10話 潜入
夜が更けていく。喧騒を極めた収穫祭も、この時間になれば酔客たちは夢の中だ。通りからは人影が消え、代わりに衛兵の見廻りが増えていた。
リューシャは建物の影に身を潜め、黒衣と同化するように座り込んでオムカの帰りを待っていた。
――遅すぎる……
捕まったのか……オムカ?
連絡手段はない。小人の「影伝え」は小人同士でしか通じない。
――突っ込むか?
リューシャが黒衣の下に隠した長剣の柄に手をかけたとき、背後から囁き声がした。
「遅くなっちゃって、ごめんね」
オムカだった。ほっとしたのも束の間、その表情を見てリューシャの眉間にしわが寄った。
「危なかったよ。猿に追われて、下水道に逃げ込んで撒いたんだ」
オムカからは鼻を突く独特な腐臭が漂っていた。
「あまり良い知らせじゃなさそうね」
オムカの表情は雄弁にそう語っていた。
「良くない知らせと悪い知らせと二つあるんだ」
リューシャは短くため息をつき、先を促す。
「一つ目は鉄騎軍が聖戒国への奇襲を企てている」
「もう一つは?」
「カケラの反応が地下室にあった。だけど”使い手”と一緒。厳重な警備の中にある」
「……」
「王都近くに来てから一月近く、影伝えができないのは、きっとあの使い手が何か張っているせいだね」
「どうする?」
「地下道を見つけてそこから出てきたけど……」
「そこから侵入するのね」
「鉄柵があって、このままじゃリューシャは通れない。それに猿もいる」
「……本当に悪い知らせね」
「奇襲なんだけど、陽動とは別の部隊は、どうも巌窟寺院を目指すつもりみたいなんだ」
「祭壇を復旧するため……?」
「たぶん、竜猿の封印を解こうとしているんじゃないかな?」
「……それは、確かなの?」
「騎士たちの話を盗み聞きした推測だけど、間違いないと思う……」
「もし……そんなことになったら……」
「うん、世界が終わるね」
「聖戒の封印はどうなってるの?」
「……真っ黒だよ」
オムカは深く息を吐いた。
使い手が祭壇を復旧すれば、影の力で数百体の竜猿が眠りから解き放たれる。そうなれば、なすすべもなく世界が蹂躙されることは明白だった。
「なんとかしないと……」
そうなればタサキに会うどころか、命すら危ぶまれる。
「乗り込んで一つでも奪い返すしかないね」
「柵は壊せない?」
「猿もいるよ」
「問題ない」
リューシャは長剣の柄を強く握りしめた。
*
地下道への入り口は下水道と繋がっていた。汚物の腐臭と潮の香りが混ざり合い、鼻をつく。リューシャたちは王都の城壁を越え、入り江に面した崖の中腹に張り付いていた。
「ほら、猿がいるよ」
羽猿の姿が見えた。気配を探るが一匹だけのようだった。
「問題ない」
リューシャは小弓を手に取ると矢をつがえ、狙いをつける。黒い塊が異変を感じて振り向いたとき首筋に矢が突き立った。声を上げる間もなく、猿は暗い海へと落ちていく。
「さすが」
崖の中腹に、地下道が黒い口を開けていた。汚水はそのまま下の暗い海に垂れ流されていた。細い足場をオムカは軽やかに渡っていくが、リューシャはそうはいかない。
「落ちたら海に飲まれるね。リューシャは泳げる?」
「落ちることはない」
時刻は深夜。雲一つない空に上弦の月が冷たく浮かんでいる。朧げな月明かりが照らす足場に、リューシャは慎重に足を乗せた。
「そこに足場があるよ。気をつけて。鉄柵があるけど、錆びてるから何とかなりそうだね」
オムカが言う通り、力を込めると鉄柵は根本から外れ、海へ落下していった。
「ここからは這っていくしかないね」
オムカは地下通路の細い出っ張りを伝って歩いていく。リューシャはそのあとを追って黒衣を汚水に濡れそぼらせながら匍匐で進んだ。
その姿にネズミが驚いて逃げていく。しばらく進むとオムカは立ち止まった。地下水が滴る縦穴が上に続いていた。
「ここから降りてきた」
オムカは声をひそめる。
「この上に詰め所の地下に続く通路がある。だけど小さ過ぎて、壊さないとリューシャは入れない。その前にここ登れる?」
「……」
リューシャは立ち上がると狭い縦穴を見上げる。暗闇の中でも、リューシャの目は壁の凹凸を捉えていた。窪みに手をかけ、強引に体を引き上げる。縦穴に入ると肩がギリギリ通った。腕力だけで一気に体を持ち上げ、つま先で凹みに体を預け芋虫のように上っていく。その度に黒い衣装が破けていった。
やがてリューシャの手が縦穴から出て、凹みを探り当てた。
体を持ち上げると、ようやくしゃがめる高さになった。そこは地下道のようだった。暗闇の中、手で探ると煉瓦で壁が固められてあった。
そのとき、暗闇のむこうから耳障りな唸り声が響いた。
リューシャは咄嗟に腰の小弓に手を伸ばしたが、指先に伝わる感触に舌打ちした。
「割れてる……」
リューシャは長剣の柄を握った。暗闇に赤い目が光る。鞘ごと引き抜き、突き出すと重い手応えとともに悲鳴が上がった。
グルルルルルッ……
気配が増える。山犬ほどの大きさがある猿——狗猿が集まってきていた。
「リューシャ! こっち!」
オムカが後方の通路に杖を差した。振り返ると小窓があり、そこから松明の灯りがうっすらと漏れていた。
ガウッ! 一匹の狗猿が吠えかかり、飛び込んでくる。リューシャは鞘を抜き捨てるとその赤い目にめがけて刃を突き刺した。悲鳴が上がり、周囲の唸り声が一層大きくなる。
「気づかれる!」
オムカが鋭く警告した瞬間、狗猿の群れがけたたましく吠え出した。
「くそッ!!」
リューシャは狗猿に刃を向け、牽制しながら後ずさる。
壁の向こうから人の怒号と鎧の擦れる金属音、そして足音が響いた。
「気づかれた……」
前方からは吠え声とともに狗猿が押し寄せる。
「リューシャ、ここの壁が薄い」
「ぶち抜いて突破する!」
リューシャは剣の柄頭で壁を強打した。鈍い衝撃音が響く。背後から狗猿が飛びかかった。すかさず剣を鋭く返し、空中で狗猿を切り裂く。
狗猿の悲鳴が上がり、血飛沫が舞う。リューシャは一歩踏み込んで剣を振るい、狗猿を威圧して距離を取らせた。振り向きざま、渾身の力で剣の柄を壁に叩きつける。
煉瓦が砕け亀裂が入った。壁の向こうで人の気配が膨れ上がる。
何度目かの打撃で光が漏れた。その瞬間、リューシャは柄ごと体を壁にぶちかました。轟音とともに壁が崩落する。煉瓦の下敷きになった騎士の悲鳴が上がった。
土煙の中、リューシャは壁の向こうに躍り出た。回転して着地し、即座に身構える。
「うわああ!! 黒衣の! し、死神だ!!」
数名の騎士たちが悲鳴を上げた。震える剣先がこちらを向いている。
黒いフードを目深に被った巨体が廊下で立ち上がると、天井に届きそうなその威容に騎士たちは圧倒され、言葉を失った。だが次の瞬間、再び絶叫がほとばしる。
「ま、魔物だ!! 狗猿だあ!!」
狗猿が壁の穴から雪崩れ込んできたのだ。血走った赤い目は、リューシャだけでなく騎士たちにも見境なく襲いかかる。
「敵襲!! 襲撃だあああ!!!!」
騎士たちの絶叫が響き渡る。
「リューシャ! こっち」
いつの間にかリューシャのマントの中に潜り込んでいたオムカが肩から顔を出し、杖で先を指した。
リューシャは呆ける騎士の一人を蹴飛ばすと、オムカの示す方向に走り出した。天井は低く、身をかがめ廊下を疾走する。
「誰かッ?」
誰何の声が上がる。槍を構えた二人の騎士を、一振りに薙ぎ払うと倒れ込んだ騎士に目もくれず通り抜ける。
その先に扉があった。
「そこ! カケラの影の反応があるッ!」
オムカが叫ぶ。後ろからは狗猿の吠え声と騎士たちの悲鳴、そして増援の足音が迫っていた。
リューシャがノブに手をかけると、重たい鉄の扉は内側へと開いた。
薄暗い室内。青白い灯りがぼんやりと浮かんでいる。石造りの室内には、重苦しい香の匂いが立ち込めていた。
――巌窟寺院と同じ匂い……?
リューシャが立ち止まったとき、部屋の中央で坐禅を組んでいた小柄な影が、ゆっくりと目を開けた。
「おお……その顔……見たことがあるぞ……」
リューシャの全身が総毛立った。
その影が黒いフードの内側を見透かすような視線を向けたとき、リューシャは見た。
焼け爛れた左半分の顔、光のない左の瞳。しかし、右半分の顔は年老いた別のものだった。
「使い手……? 月の民……? まさか、あのときの……?」
「ほう……覚えておったか……」
その口が歪む。
それは笑みなのか苦悶なのか、血が凍りつく感覚にとらわれる。
「この身を貸しておる……この哀れな老いぼれにな……」
その冷たい声には覚えがあった。光を失った左目全体が黒く濁る。
「……盲目の……僧侶……?」
その声と左目は盲目の僧侶だったが、しかしその月の民の右目は理性を宿しているように見えた。
そのとき、影が音もなくリューシャに忍びよった。使い手が伸ばした左手の骨ばった指から黒い蛇が湧き出るように鎌首をもたげた。その左手の甲には赤黒い紋様が不気味に脈打っている。
「……ッ」
オムカが気づき詠唱を始めた刹那、黒い蛇がリューシャに絡みついた。
「……動け、ない……」
剣を抜こうとしたリューシャの腕が、ギリギリと締め上げられる。
「……ケイ……タサキ」
黒い蛇はリューシャから生気を吸い上げるように脈打ち、膨らんでいく。
「リューシャ! しっかり」
あがらう力も奪われ、リューシャは膝から崩れ落ちた。
「あのときの小人もおるか……」
その右目がオムカを捉える。
次の瞬間、影がオムカを飲み込んだ。
「紋様の依代に……祭壇に捧げる血の贄に……」
薄く口を歪めると鈴を鳴らした。
後ろに控えた鬼猿が積み上げた石板を運び、倒れたリューシャとオムカの前に置いた。
「……盲目の僧侶……あやつの”光”が反応するか……?」
その口が詠唱を始めると石板が光り輝き始めた。
「……やはり光ったか……さて、どの紋様がどちらの依代を選ぶか……」
やがて二つの石板が音を立てて割れ、光が収束する。
「あやつの”光”を、すべてを闇に塗りつぶす……」
砕けた石板を見た男の口が、さらに深く歪んだ。
「……タサ……キ」
リューシャの顔が苦悶に歪んだ。
「ほう、まだ意識があるか……選ばれたのは”それ”か……面白い……」
倒れ込んだリューシャとオムカの左手の甲に異なる紋様が刻まれた。
「……うぅ」
リューシャの手が、這うように使い手に伸びる。
「残る紋様は、あと二つ……あとは小人どもが隠したカケラだけだ……」
使い手の体から伸びた長大な影は、はるか彼方の小人の里を見下ろすように揺らめいていた。




