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第6話 初めての喧嘩



 真夏の昼下がり。

 別館の窓辺には、白いカーテンが風にそよいでいた。


 ――ディーノは、いない。

 今日もまた、彼は外へ出ていた。鍛錬と称して、領の外れまで長い時間走ったり、剣を振ったりしているらしい。


 ミエラは少し退屈だった。

 紅茶のカップを手にしていても、心は空っぽのまま。カップの中で金色の液体がゆらゆら揺れる。

 さっきまでいたディーノの温もりが、もう遠く感じる。


 その時――。


 コン、コン。

 扉が控えめに叩かれた。


「……どうぞ?」


 入ってきたのは、薄茶の髪を後ろで束ねた少女だった。

 竜騎士団の制服を着てはいるが、まだ従属訓練の段階にある若手――そう、ミエラをあの広場で押した、あの子だった。


「あなた……」


 ミエラが言葉を探す間もなく、少女はずかずかと部屋の中に入ってきた。

 目は鋭く、頬にはうっすらと怒りの紅が差している。


「やっぱりここにいたのね」


「えっと……なにか御用でしょうか」


 ミエラの穏やかな声が、余計に彼女の癇に障ったのだろう。

 少女はぐっと唇を歪め、皮肉を込めて笑った。


「“御用”ですって? ふふ、さすが竜騎士団長の娘さん。

 ……いいご身分ね」


 その声音は、刃物のように冷たかった。


「あなた、何もしてないのに大事にされてるじゃない。

 竜にも、人にも。どうして?」


「え……?」


「私たちは血の滲むような訓練をして、竜の相棒になるために毎日必死に努力してる。

 それなのに、“竜が怖い”って泣いてたあなたが、なんであの竜の“番”なの? どうしてあなたなんかが――!」


 少女の声が震える。

 怒りというより、悔しさと悲しさが混ざっていた。


 ミエラは反論できなかった。

 胸の奥が、ひどく痛んだ。


 ――たしかに、わたしは何もできない。

 剣も持てない。空も飛べない。

 竜のディーノは、わたしを守るために、鍛錬もしている……。


 少女の声が、さらに追い打ちをかける。


「なんでも望める場所にいるくせに、なにも成そうとしない。

 よく、そんな顔でこのノルディア家に居座れるわよね」


 その言葉に、ミエラの唇が震えた。

 何かを言い返したかったのに、喉が詰まって声が出なかった。


 少女は満足げに鼻を鳴らすと、踵を返した。

 扉が閉まる音が、やけに響いた。


 部屋の中に、静寂が落ちた。


 ミエラは、ゆっくりと自分の胸の上に手を置いた。

 ――どうして、こんなに痛いんだろう。


 それからの日々、ミエラはディーノと目を合わせられなくなった。

 同じ別館で暮らしていても、廊下ですれ違えば足早に通り過ぎる。

 食事の時間も、わざとずらした。


 ディーノは最初、困ったように眉をひそめていた。

 けれど彼は何も言わなかった。

 ただ、静かに、いつも通りに微笑んでいた。


 ――その優しさが、かえってつらかった。


(わたし、足手まといなんだ……)


 竜騎士の父や兄、学者の母、そして勇ましいディーノ。

 みんな何かを“持っている”のに、自分だけは空っぽ。

 番だなんて言われても、わたしが彼の力になることなんて――。


 そんなある日。


 夕暮れの庭に出ていたミエラの耳に、メイドの叫び声が響いた。


「ミエラ様! ディーノ様が、お怪我を!」


 血の気が引いた。

 思考より先に身体が動いた。


 駆け込んだ医務室の扉を開けると、そこには人の姿のディーノがいた。

 右腕に包帯を巻かれ、白いシャツの袖口が赤く染まっている。


「ディーノ!」


 ミエラの声に、彼は穏やかに顔を上げた。


「……ただのかすり傷だよ。心配しないで」


 いつもの微笑。

 でも、顔色が悪い。


「どうして……? 無理をしたの?」


「いや……ちょっと、集中が切れてたみたいだ」


 ディーノは笑いながらも、どこか疲れたように息をついた。

 その姿を見た瞬間、ミエラの胸に何かが溢れた。


「なにか、わたしのが……?」


 思わず口をついて出た言葉。


 ディーノは首を横に振った。


「ミエラのせいじゃない。でも……」


 彼は視線をそっと落とした。


「ミエラに会えないと、俺が悲しい。

 いつもみたいな力が出ないんだ」


 その声は、震えていた。

 ディーノが弱音を吐くなんて、初めてだった。


「……番って、そういうものなんだ。

 離れると、心がざわついて、羽ばたき方までおかしくなる」


 ミエラの頬を、涙がつうっと伝う。


「ごめんなさい……っ、わたし……!」


 謝罪の言葉が溢れ、止まらなかった。

 怖くて逃げていた。

 “番”なのに、彼を避けるなんて――。


「違うの……あなたを困らせたかったわけじゃなくて。

 わたし、自分が何もできないのが怖くて……」


 嗚咽が混じった。

 そんなミエラを、ディーノは静かに抱き寄せた。


 包帯の巻かれた腕が、驚くほど優しかった。


「ミエラ。

 番ってね、強い者と弱い者の間に生まれるものじゃないんだよ」


「え……?」


「互いに支え合うための絆だ。

 俺は、ミエラがいるから飛べる。

 ミエラが笑うから、戦える」


 その声は、どこまでも穏やかだった。


 ミエラは泣きながら頷いた。

 ディーノの胸に顔を埋めると、彼の心臓の鼓動が耳に響く。


 トクン、トクン。

 それは、不思議なほど安らかなリズムだった。


「……もう、避けたりしないで」


「うん……」


 小さな声で返事をする。


 涙で濡れた頬を、ディーノが指先で拭った。

 その手が包帯に覆われているのを見て、ミエラはまた胸が痛んだ。


「ディーノ……もう、無理しないでね」


「うん。

 でも、もしまた怪我をしたら……今度はミエラの名前を呼ぶよ」


「……ふふ、はい。そのときは、私がすぐ飛んでいきます」


 二人の間に、柔らかな笑みが戻った。

 窓の外では、夕陽が沈みかけている。

 西の空が、琥珀色から紅に染まりゆく。


 ――まるで、あの日ディーノの瞳が紅く光った時のように。


 ミエラは彼の肩に頭を預け、そっと呟いた。


「わたし、もう逃げません。

 竜の番として、あなたの隣にいるって決めましたから」


 ディーノの腕が、静かに彼女を抱き寄せる。


「ありがとう、ミエラ」


 その一言で、すべてが報われた気がした。


 外では、夜の帳が降り始める。

 けれど、別館の中だけは、暖かい光に満ちていた。




読んでくださりありがとうございました。

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