第10話 地上の誓い、心の翼
――満月が、空を満たしていた。
銀の光が湖面をなぞるように揺らめき、夜の静寂が竜の里を包みこんでいる。人の世界から遠く離れた、古き竜たちの地。その中心に立つのは、ミエラとディーノ。二人を見下ろすように、巨大な影――竜の長、ザバルが姿を現した。
その鱗は群青に近く、所々が鈍く錆びている。だが、光を浴びるたびに古代の魔法陣のような紋様が浮かび上がり、ただそこにいるだけで、息をするのもはばかられるほどの威圧感を放っていた。
「……さて、始めようか」
ザバルの低く響く声が、夜気を震わせた。
ミエラの肩が小さく跳ねる。ディーノはその手をそっと包み、首を傾けて囁いた。
「大丈夫。俺がいる」
ミエラは小さく頷いた。震えていた指先が、少しずつ落ち着きを取り戻す。
だが――試練は、甘くはなかった。
「竜の誇りとは、何だ?」
ザバルの問いに、ディーノは目を伏せた。
「空を支配する力、そしてその力に奢らぬ心。それが誇りだと、俺は教わりました」
「ならば、なぜ翼を失った身で空へ戻った?」
「――彼女を守るためです」
即答だった。
ためらいのないその声音に、竜たちの輪の中からざわめきが広がる。
だがザバルの眼光は、ただ一人、ディーノを見つめ続けていた。
「守る、か。……お前は、その“人間”を、竜族よりも大切だと?」
問われたディーノは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、迷いなくミエラを映していた。
「はい。俺は――ミエラを何に代えても守りたいくらいに、大切に想っています」
その言葉に、ミエラの胸がきゅっと締めつけられる。
父の前で言われた“誠実に愛している”という言葉が、今度は具体性を帯びて響いた。
彼の声は、凛としていて、まるで祈りのようだった。
ザバルはしばし沈黙したのち、ゆるりとミエラに視線を移す。
「……では、娘。お前にも問おう。翼なき竜を“番”とすることは、竜族の法を破ること。己もまた、空を敵に回す覚悟が要る。それでも、共に歩むのか?」
その声は低く、重い。
だがミエラは一歩、前に出た。胸の奥の震えを押さえつけながら、しっかりと顔を上げる。
「……はい。私は、彼を奪われたくありません」
その瞬間、竜たちの間から一斉に息を呑む音がした。
人間の番を感じ取る力は竜族よりも弱い。人間が竜を捨てるという事象が、過去に何度もあったのだ。
しかしミエラは翼なきディーノと番うことをやめない。それは、竜族にとってとても好ましく映った。
ミエラは続ける。
「私は空を恐れていました。……今も、少し怖いです。でも……ディーノとなら、もう怖くありません。彼がいるから、私は自分を好きになれた。だから、誰に何を言われても、離れたくありません」
その声は、震えていた。
でも、それは恐れではなく――心の奥から溢れた“強さ”だった。
長い沈黙が流れる。
そして、ザバルの瞳が月光を映した。
「……なるほど。お前たちの想い、確かに聞き受けた」
そう言うと、彼はゆっくりと顔を上げた。
その口角が、ほんの少しだけ上がる。
「竜族にとって“番”とは、掟よりも重い絆。……実のところ、わしは最初からお前たちを試しておったのだ。ははは、脅すようなことをして悪かったな」
「えっ……?」
ミエラが目を丸くする。
竜たちの中から、歓声が上がる。
どうして、と漏らす前に、ディーノに抱きしめられた。
「真に想い合う番ならば、罪など存在せぬ。だが……想いを偽るならば、いかなる罰も甘んじて受けることになる。それを確かめたかっただけのことよ」
ザバルの言葉に、ディーノが目を見開く。
実のところ、この蒼帝ザハルは竜族の中でも“革新派”寄りの考えであった。時間を経るたびに、慣習よりも大切なことが増えていくことを、知っていた。
もし竜帝が“保守派”であったなら、試練などせず、問答無用でミエラとディーノを引き裂いていたことだろう。
感極まったミエラの頬を伝って、涙が一粒こぼれ落ちた。
「……っ、よかった……!」
ボロボロと流れ出す涙。
その涙が、淡い光を帯びて足元の魔法陣に染み込んでいく。
古い竜の掟――そのしがらみを、彼女の想いが静かに溶かしていった。
ディーノは悲しげに微笑みながら、彼女の涙をそっと指で拭った。
「泣かないで。……俺は、大丈夫だよ」
「だって……ディーノと離れ離れになんて、そんなのいやで……」
ミエラの声は涙に滲んでいた。
その言葉に、ディーノは優しく首を振る。
「俺が悲しいのは、閉じ込められることじゃない。ミエラが泣くことなんだ。君が泣いていると、どうしていいかわからないくらい、胸が痛む」
「――っ……!」
その一言で、ミエラの胸の奥が爆発するように熱くなった。
言葉にしようとした思いが、こぼれ落ちる。
「……私、離れたくない。誰がなんと言っても、世界を敵に回してもいい。ディーノと一緒にいたい……!」
竜たちが尾を打ち、空を鳴らす。
その中で、ディーノは静かにザバルを見上げた。
「長よ。……俺は、もう翼を出しません。空を飛ばぬ誓いをここに立てます。その代わり、彼女のそばにいさせてください」
その宣言は、あまりに強く、あまりに静かだった。
誇りある竜が、自らの“誇り”を封じる言葉。
その重さを、誰もが理解していた。
ザバルは目を細めた。
長き時を生きた竜の眼差しが、ひととき柔らかくなる。
「……愚かで、美しい。お前という竜は、まったく、面白いものだな」
そして、ゆっくりと頷いた。
「よかろう。その誓い、受け入れよう。――翼を捨てた竜と、人の娘。その絆が、空と地の狭間を繋ぐのならば、わしらもそれを見届けよう」
その瞬間、夜空がひらけた。
満月の光が強く差し込み、二人を包み込む。
風がやさしく吹き、湖の面が煌めく。
ディーノがそっとミエラの手を握る。
「……ありがとう、ミエラ」
「ううん、ありがとうは私のほう。だって、あなたがいたから、私は勇気を出せたの」
ミエラが笑うと、風がその髪をすくい上げた。
その笑顔は、まるで空そのもののように澄んでいた。
「翼がなくても、俺たちは飛べるよ」
ディーノがそう言って、空を見上げる。
ミエラも同じように顔を上げ、頷いた。
「うん。……心の中に、翼があるから」
二人の視線の先――満月が、静かに輝いていた。
竜の里を包む夜風が、やさしく二人を撫でていく。
空を失った竜と、空を恐れていた少女。
地上で結ばれたその絆は、何よりも高く、どこまでも自由だった。
――そして、物語は、静かに幕を下ろした。
短いですが、第一章完結しました!
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