21話 失光
その光はホーガイ調査団の元にも届いていた。ある重要な機密を持ち帰るために小人の里に向かう途中であった。天幕を収納し、いざ出立という時、東の空が神々しく光り輝いた。
『聖都が…… 聖都が、猊下の最後の光を灯しておる……』
ホーガイの頭の上でメガネの小人が首を垂れた。小人の涙がホーガイの頭を濡らした。
まるで第二の太陽のように世界を照らし、しばらくするとその光は揺らぎ始めた。
やがて、蝋燭の炎が消える瞬間のように、光はふっと消えた。
『聖都は…… 墜ちた……』
小人が遠い目をした。それが何を意味するか、絶望的な戦力差を一行は知っていた。
ホーガイ一行は居住まいを正した。指を組み聖戒の言葉を短く唱える。
ホーガイはやがて顔を上げた。
『これを早く、チョーローのもとに、巌窟寺院に…… この世界はとんでもないことになる……』
ホーガイは馬車の荷台を見上げる。南方遺跡で手に入れた遺物は通常の荷台では持ち運べず、六頭立ての頑丈な荷台をあつらえた馬車が、重そうな荷物を引いていた。
ホーガイ調査団は、聖都に背を向けて小人の里に向けて早足で進み始めた。
*
ヴォルノ副団長の撤退戦はまさに修羅場だった。
聖都を離れることを拒否する民はかなりの数に上った。残った民は白旗を掲げ、今後の成り行きに強い不安を抱えていた。
それでも数万人の避難民を連れて、たった千騎あまりで護衛しつつ、鉄騎軍の追撃に対応しなければならなかった。最後尾はまだ城内に止まっている。
『家財道具は置いていけ!』
民の中には泣き叫ぶ母親がいた。幼子を抱き、家財の詰まった荷車を引く老人。振り返り、聖都を見つめる若者。
『脱出は西門だ! 急げ!! 急ぐんだ!!』
騎士団が馬を走らせながら、民に声をかけて回る。
法王の最後の光は猿どもを一掃し、鉄騎軍の武具を燃え上がらせ、それに乗じたデルグラ団長の突撃はかなりの打撃と混乱を敵陣営に与えていた。
それでも、黒焦げになった武具で鉄騎軍は追撃をしかけてきていた。次々と新手を繰り出す鉄騎軍に殿を務めるヴォルノ副団長は、全身血まみれだった。
『民を守れ!! 北東より新手! 第二部隊は応援に回れ!』
ヴォルノ指揮下の騎士団は勇敢に戦った。次々と仲間が倒れていく。
しかし必死な抵抗は徐々に、鉄騎軍を押し留めていく。
そして、敵方から角笛が鳴らされると鉄騎軍は一斉に退却し始めた。
戦場に血と鉄の匂いと敵、味方、焼けこげた猿の死体が残された。
その時、デルグラ隊の生き残りの騎士が息絶え絶えにヴォルノ隊に合流していた。
『デルグラ団長の最期は……』
涙ながらに報告する騎士の前にヴォルノは目を閉じた。
自分より年下であったが、その武勇、人を魅了する眼差しは人の上に立つ器だった。
『敵本隊に突撃し多大な戦果を上げ……』
ほぼ全滅だった。その犠牲が鉄騎軍の追撃撤退につながったことは明白であった。
『最期まで、剣を振るい続けられました……』
その言葉に、ヴォルノは拳を握りしめる。
――らしい、な……デルグラ。
おまえが作ってくれたこの時間、決して無駄にはしない。
『おまえの死に、必ず報いる』
ヴォルノは血まみれの剣を天に掲げた。
『ホーガイのところの小人と連絡が取れたよ』
ヴォルノの鞍上に座った小人が声をかけた。法王から聖戒の封印を守るように最後の命を受け、ヴォルノ隊に合流していた。
『鉄騎軍は聖戒の封印を狙ってくる。聖都にないことに気づいたら、血眼になって追ってくるだろうね』
ヴォルノは決断を迫られた。民を見捨てなければ使命は果たせない。
『鉄騎軍は民を奴隷にする。命までは取らない。生き残って捲土重来しないとね』
小人は簡単に言う。封印を守るためにも、今後のためにも騎士団は必要だった。
『ヴォルノ団長?』
ヴォルノは、振り向きかけて、歯を食いしばった。民の列と、懐と背中に背負う、あまりにも重い錫杖と聖戒の封印。
封印を持ったまま民と動けば、民もろとも戦火に巻き込まれる。見捨てた方は終わる。しかし、両方は守れない。
——ならば、
『もたもたしている暇はないな……』
ヴォルノは決断した。法王猊下とデルグラが命をかけて作った時間だった。副長を呼び寄せる。南部の街に避難誘導するための新兵の部隊を再編し、自らは囮となるべく残りの精鋭部隊を率いて北西のホーガイの元に向かった。その数は四百騎に満たなかった。
*
ジムニーは朝日の中、闇の森の外縁部をオムカの杖の指す北に進路を取っていた。ハンドルは田崎が握り、未来は助手席に座った。
ここまでの道のりでジムニーはさらにボロボロになっていた。
ボンネットは凹み、ドアは歪み、右後輪のオーバーフェンダーは失われている。剥き出しのタイヤが泥を跳ねた。泥と血と羽猿の爪痕に彩られた車体は、もはや新車の面影はない。サスペンションは悲鳴を上げ、ブレーキの効きは明らかに悪くなっている。
そして、冷却系に異常の兆候が出ていた。
「ガソリンはあと半分か。ガソリン携行缶はあと一つしかない……」
田崎が燃料計を確認する。
「エンジンの音も、ちょっと変よね」
未来が眉をひそめた。
「でも、まだ走れる」
田崎はハンドルを撫でた。
十二年前も、この相棒は最後まで走り続けてくれた。
「碧のところまで、頼むぞ」
ジムニーは答えるように、力強く唸りを上げた。
ジムニーは低速四駆で起伏のあるわずかに轍が残る小径に沿って、砂利を巻き上げながら走っていた。
ジムニーの挙動が田崎の不安を高めるのに、そう時間はかからなかった。
「あれ? なんかエアコンから冷たい風が吹いてくる?」
エアコンの吹き出し口からの送風が、いつの間にか冷気に変わっていた。
「……ヒーター、効いてない?」
未来は窓を少し開けた。冷たい朝の空気に混じって焦げとは違う、甘ったるい匂いが鼻を突いた。そのとき、田崎はメーターの奥で赤い警告灯が一瞬ちらついたのを確認した。
田崎は息を呑んだ。
——水温だ。冷却水が漏れている。
「止めよう。今すぐじゃない。けど…… 長くは走れない」
田崎はすぐさま、ジムニーを停車した。
「低速四駆の使いすぎかも……」
未来がため息をついて、眉を寄せる。
「ちょっと、点検で止まるよ」
田崎は振り向いて、後席に伝えた。リューシャは、急に止まったジムニーに不安な面持ちになる。イリナは意識を取り戻していたが、朝から顔色が悪く食事も喉を通らなかった。
重苦しい空気の中、早朝に出発した一行だったが、それほど進まないうちに中途半端に止まったジムニーに不安が高まった。
そして、そのとき森から衝撃波がジムニーを襲った。
田崎と未来が車を停めて、降りようとした時だった。
聴き覚えのある、かすかな咆哮と地響きにジムニーが揺れた。一瞬の間を置いて小石や小枝がジムニーを打ちつけた。
思わず田崎はリューシャと顔を見合わせた。
「今のって…… まさか……」
『……竜猿が…… 目覚めた……?』
未来を除く一行は、表情を曇らせた。
『竜猿…… どころじゃない……』
オムカが口を開いた。その顔が青ざめている。
モーイが深刻な顔で通訳を始め田崎が運転席に座り直した。
「……ホーガイのところの小人から連絡がきた」
オムカのいつもの楽天的な様子は影をひそめ、話すたびに後部座席で重苦しい空気が流れた。
『法王ちゃんが…… 死んじゃった……』
オムカはしゃくり上げた。大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちる。
「聖都が、堕ちた…… デルグラ団長も……」
リューシャが息を飲む気配がした。イリナが目を閉じた。
「……」
田崎の脳裏に、十二年前に草原の聖戒の陣で出会った法王の神々しい姿が浮かんだ。
「……イリナ。次の法王は……、君だよ……」
その声に一同は目を見開いた。
「法王って、何? この国で一番偉い人? それが次がイリナ……?」
未来がモーイにささやいた。
「うん。この国の政治体制は、君らの世界では、昔のチベット王国みたいなもん」
モーイも小声で答える。
「普段は、ローマ教皇みたいに高位者から選ばれるんだけど……」
『法王様……』
イリナがつぶやいた。
リューシャが、そっとイリナの肩を抱く。リーが心配そうに見上げる。
『イリナ……あなたは、一人じゃない』
そのイリナの瞳から一筋の涙が流れ、静かな嗚咽が響いた。
「つまり実権を持つ、最高権力者……?」
田崎が確認した。この小さな娘にとてつもなく重いものがのしかかっている。
——また守るものが増えた……
そしてまた、とんでもないことに巻き込まれた……
——守れるのだろうか……?
「未来、ジムニーの点検をしようか……」
——この車が壊れてしまったら……
碧とケイを救うどころかイリナを連れて、これから猿の化け物がうようよするこの森を抜けることすら危うい。
そして、竜猿と思しき咆哮。
顔色が悪く強張らせたままの表情のイリナを、田崎は見た。
——法王…… それは、守られる立場ではない。
聖戒の陣での法王の威厳のある姿を思い出す。
人を導き、人を守り、守りきれなかった者たちの死を、すべてを背負う役だ。
田崎は、暗澹な面持ちでジムニーのボンネットを開けた。




