第1話 竜と少女の共同生活
朝露がまだ残る石畳を、私は半分寝ぼけながら歩いていた。
隣には、もうすっかり人の姿に慣れたディーノ。
金色の髪が陽に透けて、眩しいくらいに光っている。
……というか、隣を歩かれると身長差がとても際立つ。
壁みたいだ。
「そんなに距離を取らなくてもいいだろう?」
「い、いえ……別に、距離を取ってなんか」
「半歩どころか二歩くらい下がってるぞ」
「それは……歩幅が、合わなくて」
言ってから、自分でもダメだと気づいた。すかさずディーノは歩幅を合わせ、私の隣で微笑んだのだから。
でもしょうがない。七年近く竜の姿しか知らなかった相手が、
いきなり立派な青年になって隣にいるんだから、戸惑うに決まってる。
そんな私の混乱をよそに、ディーノは涼しい顔で言った。
「今日から俺は、ノルディア家の別館を使わせてもらう。竜舎の隣の、小さい家だ」
「ええ、聞きたよ。……お父さまたちが“同居許可”を出したって」
「許可というか、“監視”のほうが近い気がするけどな」
思い出すだけで胃が痛い。
昨日の家族会議──という名の尋問タイム。
父ガルディスと兄レオンとカイルふたりが並んで座り、ディーノを真っすぐに睨んでいた。
「ミエラを泣かせたら、即追放だぞ」
「間違っても、手を出すなよ」
「いや、それは……」
困惑するディーノに、母セリアが笑顔で紅茶を注いだ。
「まぁまぁ。番なんだから、自然に任せればいいのよ」
それで余計ややこしくなったのは言うまでもない。
──というわけで、今朝からディーノと“お試し共同生活”が始まるのだった。
*
別館は、竜舎のすぐ裏手にある。
森の木々に囲まれた、レンガ造りの小さな家。
窓には白いカーテン、玄関の横には花壇があって、
母が「新婚さんみたいで可愛いわねぇ」と笑った場所だ。
……お母さま、そういう冗談やめて。
「おかえりなさいませ、ミエラお嬢さま」
玄関先で、使用人のリーナが頭を下げる。
いつもの屋敷ではメイド長の補佐をしている女性で、
今回の“別館世話係”を買って出てくれたらしい。
「リーナ、いつもありがとう」
「いえいえ、旦那さまから“監視も兼ねてる”とお伺いしておりますので」
「やっぱり監視なんだ……」
小声でつぶやくと、背後でディーノが笑った。
「気にするな。俺は逃げも隠れもしない」
「いや、そういう問題では……」
中に入ると、ほのかに木の香りがした。
新築のような清潔さ。
暖炉のある居間に、二階へと続く階段。
寝室は別々──しかし、実際は隣同士。
壁一枚しかない。こんこんと確認すると、音が微かに聞こえる。
思わず頬が熱くなった。
そうだ。私は家族以外の異性と暮らしたことがない。胸がざわつくのは、仕方のないことなのだ。
「顔が赤いが、体調でも?」
「な、なんでもありません」
「そうか?」
「そうです……!」
ディーノは首を傾げた後、私の荷物を軽々と持ち上げた。
両手どころか片手で持てる筋力。竜騎士の父を持つ娘として、少し好感を持った。
「上の部屋でいいんだな?」
「ええ。……あ、でも重いでしょう、それ」
「ミエラ、俺は竜族だぞ? この程度、羽毛みたいなものだ」
そう言って階段を上がっていく背中を見て、
なんか、ほんの少しだけ、頼もしく感じてしまった。
*
共同生活一日目。
朝は一緒に本館の食堂で朝食をとる。
昼はそれぞれの仕事──私は勉学と家事の手伝い、彼は体の経過観察と剣の訓練。
夜になると、二人で暖炉の前に座って紅茶を飲む。
……こうして並んで座ると、本当に“家族”みたいだった。
だけど時々、その距離の近さに心臓が忙しくなる。
「お前、熱いの苦手だろう?」
そう言って、ディーノが私のカップを手に取る。
ふうっと息を吹きかけて、少し冷ましてから戻してくれた。
「これくらいでどうだ?」
「……ありがとう。……でも、なんでそんなに気が利くの」
「番だから、だろ?」
その一言で、また顔が熱くなる。
“番”という言葉を軽く使わないでほしい。なんだか特別な響きを帯びて、聞こえてくるから。
けれど、ディーノの目は真剣だった。
その瞳に映る自分を見ていると、どうしても息が詰まる。
彼は私を“守る”ことを、当然のように考えている。
恐らく、小竜を慈しむくらいにしか思っていないのだろうが。
でも、私はまだその竜族独特の思考に追いつけていない。
だから、つい、さんをつけたくなる。
「……ディーノさん」
「“さん”はいらない」
「で、でも……」
「ミエラが俺を呼ぶとき、竜舎では“ディーノ”って呼んでただろ」
「そ、それは……竜の姿だったからで」
「姿が変わっても俺は俺だ。呼び方くらい、昔のままでいい」
そう言われて、私は少しだけ考えて──小さく呟いた。
「……ディーノ」
「そう、それでいい」
彼の口元が、ふっと緩む。
なんだろう、笑うと少し幼く見えるのがずるい。
その夜、私は布団の中で何度も寝返りを打った。
隣の部屋から聞こえる、かすかな衣擦れや、窓を閉める音。
意識してはいけないと思えば思うほど、気になって眠れなかった。
*
二日目の夕方。
私はお風呂上がりのまま、髪を乾かすのを忘れて本を読んでいた。
そこへ、ノックもなくドアが開く。
「おい、髪がまだ濡れてるぞ」
ディーノがタオルを片手に入ってきた。
「ちょ、ちょっと! ノックくらいしてよ!」
「したぞ。三回」
「嘘……!」
「耳が赤いぞ。風邪ひく前に乾かせ」
ぐい、と椅子を引かれて座らされる。
そのまま、ディーノが私の後ろに立って、タオルで髪を優しく拭き始めた。
「ひゃ……っ、くすぐったい」
「あぁ……力、強かったか?」
「ち、違う……変な感じで……」
タオルの端が頬をなぞる。
指が、耳に触れる。
体がびくりと跳ねてしまうのに、ディーノは淡々としていた。
「昔、子竜の羽を拭く時も、こうしてた」
「……それ、私を子竜扱いしてるってこと?」
「可愛いって意味だ」
「な……!」
反論できなくて、言葉が喉で止まった。
タオル越しの手の温もりが、やけに心に残る。
髪を乾かし終えると、彼は手早くブラシで梳いてくれた。
滑らかな手つきに、思わずまぶたが下りそうになる。
「寝ぐせがつく前に整えた方がいい」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
その声が、やけに優しかった。
こんなふうに誰かに世話を焼かれるのは、兄たちが小さい頃以来だ。
だけど──兄たちの手よりも、ずっとあたたかく感じたのはなぜだろう。
*
夕食のあと、ディーノは窓際で竜族の古書を読んでいた。
私はその向かいで紅茶を飲みながら、少しだけ勇気を出す。
「……ねぇ、ディーノ」
「ん?」
「……その、“番”って、どういうものなの?」
「血で繋がる契約じゃない。心で繋がる絆だ」
「心で……?」
「竜族にとって、番は“共に生きる者”だ。
命が終わるその時まで、どちらかがどちらを見守る。
──だから、俺はもう、ミエラから離れない」
まっすぐすぎる瞳に、息が詰まる。
私なんかが、その想いを受け止めていいのだろうか。
「でも、ディーノは翼を……。 それって、取り返しがつかないことじゃ……」
「空は誇りだ。けど、誇りのために大切なものを失う方が、愚かだと思う」
そう言って、ディーノは小さく笑った。
「俺にとっての“誇り”は、もう変わったんだよ」
暖炉の炎が、彼の横顔を照らしていた。
黄金の光に包まれたその姿は、あの日の竜と同じように見えた。
大きくて、あたたかくて──そして少し、切なかった。
私はそっと、紅茶のカップを両手で包んだ。
「……ありがとう。ディーノ」
「何に対して?」
「いろいろ。……でも、たぶん、今までの全部に」
ディーノが、少しだけ驚いたように瞬き、
次の瞬間、静かに微笑んだ。
「そう言ってもらえるなら、俺も甲斐があったというものだ」
その言葉が、心の奥にじんわりと染みていく。
私は視線を落とし、炎を見つめながら思った。
──この共同生活が、終わる時が来ても。
私はきっと、今日のことを忘れられない。
けれどその予感は、ほんの少しの寂しさを連れて胸に残った。
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