が叫び、モーイが杖を向ける方向にジムニーを走らせる。
田崎の横でイリナが青白い顔をしてモーイに何かを伝えた。
「碧の、光の、反応が、あった。一瞬、だけど、光の、残滓が、残ってる。こっちで、大丈夫」
モーイがダッシュボードの上で、ボブルヘッド人形のように頭を揺らして言った。
闇の森は地面が抉られ、それは東の方向に向かっていた。
昨日の暴走の痕跡だった。
ところどころ木が薙ぎ倒され、猿の死骸が散乱している。
モーイは細かく杖を動かし、方向を指示していく。
「なんで? 分かるの?」
照らし出すライトは不思議と障害物を避けている。
「碧の、光の、場所が、分かれば、なんとなく、安全な道が、見えて、くる、からね」
「……そんな、もの?」
「未来? ガソリンは?」
「半分を切った。携行缶も残り少ない! ガス欠になったら終わりよ!」
そのとき、竜猿の咆哮がジムニーを突き上げるように揺らした。
一瞬の間を置き衝撃波と小石がジムニーを叩いた。
「竜猿……?」
『……急いで。ミクさん。みんな、月の民も、魔の森の民も、闇の民も、竜猿も、全部、あの子たちに向かってる……』
イリナが青白い顔で震える声で言った。
「未来! 急げ!」
「言われなくても急いでる!!」
ジムニーは異音と白煙を撒き散らしながら、夜明け前の森を飛び跳ねながら進む。
東の空が、白み始めていた。




