23話 崩落
その竜猿の石像はケイの影を浴び続けていた。
糸を引くように黒い影が竜猿のヒビに入り込み、薄皮を剥がすようにその鱗がさらけ出されていく。そしてその巨大な目が、子ども二人が乗った羽猿を捉えた。
羽猿はすでに小さな点になっている。竜猿の目がギロリと動く。
竜猿は翼をまるで確かめるようゆっくりと広げた。
次の瞬間、羽ばたき始める。
その衝撃で古い寺院が大きく揺れた。寺院の壁が崩れ落ち、石片が雨のように降り注ぐ。
『せ、制御しろ!!』
『術は、完成してない…… 無理だ……』
『こ、こんな、早すぎる…… 強すぎたんだ…… あの”絶望”の影は……』
『影を、影を送れ!!』
『あの”絶望”の影を…… 中途半端に送っていた罰が……』
黒い影が膝から崩れ落ちた。
『長老は!? 長老はどこだ!?』
誰かが叫んだ。
だが、答えはない。
『退避だ! 羽猿に乗れ!』
慌てて鈴を鳴らす。だが、混乱した猿たちは制御を失っていた。
『……終わりだ……』
一人の闇の民が、呆然と呟いた。
『我らが…… 解き放ってしまった……』
そのとき、竜猿が咆哮した。
衝撃波が、ドーム状に一瞬にして広がり、木々が、岩が、土が震え、強風が辺り一面を薙ぎ倒した。耳をつんざく轟音とともに寺院全体が振動すると丸い石屋根から崩れ始めた。
寺院にいた猿が悲鳴を上げ逃げ惑う。
数匹の羽猿につかまった闇の民が寺院の崩落から逃れた。
『な、なんということ……』
『長老は? 長老は無事か? 無事に地下に逃げていればいいが……』
『ギャギャギャー!!!』
そのとき、羽猿にかろうじて掴まった闇の民の上に影が落ちた。
羽猿に乗った闇の民を横目に、巨大な質量をもった黒い塊が悠々と飛び上がる。
羽ばたきを一つするとそれは高度を上げた。竜猿の目が前方を飛ぶ一匹の羽猿を捉える。
「きゃー!! ド、ドラゴンモンキー!!!」
羽猿に乗った碧とケイも竜猿の咆哮の衝撃波を受けた。全身がビリビリするような衝撃に打たれ、碧は身を縮め、骨の出っ張りから手を離しかけた。
『アオッ!!』
ケイは体を碧に押し付けるように支えた。しかし、羽猿はそうはいかなかった。ギャ、と一声叫ぶと気を失ったようにきりもみしながら高度を下げていった。
「羽ピーッ!! 頑張ってッ!!」
碧が必死に羽猿にしがみつき、声を張り上げる。
「羽ピー!! 起きてーッ!!」
『羽猿!! 落ちるぞッ!!』
ケイが真っ赤な顔で叫んだ。
「羽ピー!! お願いッ!!」
その碧の必死な懇願に、羽猿の頭がかすかに揺れた。
「羽ピーッ!!」
『ギャ……』
碧の声に羽猿が答えるように鳴いた。
『ハネピー?!』
ケイもその呼びかけにつられて声をかけると、羽猿はゆっくりと翼を動かし始めた。
『ハネピー!! 影だ! 影を食え!!』
ケイは左手の甲の紋様を羽猿の背中に押し付けた。ケイの紋様から滴り落ちる影は羽猿の体にまとわりつき、その体に吸収されていく。
——ぼくの影が…… こんなふうに竜猿を目覚めさせた……?
罪悪感が胸を締め付ける。ケイは目をつぶった。
『ギャギャギャッ!』
そのとき羽猿が力強く鳴いた。
「きゃああああ!!!」
碧が悲鳴を上げたとき、地面すれすれで翼を広げた羽猿は小石を巻き上げ、急上昇した。
『うわあああ!!』
森の上に出たとき、後方に竜猿が翼を広げてこちらに向かっているのが見えた。
「羽ピー! 逃げて!!」
碧が振り向いて必死に叫ぶ。その声に呼応するように羽猿は速度を上げた。
『ハネピー! もっと影を食え!!』
ケイが左手をぐいぐい背中に押し付ける。
『ギャギャギャッ!』
羽猿は力強く羽ばたくと、羽をすぼめ急降下した。木々の間を抜けるように飛翔していく。
上空から、竜猿の巨大な影が迫っていた。
「羽ピー!! 上から来るよ!」
『ギャ!』
羽猿は一声叫ぶと地表すれすれまで高度を下げた。枯れた木々の間から、竜猿がさらに近づいてくるのが見えた。
「なんでッ!? なんで? こっち来るの!」
『ハネピー! もっと影食べろ!!』
竜猿の赤い目が羽猿を捉える。
『ギャっ!』
羽猿が一鳴きすると、地面に開いた空洞の中に飛び込んだ。
その瞬間、衝撃音とともに空洞の入り口が崩れ落ちる。
竜猿が空洞の入り口に突っ込んで追いかけてきていた。
空洞は広いようだった。羽猿は暗闇の中を奥へ奥へと入っていく。背後から空洞が崩れ落ちる音と竜猿の咆哮がビリビリと鼓膜を刺激した。冷凍庫のような冷気が二人にまとわりつく。羽猿は勝手知ったるかのごとき、全速力で暗闇を切り裂いていく。
「きゃあああああ!!!」
『うわあああああ!!!』
まるで壊れたジェットコースターのように右へ左へ上へ下へ羽猿は駆け抜ける。
ケイが気づくと頭上にあった空間はなくなり、圧迫感が二人を襲った。狭い洞穴に入り込んだようだった。背後から空洞を粉砕しつつ迫る竜猿の咆哮が反響した。
必死に碧は羽猿にしがみついた。
真っ暗で冷たい空間。後ろから、怪物が追いかけてくる。
「パパ…… ママ……」
涙が頬を伝った。
だが、羽ピーは必死に飛んでいる。
ケイ兄ちゃんも、必死に守ってくれている。
「……頑張る」
碧は歯を食いしばった。
「羽ピーもッ! 頑張って!!」
必死に羽猿にしがみついた。
『ギャギャギャ!!』
羽猿はブレーキが効かない車のようにさらに速度を上げ、暗闇を猛スピードで駆け抜けていく。
『ハネピー!! 落ち着け!! もう影あげないよ!!』
ケイが叫んで左手を隠すように背中に回した。
『ギャッ?』
羽猿は速度を落とした。竜猿の咆哮はいつの間にか小さくなっていた。竜猿は、この狭い空間に入ってこられないようだった。
そして、羽猿は広い空間に飛び出した。ほのかに光がまたたいている。かすかに香の匂いが漂った。そこは地底とは思えないほど幻想的な場所だった。壁や天井に張り付いた苔が青白く輝き、星空のようにドームを照らしている。
羽猿は翼を広げたままゆっくりと旋回し、下降していく。
『ギャギャギャ!!!』
下の広場から複数の羽猿の叫び声が返ってきた。薄闇に無数の赤い目が蛍のように浮かび上がる。
『ここは……?』
ケイが呆然とこの幻想的な空間を見ていた。目が慣れてくると広いドーム状になった空間に羽猿がたむろしているのが見えた。
「ハネピーのおうち?」
羽猿は地底に降り立った。ケイに頭をつけるように甘える。ケイの左手の紋様からはまだ影が漏れていた。その影に集まるように他の羽猿が近寄ってくる。
『ギャ……』
そのとき、声が聞こえた。
『めんずらすーお客もあったもんさなあ、もし』
早口の強い訛りが響き、ケイが困惑の顔を浮かべた。
『……何を言ってるのか ……よく分からない』
黒いフードを被った小さな人影が羽猿の間からぴょこんと顔を出した。
『あんれまあ…… 耳長の坊ちゃんとそぢらのおっきいおなごはなんだな、もし?』
「……?」
碧も首を傾げる。
だが、敵意はないようだった。
黒いフードの人影が近づいてきた。碧の肩ほどの身長でフードから覗く目は赤く、真っ白な肌をしていた。
『あなたは、誰?』
ケイのその質問は無視された。
「小鬼……?」
碧がぼそっとつぶやいた。
「二人もいる……」
その黒いフードの後ろから続いて同じような人影が現れた。
『おめらのその紋様…… 祭壇と同じだべ? その影、止めてけろ…… 猿たちには毒だべ、もし……』
フードを目深に下げて顔を背けた。
『どうやって止めたら良いか分からない……』
その声を聞くとケイの左手に近づき、その手を取った。
『おうおうおう…… これは闇の輩のまじないがかかっておるな、もし』
そう言って、その手に何かをつぶやくとケイの左手の影は止まった。
『強い影さ中毒になってまう、そうだだらこの子たち可哀想なことになるぞ、もし』
黒いフードは羽ピーに近づくと手のひらから影を出した。その影は羽ピーを覆っていく。
『あなたは猿使い?』
ケイが再び尋ねた。
『いんや、おでは”飼育係”、みんなから飼育係と呼ばれてるだ。こっちは”給餌係”』
『その羽猿、中毒んなったらその影なしでは生きられぬ体になってしまうところだったべ、もし』
『な、なんだって……』
ケイが青ざめて、羽ピーを見た。
『この子はもう大丈夫だあ。間に合ったなあ、もし』
飼育係が羽ピーをなでながら言うと、ほっとしたケイが手を差し出した。
『ハネピーを助けてくれてありがとう。ぼくはケイ、こちらはアオ。竜猿に追われてきたんだ。ここに隠れていても良いだろうか?』
飼育係は差し出された手を保留するように杖を振った。
『あの、いにしえの竜猿が目覚めたことはババ様がお見通しじゃな、もし。それで羽猿ども、みんなここに逃げてきとるわけだな、もし』
飼育係は二人を値踏みするように見上げた。
『ババ様のお許しが必要だな、もし』




