第8話 一緒に飛ぶ決意
雲ひとつない空が、王都の上に広がっていた。
白い石畳の街並みを抜ける風は、冷たくもなく、ぬるくもない。まるで今日という日を祝福しているかのように、柔らかく頬を撫でていく。
王都で開かれる、竜騎士団の飛行披露。
討伐成功の凱旋を兼ね、王が主催する年に一度の式典だ。国中の貴族や平民がこの日を楽しみにしており、街には朝から人であふれていた。
そしてその空の下、訓練場の片隅でひとり、ミエラは深呼吸をしていた。
――怖くない。もう怖くない。
何度もそう言い聞かせるように、手のひらをぎゅっと握る。
爪の跡が残るほど強く握りしめて、ようやく少しだけ落ち着く。
「ミエラ、準備はできた?」
振り向けば、ディーノがいた。いつもの穏やかな笑みを浮かべ、風に金の髪を揺らしている。彼は今日も人の姿だが、どこかその奥に竜の気配を纏っていた。
その姿を見るだけで、ミエラの胸はほんの少し、温かくなる。
「うん……大丈夫。もう、怖くないと思う」
「そう。……でも、怖くなってもいいんだよ」
「え?」
「空を怖いって思えるのは、生きてる証拠だ。俺たち竜だって、暴風に巻かれたら怖い。だからこそ、ちゃんと飛び方を覚えるんだ」
ディーノの声は低くて、心地いい。
まるで、身体の奥に眠っている恐怖を優しく包み込むようだった。
この数週間、ミエラは父や兄、そして竜騎士団の団員たちとともに、何度も練習を重ねてきた。
初めは、竜の背に乗るだけで膝が震えていた。
でも、ディーノが背後でそっと手を添えてくれた時、ほんの少しだけ空が「怖い場所」ではなくなった。
何度も飛び立ち、何度も風に流され、何度も泣いた。
だけどそのたびに、ディーノが隣にいてくれた。
――だから今日、ようやくここまで来られた。
王都の中央広場。竜の飛行披露を見ようと集まった観客たちの歓声が、地鳴りのように響く。
金色の旗が風にたなびき、王と竜騎士団長が壇上に立った。
「諸君! 本年の飛行披露を始める!」
父の声が響くと、歓声が一斉に湧き上がる。
その光景を見ながら、ミエラの胸が高鳴る。心臓が耳の奥でどくどく鳴り、喉が乾く。
でも、逃げない。
もう、あの頃の「空を怖がる少女」ではないのだ。
「行こう、ミエラ」
「……うん!」
ミエラとディーノは、小型の灰竜の背に跨がった。
彼女が選んだのは、力強さよりも安定性を重視した竜。練習で何度も乗った、相棒のような存在だ。
竜の首筋を優しく撫でると、低く喉を鳴らして応える。
「……頼りにしてる、ディーノ」
「任せて」
ディーノの声を合図に、竜が地面を蹴った。
石畳が遠ざかり、身体が一気に宙へ放り出される。
風が頬を打ち、髪を乱す。
けれど、怖くない。ディーノの腕が後ろから包み込み、彼の心臓の音が背中越しに伝わってくる。
――大丈夫。私は、飛べる。
空の下では、観客たちの歓声が波のようにうねっていた。
その中を、竜たちは次々と飛び立ち、編隊を組んで円を描く。
青空を背景に、何十もの翼が光を反射して踊るようだった。
「すごい……」
思わず漏れたミエラの声に、ディーノが笑う。
「綺麗だろ? 空って、こうして見ると全部が生きてるみたいだ」
「うん……! 空、こんなに明るいんだね」
飛ぶたびに、怖さよりも楽しさが勝っていく。
視界が広がるたびに、心が軽くなっていく。
それは、ずっと閉ざされていた扉を開けたような感覚だった。
夏の風、王都の匂い。すべてが自分だけのもののような錯覚に陥る。
金管の音色が心地よい。ホルンが吠え、曲が山場に差し掛かった。
そして披露が終盤に差しかかったその時――。
突如、空の端から黒い雲が流れ込んだ。
地上からもざわめきが上がる。
「風が……強い!」
ディーノの警告が飛ぶと同時に、突風が吹き荒れた。
竜が大きく傾き、ミエラの身体が宙に浮く。
「きゃっ――!」
竜の鞍から滑り、ミエラの身体が空へ投げ出される。
落下する。
視界がぐるぐると回る。風が頬を裂き、涙が滲む。
人が引いた輪がぽっかりと空いているのが見えた。
地面が、どんどんと近づいてくる。
その瞬間、強く温かい手が彼女の腕を掴んだ。
「ディ、ディーノ!?」
「離すな!」
ディーノの叫びが、耳の奥に響く。
二人の身体は絡まりながら落下を続け、空気が唸りを上げた。
観客の悲鳴が遠くに聞こえる。
このままでは、二人とも地面に――。
「――ディーノっ!」
叫んだ瞬間、彼の身体が眩しく光を放った。
金の光が爆ぜ、風が止む。
その中心で、巨大な金色の竜が姿を現した。
――翼が、ある。最近見ていなかった飛竜の姿がそこにはいた。
ディーノの背に、透けるような金色の翼が広がっている。
半透明に輝くその翼は、光を受けるたびに虹のように揺らめく。
まるで、天の祝福をそのまま形にしたような光景だった。
ミエラはその背中に抱きかかえられていた。
風が穏やかに流れ、落下の勢いが消えていく。
金色の竜――ディーノが、空を舞う。
光の粒を散らしながら、優雅に弧を描く。
観客席が静まり返った。
次の瞬間、どっと歓声が上がる。
「金の竜だ! 金の竜が飛んでいる!」
「今年はいないと思ったら、こんなすごい演出を用意していたのか!」
ミエラは涙をこぼした。
「……死んじゃうかと思った」
「俺も、ミエラを失うかと思ったよ」
ディーノの声は震えていた。
けれど、その瞳は真っ直ぐ前を見据え、優しく微笑んでいた。
「もう大丈夫。俺がいるから」
ミエラは頷くと、ディーノの鱗にそっと額を寄せた。
温かい。心臓の鼓動が、鱗越しに伝わる。
――生きてる。生きて、一緒に飛んでる。
空の上では、花火が打ち上がっていた。
紙吹雪が風に舞い、金色の竜の軌跡と交わって光の帯になる。
父も兄たちも、仲間の竜騎士たちも、滞空の姿勢を保ちながら皆が空を見上げていた。
ディーノは旋回しながら、静かに言った。
「ミエラ。……お前が飛びたいって思った時から、俺の翼は少しずつ戻ってたのかもしれない」
「え……?」
「俺は竜として欠けたまま、それでもいいと思っていた。でも、ミエラが『一緒に飛びたい』って言ってくれたから――」
ミエラの目からまた涙が溢れる。
風がそれを拭い取って、どこまでも遠くへ運んでいった。
「ありがとう、ディーノ……私、空が好きになったよ」
「……うん。俺も、お前と飛ぶ空がいちばん好きだ」
金の竜と少女が舞う。
淡く光る翼が、青空を切り裂くたびに、きらきらと光の筋を残していく。
それは、祝福のように。
まるで、空そのものが二人を抱きしめているかのようだった。
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