第4話 番の証、初めての口づけ
討伐隊の出立式から数時間。街を蝕む夕陽が、いくつかの屋根を朱く染めていた。
広場をあとにしたミエラは、母とディーノとともにゆっくり馬車へ乗り込む。
屋台で買った菓子の包みが膝の上にあり、わずかに甘い香りが残っていた。
「ふふ、ミエラがあんなに楽しそうにしてるの、久しぶりに見たわ」
母が柔らかく笑う。彼女はもともと戦場よりも家庭を愛する、穏やかな人だ。
けれど、その目の奥には、家族を守る強さと誇りが宿っている。
「楽しかった……けど、やっぱり少し怖かった。あの時の……ディーノが」
ミエラは手のひらをぎゅっと握る。
彼が咆哮した瞬間――その気迫は、あの場の空気すべてを支配した。
「仕方ないわね。竜って、番を守るためなら世界を敵に回す生き物だから」
「……世界を、敵に?」
「ええ。あなたが無事なら、彼にとってはそれでいいのよ」
その言葉にミエラは小さく息を呑んだ。
それは「嬉しい」よりも先に、「そんなに……?」という戸惑いが勝った。
竜舎の隣にある別館――竜と人が共に暮らすための小さなコテージが、彼らの帰る場所だ。
白い外壁に赤茶の屋根。庭にはミエラが植えたハーブが香り、ガラス窓には夕暮れの色が映り込む。
「ただいま戻りました」
扉を開けると、すぐに使用人たちが顔を出す。
「おかえりなさいませ、お嬢様、奥様! ディーノ様も!」
台所からメイド長の声。すぐにカップが並び、お茶が湯気を立てた。
広場の屋台で買った焼き菓子を差し出すと、みんなが嬉しそうに笑う。
「まぁ、ミエラ様が買ってきてくださるなんて。竜舎の皆も喜びますよ」
「ううん、今日はみんな忙しかったから……お土産くらいしかできなくて」
そんな小さなやりとりの間、ディーノは静かにミエラの横に立っていた。
どこか落ち着かない様子で、彼の琥珀色の瞳が、時折、ミエラの方をそっと見ては逸らす。
――お茶の香り。笑い声。けれど、ミエラの胸の奥は少しざわついていた。
*
夜。
母が本邸に戻った後、別館には二人だけが残った。
竜舎から風が吹き抜けると、窓辺のカーテンがふわりと揺れる。
ミエラは洗面所で髪を乾かしていた。
少し湿った銀の髪をタオルで押さえながら、鏡越しに背後の気配を感じる。
「……ディーノ?」
「手、貸して」
振り向くと、ディーノがドライヤーを手にしていた。
ミエラが止める間もなく、彼はその大きな手で髪を掬い、優しく風をあてる。
「自分でできるよ……」
「わかってる。でも、こうしてる方が落ち着く」
ふと見上げた彼の横顔。
以前よりも人らしいのに、どこか野性を思わせる影がある。
火照った空気の中、心臓が早鐘を打った。
「……ミエラ」
「なに?」
「今日、怖かった?」
その声は、かすれるほどに静かだった。
ミエラは少し俯き、タオルを抱えたまま答える。
「……ちょっと。でも、嬉しかった。守ってくれて」
彼の手が一瞬止まった。
ドライヤーの音が途切れ、静寂の中で、指先が髪をなでる感触だけが残る。
「ミエラが怪我をしたら、俺は……自分を許せない」
「そんな、大げさだよ」
「大げさじゃない。番だから」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
番――竜と人の間に結ばれる、命を共有するような絆。
その重みを、彼は本能で、ミエラは心で、感じ取っていた。
*
髪を乾かし終え、二人はダイニングに戻る。
テーブルの上にはランプが一つ。
蝋燭の灯りが、木目の天板を金色に照らしている。
ミエラが扉を開けると、ディーノが先に中へ入った。
――その瞬間だった。
不意に、彼の腕が伸びて、ミエラの手首を取った。
軽く引かれた身体が、ふわりとテーブルの縁にぶつかる。
「っ……ディーノ?」
驚いて見上げると、彼の瞳が紅く、微かに光っていた。
あの咆哮の時と同じ、けれど今はもっと穏やかで、熱を孕んでいる。
「ごめん、怖がらせた?」
「ち、違うの……でも、どうしたの?」
彼は答えないまま、そっとミエラの頬を撫でた。
手のひらが熱くて、震えそうになる。
それでも、彼の指先は優しく、まるで壊れ物に触れるようだった。
「……距離、近いよ」
「わかってる。でも、こうしないと落ち着かない」
彼の額がミエラの額に触れる。
体温が混ざる。心音が重なる。
息が詰まりそうだった。
「これは、誓いなんだ。ミエラ」
「……誓い?」
紅い光が静かに消えていく。
そして――彼は、ミエラの額に唇を落とした。
たった一瞬。
けれど、世界が止まったように感じた。
頬が熱くて、何も言えない。
唇が触れた場所から、心臓までじんわりと火が広がる。
「これは親愛。番としての、誓いの証だ」
ディーノは穏やかに言った。
「俺は、おまえを人間として“所有”するんじゃない。
ただ、竜として、おまえの傍にいることを約束する」
その瞳は、どこまでも真っ直ぐで。
まるで、主従のように、ただ一人を信じる目だった。
「……でも、それって、少しずるいと思う」
ミエラの声は震えていた。
“親愛”って言いながら、そんなふうに優しくするなんて……人間は勘違いしちゃうよ」
ディーノの唇がかすかに動いた。
笑ったのか、息を吐いたのか、判別がつかない。
「ごめん。でも、俺にはそれしかできない」
彼の手がそっと離れた。
ミエラの指先には、まだ彼の温もりが残っている。
ランプの灯が二人の影を寄せて、壁に重ねる。
ミエラはその影を見つめた。
それはまるで、翼を持たない竜と、人間の少女が、寄り添うように見えた。
――竜の“誓い”だと言いながら。
その瞬間、ミエラの胸の奥には、微かな痛みが灯っていた。
*
その夜、ミエラは眠れなかった。
窓から見える竜舎の灯りが、夜風に揺れている。
隣の部屋で、ディーノが静かに寝息を立てていた。
穏やかで、優しい音。
ミエラはそっと胸に手を当てる。
あの額へのキスの感触が、まだ消えない。
――誓い。
――でも、どうしてこんなに苦しいの?
竜の本能と人の心。
それが、少しずつ重なり始めていることに、彼女はまだ気づいていなかった。
読んでくださりありがとうございました。
もしよろしければ、★評価★をいただけると嬉しいです!




