第1話 新たな日常、婚約者として
夜明け前の空は、まだ群青と金の狭間にあった。
王都の一角、竜騎士団別館に与えられた小さな離れ。そこが、いまのミエラとディーノの新しい生活の場所だった。
――番契約、正式承認。
竜の長ザバルから直接認められたその日から、二人の関係は“竜と少女の番”から、“婚約者”へと変わった。
といっても、生活の形は以前とあまり変わらない。
けれど、ほんの少し――目を合わせるだけで、心臓が跳ねるようになった。
朝の光が、窓のレース越しに柔らかく差し込む。
ミエラは寝台の縁に腰掛けながら、感じる温もりに目を細めた。
……隣に、ディーノがいる。
そんな当たり前がこんなに尊いものになるなんて。
その穏やかな寝息に、胸がじんわり熱くなる。
「……ディーノ」
小さく囁くと、彼の睫毛がかすかに揺れた。
月光の色をした髪が頬にかかっていて、寝顔はあまりにも穏やかだった。
――綺麗だなぁ。
思わず、指先で彼の頬をそっと撫でてしまう。
すると。
「……ミエラ。いたずらがすぎるぞ」
「ひゃっ……!」
ぱし、と手首を掴まれた。
いつのまにか目を覚ましていたディーノが、寝起きの低い声で笑っている。
その顔が近い。近すぎる。
「おはよう、ミエラ」
「お、おはようございます……っ!」
顔が一気に真っ赤になる。
寝起きのディーノは普段より声が低く、なんだかずるい。
言葉に詰まって視線を逸らすと、彼はそんなミエラを見つめながらふっと笑った。
「そんなに赤くなると、つい構いたくなる」
「か、構わなくていいからっ!」
「そう言われると、余計に触れたくなる」
「ディーノ!」
抗議の声を上げると、彼はくすくすと笑って、ようやく手を放した。
けれど、まだ手のひらに彼の体温が残っていて、心臓がうるさいほど鳴っている。
「……あ、あのね! 今日は私のほうが早く起きたの!」
照れ隠しのように、ミエラは勢いよくベッドを飛び降りる。
ディーノが眉を上げた。
「珍しいな。いつもは俺が起こしてるのに」
「ふふん、今日は特別。一緒に別館で食べよう! 朝ごはん、もうできてで、お肉たくさんのにしたから!」
「お肉……?」
「うん。いつも訓練でお腹空かせてるでしょ?」
言いながら、エプロンの裾を握るミエラの声が、ほんの少しだけ小さくなった。
「……だから、その、早く起きてねって意味も込めて」
その瞬間、ディーノが笑った。
彼の目が、いつもの静かな色ではなく、あたたかい金に染まっていく。
「……ありがとう、ミエラ」
そう言って、軽く身を起こした。
寝ぼけた髪のまま、彼はミエラの前に立つと、彼女の額に指先を当てる。
「ご褒美は?」
「え?」
「朝から可愛いことをしてくれたお礼だ」
「お、お礼なんていりません!」
慌てて後ずさるミエラ。
だがディーノは、軽やかに一歩踏み出し――逆にミエラの額へ、やわらかく唇を落とした。
「っ……!」
息が止まる。
時間が一瞬だけ凍りついて、それから心臓が跳ね上がる音だけが響いた。
「……朝から、だめだよ……」
ミエラが小声で呟くと、ディーノはくすりと笑った。
「先にしかけたのは君だろう? “早く起きてね”って」
「そ、それは……そうだけどっ!」
「なら、俺も返さないとな。……“ありがとうのキス”を」
そう言われて、もう顔が限界だった。
ミエラは耳まで真っ赤にして、両手で顔を覆った。
「ディーノの、いじわる……!」
けれど、唇の端がどうしても上がってしまう。
怒ってるのに、うれしいなんて。
自分でもどうしていいかわからない。
朝食の時間。
テーブルの上には、香ばしく焼けたベーコンと温野菜、パンとミルク。
ミエラが一生懸命作ったのが伝わる、温かい香りが部屋を満たしていた。
「このベーコン、焦がさず焼けてる。……練習したんだ?」
「ふふ、はい。ディーノが好きだからって、厨房のメイドさんにこっそり習ったんです」
「ミエラの作る料理は、どんな王都のごちそうよりうまいよ」
「……おだてても、おかわりは一皿だけだからね」
「そうか。じゃあ、その一皿を大事に食べよう」
真顔で言うものだから、ミエラはまた吹き出してしまった。
笑いながら、パンをディーノの皿にひとかけら移す。
「……私、こうしてディーノと一緒に食事する時間が、一番好きかも」
「俺もだ。こうして君と話すのが、何より落ち着く」
その言葉に、胸の奥があたたかくなった。
“婚約者”という言葉が、まだ少し照れくさい。けれど、確かに心の中に灯がある。
――好き、なんだ。
ようやくその気持ちを、言葉にできるようになった。
食後、庭で少し散歩をする。
風に揺れる花の香りが、淡く空気を彩る。
ミエラがふと見上げた空には、遠くを飛ぶ竜たちの影があった。
「……いつか、また飛びたい?」
問うと、ディーノは少しだけ目を細めた。
「そうだな。けど、ミエラが笑っていてくれるなら、翼はいらない」
「もう……そういうこと言うんだから……」
呆れたように笑いながらも、心臓がまた跳ねる。
ディーノは静かにミエラの手を取った。
その手のぬくもりが、空よりも深く感じられる。
*
夕暮れ。
日が傾き、空が金色に染まる。
ミエラは部屋の窓辺で、紅茶を二つ用意して待っていた。
「今日の訓練はどうでしたか?」
「団長がまた張り切ってた。おかげで、筋肉が悲鳴を上げてる」
「ふふ、じゃあ今日はマッサージしてあげるね」
「……それは、君のほうが疲れるんじゃないか?」
「いいの。婚約者なんだから、甘えて」
照れながら言ったその言葉に、ディーノが少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
そして、静かに笑った。
「……そうだな。婚約者、だ」
そのまま隣に座り、二人で金色の空を眺める。
沈みゆく陽光の中で、彼が小さく呟いた。
「この日常が、永遠に続けばいい」
「ええ。……ずっと一緒に」
ミエラの指先が、彼の手に重なった。
手と手が触れた場所から、あたたかさが広がる。
風の音、紅茶の香り、静かな鼓動――全部が心地いい。
空を怖がっていた少女と、翼を失った竜。
その二人が、地上で“新しい空”を見上げていた。
――その空の名は、“恋”だった。




