26話 出発
まだ夜も明け切らぬ早朝。
田崎が目覚めたとき、すでに未来の寝床は空だった。
底冷えのする中、天幕を出ると未来はすでにジムニーの点検をしていた。
騎士団もすでに支度をすませ、天幕の撤収作業が始まっている。
「おはよう、未来」
気まずいながらも、朝の挨拶をし反応を窺う。
「……おはよう」
未来は抑揚のない声で返した。顔はこちらを向くことはない。
「……」
「未来…… 昨夜のことは……」
「何も言わないで」
未来は手先を止めずに田崎の言葉を遮った。
「……今は、碧を助けることだけ考えましょう」
田崎は諦めてため息をついた。
「……ガソリン、補充しておくか」
「そうね」
「……」
「グランには悪いが、残せそうにはないな……」
漏斗を使ってガソリン携行缶から注ぎ入れると、残りは半分くらいになった。
そのとき、リューシャが近づいてきた。
未来の大きめのピンクのジャージに、騎士団の鎧を分解し胸当てと籠手、脛当て用に仕立て、騎士団のベルトに剣と矢を吊るしていた。奇妙な取り合わせだが、不思議と似合っている。
リューシャは田崎を一瞥すると未来に向き直った。
モーイが浮かない顔でリーの背中に乗って、リューシャに付き従っている。
『ミク殿、おはよう』
未来の前に立ったリューシャは戦士の顔だった。
『昨晩は、ミク殿にいらぬ心労をかけた』
未来はリューシャの左手の紋様をちらりと見た。
「いいの。そう…… 落ち着いたみたいね」
未来は腰に手を当ててため息をついた。
『そのう…… この衣装、もうしばらく貸していただけないだろうか?』
「確かに着るものはなさそうね。いいよ、それもらって」
それを聞いたリューシャの顔が輝いた。
『いいのか? こんな動きやすい衣装をいただいても』
「確かにここじゃ、サイズが合う服を探すのは苦労するでしょうね」
『ミク殿、感謝する』
「それ一着だけじゃ、困るでしょ。他にも服あるから置いていこうか?」
それを聞いたリューシャが慌てて手を振った。
『それは、ありがたいが、今はこれだけで良い。今はケイとアオを早く助けにいきたい』
「じゃ、無事に見つかったらでいいかな。リューシャさんはスタイル良いからきっと似合うわよ」
『必ず、無事にケイとアオを助け出す』
未来は一瞬だけ視線を伏せ、深く息を吸った。
「運転はまかせときなさい!」
二人の女は見つめ合って、がっしりと握手をした。
どうなることかと、ハラハラして見ていた田崎とオムカが胸をなで下ろした途端、未来の冷たい声に二人は背筋を伸ばした。
「圭一? ぼやぼやしてないで、足回りの補修を済ませてちょうだい」
騎士団が朝食を準備してくれていた。暖かなスープとパンを食べると体が温まってくる。グランがハンクを伴って田崎一行のもとに顔を出した。
『我らは、夜明けと共に出発する。すでに斥候と工兵の一部は先発させた。今のところ竜猿の影の気配はないそうだ』
そのときイリナが騎士に伴われて田崎のもとに現れた。
騎士団が一斉にひざまずく。
『イリナ法王猊下』
グランが頭を下げる。
『……みなさま、顔を上げてください』
緊張した面持ちだが、その瞳には凛とした意志が宿っていた。
田崎はその姿を見て、胸が痛んだ。
『聖戒の光をみなさまのお力で、必ず取り戻します』
——こんな小さな体に…… あまりに重すぎる。
『タサキ、イリナ法王猊下をお頼み申す』
グランが真剣な眼差しで田崎を見た。
「もちろん。それで最終的には巌窟寺院に向かう、でいいんだな? そのイリナ法王猊下……も?」
『今、父ホーガイが封印の巻物を持って、巌窟寺院に向かっています。祭壇がないとはいえども、闇はそこより濃い場所はありません。そこで封印の影を祓い、その時にできる影でタサキ様、ミク様、アオ殿を異界に送り返しましょう』
田崎は十二年前、小人の里で見た封印の巻物の半分に染みついた黒い影を思い出した。
「その封印の影を取り払えば、あの竜猿も再封印できる、でいいんだな?」
『そのためには、使い手より早くアオとケイを見つけなければなりません』
「碧とケイの居場所は分かるの?」
未来が割り込んだ。
『……チョーローからの連絡でも、正確な位置は分からない。だけど、竜猿の影の位置はある程度、わかったみたい。そこで”絶望”の影も感知したって……』
モーイがオムカの言葉を通訳していくが、オムカは珍しく口ごもった。
「そこは、どこだ?」
『……魔の森…… 闇の森の北方にある』
「……魔の森?」
『恐ろしい魔女がいる…… 魔女に捕まったら誰も帰ってこられない…… 小人さえも……』
「……」
『先発の工兵に鉄の車が通れるように障害物を取り除かせている。オムカを借りていくぞ』
オムカは田崎を見た。その目が潤んでいる。オムカの左の紋様が、一瞬怪しく光ったような気がした。
「オムカ……」
「ねえ、あと三日で間に合うの?」
『巌窟寺院までは馬で三日。ぎりぎりだな。詳しいことは車内でモーイから聞いてくれ』
グランが話を締めた。
『さあ、出発だ』
*
その頃、地下の広場では——
碧とケイは飼育係に導かれ、ほのかに苔が発光する長く狭い通路を歩いていた。
『ケイ兄ちゃん…… どこ、行くの?』
碧が不安そうにケイの服を掴む。
昨晩はここのドームで羽猿たちと一晩を過ごした。
羽ピーは碧とケイに懐いていた。
羽ピーの羽毛に包まれて二人は眠った。
給餌係からもらった不思議な水を飲むと空腹感は和らいでいた。
『ババ様に会いに行くんだ』
「ババサマ……?」
『ババ様がダメと言ったらどうなるんだ?』
ケイが飼育係に聞いた。
『ババ様がなんと言うか、まったく見当もつかんな、もし』
「ケイ兄ちゃん…… わたしたちどうなっちゃうの?」
碧がケイの服をぎゅっとつかんで後ろを歩いていく。
ババ様は広場から続く長い通路を通ったその先の小さなドームにいた。
『ババ様。お客だな、もし』
ケイと碧が狭い入り口をくぐると、黒いフードをまとった小さな影が座っていた。
飼育係よりもさらに小さい。碧の膝くらいの高さしかなかった。
フードの奥から、鋭い目が覗く。その目は、深い知恵と長い歳月を物語っていた。
部屋の空気が、ピリッと張り詰める。
『まあた! 飼育係!』
ババ様の声が響いた。しわがれつつも力強い声だった。
『やっかいなものを持ち込んできおって、もし!』
碧とケイは思わず身を縮めた。
『それは、拾い物係の仕事だべな、もし』
そのとき、壁際に暗闇と同化したような黒い塊が動いた。よく見ると薄汚れた黒いフードから手足がニョッキっと覗いていた。
『おめは黙っとれ! このコンコンチキがあ、もし!』
ババ様はその塊に一喝して、飼育係に向き直った。
『飼育係、おめが責任もって飼育するだ、もし。バカモンがあ! 給餌係が大変になるだな、もし』
碧とケイがババ様の前に座ると、ババ様はまくし立てるように言った。
二人は不安そうに顔を見合わせた。
『ババ様。竜猿も来てしまってるだ。どうしたら良いだ、もし』
飼育係がオロオロと尋ねる。
ババ様は深いため息を吐いた。
『竜猿は、あの闇の森の入り口さ、ぶっ壊して、そこに居座ってるだな、もし』
ババ様はじろりと碧とケイの左手の紋様を見た。
『可哀想にあの竜猿は、そこさ”絶望”の影の中毒んなってまってるわな、もし』
『中毒……?』
ケイが自分の手を見つめる。
『どうしたら良いだ? みんな怖がってるだ、もし』
そのとき、また壁際の黒い塊が口を挟んだ。
『”絶望”の子をどっかやっちまえば、竜猿もそっちいくだな、もし』
『この浅はか毛録クソジジイがあ! ”絶望”が喰われたらこの森も終わるだ! もし!』
ババ様が杖を振り上げると、その黒い塊はさらに縮こまった。
ババ様は碧に向き直った。その瞳が鋭く光る。
『異界の”希望”の子よ。”絶望”の影を取り払えるのは、おめしかおらんな。おめらは、巌窟寺院に行くだ、もし。そこでしか、それは出来ねえだ、もし』
『巌窟…… 寺院……』
ケイがつぶやいた。そこは、全ての始まりの場所だ。
『そうだべな。おめらは二人で一つだ、もし。”絶望”があんから”希望”が光り輝く……。影があって光が尊いんと同じだべな、もし』
ババ様はかすかに口元を緩めた。
『仕方あんめ。飛行係に、おめら巌窟寺院に行けるよに羽猿さ、たくさんつけるぞな、もし』
そして飼育係を睨みつけた。
『それまで責任持っておめが面倒みるだな! もし!』
*
田崎は運転席に腰掛けた。
隣には未来。後部座席にはイリナとリューシャ、リーが真ん中でイリナに寄り添っていた。
——もう戻れない。
行くしかない。
二人の父として。
田崎はジムニーのエンジンキーを捻った。
エンジンが力強く唸り、車体が震える。
アクセルを踏み込むと、ジムニーは土煙を上げ、野営地の結界を突き抜けた。




