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第2話 翼のない竜の孤独



 夜の冷気が残る早朝。

 目を開けたとき、まだ部屋の中は淡い青に沈んでいた。隣の部屋の寝台では、ディーノが静かに息をしているだろう。

 人の姿のまま、穏やかに寝ている彼の横顔を見ていると――胸の奥がきゅっとなる。

 あの巨大な竜の面影なんて、どこにもない。けれど、確かに彼は竜で。私の“番”でもある。


 ……そう、番。


 いくら「お試し期間」と言い聞かせても、この言葉の重みは軽くならない。

 ディーノの大きな手のひらに自分の手を重ねたとき、私の心臓はどうしても速くなるのだ。

 きっとない未来を描きながら、隣への扉を開ける。


 「……おはようございます、ディーノ」


 声をかけると、彼はすぐに目を開けた。琥珀色の瞳が、朝の光を受けて柔らかく輝く。


 「おはよう、ミエラ。もう起きてたのか」


 「はい。あ、あの、ディーノの方こそ……もっと寝てても」


 「慣れてるからな。竜舎の頃は夜明けと共に目が覚めた」


 そう言って笑う彼の声は低くて、少し掠れていて。耳の奥に響くたび、くすぐったい。

 けれど、彼の言葉に出てきた“竜舎”という響きに、少し胸がざわめいた。


 朝食の後、私は洗濯をしようと裏庭に出た。

 秋風が吹き抜け、干した布がふわりと揺れる。

 ふと、竜舎の方角――つまりディーノが以前暮らしていた場所から、微かな声が聞こえてきた。


 ……声?


 耳を澄ませる。人間の言葉ではない。

 竜の、低く、湿った鳴き声。

 でも――私はその意味を、はっきりと理解してしまった。


 『……あの翼のない竜、またあの娘と寝起きしてるんだってよ』

 『番だなんて笑わせる。飛べもしない竜が、主の傍にいるなんて』

 『不吉だ。不吉だよ。ノルディアの血筋に災いが降る』


 ――やめて。


 頭の奥がずきりと痛んだ。

 私は無意識に竜舎の方へ駆け出していた。

 心臓が、痛い。足が震える。

 どうして、そんなことを――。


 竜舎の前に着くと、歴戦の竜たちが巨大な影となってうごめいていた。

 鋭い眼差しが私を一瞬だけ見たが、彼らは何も言わず、また小声で囁き合う。


 ……翼主義。

 この国では、“飛ぶこと”こそが竜の誇り。

 だから、翼を失った竜は、仲間から爪弾きにされる。

 ――そんなこと、知識では分かっていたのに。


 まさか、ディーノが、そんな風に扱われていたなんて。


 「ミエラ? どうした?」


 いつの間にか後ろに立っていたディーノの声に、私はびくりと肩を揺らした。

 彼はいつも通り穏やかで、笑っている。

 その優しさが、今はたまらなく痛かった。


 「……ディーノ、今、竜たちの声が聞こえて。あなたのことを……」


 言葉が詰まる。涙が喉の奥にせり上がる。

 「翼を持たぬ竜は不吉だ」――あの囁きが、頭の中で繰り返される。


 ディーノは小さく首を振った。


 「気にするな。あいつらの言葉は昔からだ。俺が翼を失ったときから、ずっとな」


 「でも――!」


 「ミエラ。俺は、もう慣れてる」


 そう言って、彼は笑った。

 とても優しく、少し寂しそうに。

 その笑顔が、どうしようもなくずるい。

 “平気だ”なんて顔をして、全然平気じゃないのに。


 「慣れるなんて……そんなの、おかしい」


 思わず声が上ずった。

 「傷ついてるなら、傷ついてるって言ってほしいの。 私……どうすればいいか分からない!」


 言葉を吐き出した瞬間、頬が熱くなった。

 自分でも何を言っているのか分からない。

 けれど、彼はそんな私を責めるでもなく、ただ静かに見つめていた。


 やがて、ふっと笑う。


 「ミエラ、ありがとう。……そう言ってもらえるのは、嬉しいよ」


 優しい声だった。

 でもその“ありがとう”の奥に、届かない距離を感じてしまった。


 夕方、私は彼の背中を拭いていた。

 竜に戻ったときの古傷が、まだ人の姿でもうっすら残っている。

 翼があったはずの肩甲骨のあたりに、指をそっと滑らせる。


 「痛く、ない?」


 「もう感じないさ。――けど、そこに“あった感覚”は、今でも残ってる」


 「……あった感覚?」


 「風を切る音。羽ばたくたびに感じる空気の流れ。それが、夢の中でだけは、まだあるんだ」


 彼の言葉に、胸の奥が締めつけられる。

 私は思わず彼の背に手を当てた。

 暖かい。確かにここに、生きている。


 「……ディーノ」


 「ん?」


 「私、あなたの力になりたい。なにか、楽しいと思えるものや、気の紛れるもの。何でも言ってね」


 彼は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。


 「それだけで、もう充分だよ。ミエラがここにいてくれる。それが、俺の翼だ」


 ――その言葉に、息が止まった。


 ディーノは何でもないように言うけれど、私の心臓はもうぐちゃぐちゃだ。

 彼の笑顔を見るたび、私の中で何かが確実に変わっていく。

 怖い。でも、目を逸らせない。


 夜。

 ベッドの中で、私は天井を見つめていた。

 竜たちの声はもう聞こえない。けれど、昼間の言葉がまだ耳にこびりついて離れない。


 『翼を持たぬ竜は不吉』


 もし、それが本当に“不吉”なら――私はその不吉を、喜んで受け入れる。

 だって私は、彼が笑ってくれるなら、それでいいから。


 「……ディーノ」


 隣の部屋へ小さく名前を呼ぶと、隣で寝息を立てていた彼が、身動きをした。

 手を伸ばせば、歩けば、届く距離。

 でも、その距離が、どうしようもなく愛おしい。


 翌朝、いつも通り彼が髪を乾かしてくれた。

 柔らかくて、丁寧な手つき。

 指先が髪をすくたび、心臓がまた痛くなる。


 「ミエラ、風邪ひくといけないからな」


 「……もう、大丈夫です。ありがとう、ディーノ」


 「どういたしまして」


 笑い合う。

 それだけのことが、こんなにも温かいなんて、知らなかった。


 ――だけど、その笑顔の奥にある痛みを、私はきっと一生忘れない。




読んでくださりありがとうございました。

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