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C-world

作者: 碧かいら

 ヴァイオリンの才女であるアイシェが出会ったのは、音楽とはもっとも程遠い場所にいる青年、ギルだった。

 海とともに生きるその街で、彼らは仲を深めていく。

 潮風が、彼らの頬を優しく撫でる。


  違う世界から、君は来てくれた。




  アーロ暦 一〇二七年

  五月十一日 アリエスタホール



 |赤のシート、天井には必要以上に主張しないシャンデリア、壁や床には最大限に木製の素材を使っている。どこまでを統一感を大切にした内装は美しいとは感じても、心に残るほどではない。様式美にこだわった結果なのか、建築家が演者を邪魔したくないという配慮の表れなのか。真実は歴史と共に、大海へと流れてしまった。

 この特徴は舞台上にもよく表れている。

 ほとんどがオークで作られたステージは美しく手入れがされ、照明の光に心地よく反射する。琥珀色の輝きをまとい、今か今かと主を待っている。この煌びやかな舞台に、ふさわしい主を。

 そして、その主を待っているのは舞台だけではない。

 そのコンサートホールは二階席から見た時、水玉模様のようにテーブルが置かれている。テーブルを彩るのは香りを抑えた花と、ガラス細工のように極められた料理の数々。だが、その料理を目当てに赴いた人間は一人としていない。

 誰もが皆、この場にふさわしい主を待っている。

 その思いが膨らむ中、次第に照明は暗くなっていく。司会役の声色が一段と柔らかくなる。


 そのように整えられた世界に、彼女は天使のように存在した。


 彼女の一挙一動に注目が詰まる。

 ヴァイオリンの弦と同じように輝く銀の長髪。見たものを吸い込んでしまうような瞳に、あまりにも細く可憐な手足。フリルも飾りも無い白のドレスに身を包み、彼女は演奏を始める。

 音が、この世界の一か所に集まるような感覚だった。静寂と隣り合わせの舞台は、ただ一転に照明を当てる。

 演奏に合わせ表情は変化し、体は流水と戯れるように揺れる。魂を宿したように、髪先が躍る。

 その演奏は、いかほどであったか。

 それは、割れんばかりの拍手が何よりの証拠となるだろう。




「本当に、歯がゆいものですよ。私が詩人なら、もっと素敵な表現で感想を伝えられるのではないかと」

 演奏が終わった後、どこかのテーブルでそんな声が響いた。周りの人間もその意見に同調するように頷く。

「そう思っていただけて、非常に光栄です。ロッキン伯爵」

 声の主は後ろからゆっくりと近づき、テーブルのワインを継ぎ直す。

「おお、主催殿ではありませんか」

 お互いにこやかな表情は崩さず、しばらくは定型文の挨拶と賛辞が繰り返される。

「改めて、このような素晴らしい会にお招きして頂き、ありがとうございます」

「もったいなきお言葉です」

「ルドリシア様の演奏は、一般の者よりもかなり短いプログラムなのですね」

 そう質問したのは、また別の公爵だった。

「非常にもったいなく感じてしまいます。あれほど若くて天才的な演奏をされるなら、この演奏の量で終わらせるのはもったいない」

 雄弁に、それこそ舞台役者のような喋り方だった。決して直接は口にしないものの、それは明らかな“アンコール”のお願いでもある。

「申し訳ありません。これ以上の演奏はルドリシアお嬢様の“お体”に支障が出てしまいますので」

「そうはいっても……」

「まあ、あなたったら何を言っているのかしら。ルドリシア様は今や、この国を代表する演奏家よ。聴けただけで、身に余るほどの幸運よ」

 隣に座った貴婦人はわざとらしく口に扇を当て、心底驚いた顔をする。

「も、もちろん分かっているとも」

 そのやり取りに、テーブルでは小さな笑いが起こる。

「まったく、仮にも公爵なんですから、もっと堂々としてください。そのような発言は、あまりに女々しいですよ」

 もう一度テーブルで笑いが起きる。それを合図とするように、話しは別の話題へと広がっていく。


 その一連の会話を、舞台裏から聞いている人物がいた。


 

 

  五月十二日 休暇


 部屋の窓を開け、私はぼんやりと外を眺める。視線の先には沈みゆく夕日と、それを包み込むような海、そしてこの世の果てまで続いていそうな水平線が見える。

 あらゆるところで演奏してきた自分でも、ここ以上に綺麗な景色は中々見たことがない。海はもちろん可愛らしい民家の数々も、活気に溢れる住民も、僅かに流れてくる潮の匂いも、そのどれもが心を落ち着かせる。

 窓際に座り直す。街が所々に灯りが付く姿は、自分以外の誰かがそこに存在し、生きていることを確認できる。それが、私はなんとなく好きだった。

 あの煙が出ている煙突からは、シチューの匂いが漂っているかもしれない。砂浜に立つ厚着の男の子は、海に入った後でずぶ濡れかもしれない。動きが大袈裟な女性の人は、隣の男性に怒りをぶつけているのかもしれない。

 街で生まれる音は、私の耳までは届かない。けれど、見えた景色が、体にあたる風や匂いが、私を想像の世界へ連れ出していく。その世界で、音が創られていく。

 そんな世界に浸りながら、私は手元にある手紙を読む。中には数行の文章と、紙からはみ出そうな絵が描かれている。

『あいしぇさんのがっきがだいすきです。これからもがんばってください』

 そう書かれた隣には、ヴァイオリンを持ちながら、小さな女の子と手を繋いでいる女性が描かれている。お世辞にも上手な絵とは言えないし、字も所々反対だ。それでいて、有り余るほどの価値を持っている。思わず少し、笑みが零れてしまう。

「……この手紙、どこに飾ろうかしら」

 自分の部屋を見渡す。最低限の灯りしかない照明、泳げそうなくらい大きなベッド、心細そうに散らばって置かれている家具。飾れる場所自体は無限にありそうだ。

もう一度、ゆっくりと部屋を見渡す。趣味が悪いとも、居心地が良くないわけではないが、一つ、もったいないと思うことがある。

 音の響きが、綺麗じゃない。こんな大きな部屋に対して、中途半端な家具の数。こんな状態だと、音は綺麗に反響しない。それはとても残念なことで、同時にどうでもいいことでもある。

 部屋の中央、ベッドの向かい側には私が最も信頼している相棒がいる。長年愛用して手入れを一度も怠ったことがないから、いまだに木製の光沢を保っているのが自慢だ。

 もっと弾きたい。今すぐにでも弾きたい。けれど、弾く意味がない。


『これからは、楽器を弾く時間を減らしなさい』


 父からの言葉で、最も絶望した瞬間だった。

 一度聞くだけで完璧に弾ける。音楽の感性を完璧なまでに持ち合わせている。そんな私にとって、鍛錬という概念は必要ないらしい。

 より華奢でありなさい。より少女らしくありなさい。積み上げてきた時間も、練習によって得たわずかな筋肉もいらない。それらの全ては、あなたの才能を隠す障壁となってしまう。

 そして私の世界は、その言葉通りに動いていった。整えられた舞台、聴衆からの熱い支持、溢れんばかりの私への評価。そのどれもが嬉しくて、さらに私を動かす原動力になっていく。

 だからこそ、これが正解だという事実が、あまりに悲しくもあった。

『非常にもったいなく感じてしまいます。あれほど天才的な演奏をされるなら、この演奏の量で終わらせるのはもったいない』

「……。」

 昨日のコンサート終わりに聞いた言葉。自分でも、そう思ったことは何度もある。けれど、積み上げてきたこれまでの全てが崩れてしまうのは、怖い。

 そうなった瞬間に、誰も聴いてくれなくなりそうで。

 誰からも見られることがなくなりそうで。

 音楽が、演奏が、ヴァイオリンが大好きだからこそ、変えるのが怖い。

 小さくため息をつき、視線を再び手紙に戻す。ヴァイオリンを弾けない苦痛な時間の中で、こういった存在は本当に支えになる。この辛さを忘れられる。

もう一度じっくりと読み返そう。そう思った直後だった。

「あっ!?」

 一瞬強い風が吹き、手紙が離れていく恐怖が体中を襲う。思わず窓から身を乗り出して捕まえようとするが、その時には豆粒ほどの大きさになっていた。

「……最悪」

 失くしてしまった悲しさももちろんあるが、何より手紙をくれた女の子に申し訳ない。

「ホントに、最悪」

 あまりの後悔に、そのまま窓際に項垂れてしまう。が、同時に落ち込んでもどうにもならないと頭では理解し始める。

 項垂れること数十秒。

ようやく思考を切り替える。今自分が出来ることは何か。身も蓋もない話をすれば、手紙を無くしたことを女の子に知られなければ良い。それだけで、誰も傷つかないで済む。

「……」

 一瞬そう考えたけど、やっぱり駄目だなと思い直す。一段と強い風が吹いてきたので窓を閉め、机に向かう。久しぶりに使うペンは随分と乾いているので、入念にインクを浸す。

『お手紙と、素敵な絵をありがとう。私の為に描いてくれたこと、とても嬉しいわ』

 自分のファンに対しては、これまで出来るだけ平等に接するため、手紙などの返事は書かないようにしてきた。けれど、今回ばかりはこの罪悪感の捌け口が欲しい。

 何を書けばいいかはあまり思いつかないが、できるだけ正直に、丁寧に思いを伝えよう。

 広い部屋で、ペンが擦れる音だけが静かに響く。




 海の前に、立っていた。

 波が、私の元までに届く。砂を乗せて、音を乗せて、私の足先を少し覆う。程よい質量とひんやりとした砂粒の感覚が、ゆっくりと体を伝っていく。

空は明るいのに、太陽がない。これほど大きな砂浜で、誰もいない。だから、これは多分夢なんだと確信し始める。随分と心地よい夢だ。

でも夢と認識してからは、この世界の寿命はあまり長くない。少しずつ、足に当たる波の音が乱暴に変わっていく。何かを叩くような、ノックするような音に変化していく。

もう少し、世界が変わっていく。今度は波からじゃなく、どこかの方角から叩くような音が聞こえる。

視界がぼやけ、世界の境界線がどんどんと曖昧になっていく。そしてやがて……




目が覚めた時には、机に突っ伏している体制になっていた。手紙が一区切りついた段階で眠気に襲われたことは覚えているけど、まさかそのまま寝てたとは。

「ん、うーーん」

軽く伸びをして、体をほぐす。頭の靄がようやく晴れかかってきた時、夢と同じような叩く音が、窓の方から聞こえた。

「……?」

 定期的に二回、三回とリズムよく音が鳴っている。

 何だろうか。風で物が引っかかっているのか、小動物のいたずらか。まだ少し眠い目を擦りながら、あまり考えずに窓を開ける。いつの間にか夜になっていた空は、雲一つない月明かりを部屋全体に浸透させていく。

 何があるのか、下を見ようとしたその時だった。



「こんにちは」

 そこには、壁にぶら下がっている人間がいた。


「きゃああああああああああっ???!!」

 天地が何回かひっくり返った。もしくは、私が何回か転んだ。心臓が口から出そうになり、急いでベッドを壁にするように逃げ込む。

 見間違いかと考えた。けれど、窓際を掴んでいる手は次第に長くなり、次に腕、そして体までもが下から生えてくる。そう考えてようやく、男の人が窓から入ろうとしていることに気づいた。

「よいしょっと」

 元凶の人物は、気楽な掛け声とともに軽々と窓の外から飛んでくる。まるで重さが無いみたいに。

「こんにちは。夜分遅くにごめんなさい」

「……誰ですか?」

 男が一番に謝ることは絶対それじゃないし、私も最初に聞くのは絶対にこれじゃない。けれど、現在進行形でパニックな頭は何一つまとまらない。

「迷惑だったかもしれないけど、君がこれを落としたから、届けに来たんだ」

「今日は外に出ていません」

「これ、君のでしょ」

「絶対に違います」

 どうしよう、こっちの会話をあまり聞いてない。

 怖すぎる。男は肩から下げている大きなカバンに手を突っ込んでいるが、凶器を出そうとしているかもしれない。

「あれ? でも、君が窓から落としたのを見たんだけどな」

「窓から? この窓の下に立てる場所なんて無いわよ。見えるはずない。そもそも、どうやってここまで来たの?」

「登ってきた」

「登ってきたっ?!」

 信じられない。この家の周りは崖とまでは言わずとも、急斜面が非常に多い。少なくとも、人が立ち入れるような形にはなってない。

「その時、海にいたんだけどね、偶然上を見たら飛んでる紙と、君の顔が見えたんだ。だから、君の物じゃないかと思って」

 語尾が上がる話し方は少し特徴的で、どこか気の抜けるような言い方だ。

「あった。これこれ」

 そう言いながら、差し出してきた物を見た時だった。

「……あ」

 思わず口から洩れる。その紙は、私の記憶にあるソレと全く一緒だったから。

 不格好に折りたたまれた手紙の中からは、見たことのある文字とカラフルな絵が僅かに見え隠れしている。それが何なのかは、見間違うはずもない。

「それ、私の手紙……」

「良かった。やっぱり君の物だったんだ」

 にわかには信じられなかった。けれど、疑惑も恐怖を全て置き去りにして、嬉しさと安堵が込み上げてくる。

「はい、どうぞ」

「……ありがとう」

 それしか言えなかった。目頭が少し熱くなり、心の中でおかえりと呼びかける。

私の元に帰ってきてくれた。その事実が嬉しかった。

「本当に、ありがとう」

「……僕も良かったよ。大事なものを、ちゃんと君の所まで届けられて」

 そこで初めて、私は彼の姿をはっきりと確認した。

 作業着のような服は全身に炭が付いていて、元の色がいまいち分からない。厚底の茶色いブーツに、首元には縫い合わせた跡がいくつもある灰色のマフラー。そのマフラーからは、屈託のない笑顔がはみ出ている。所々跳ねている黒い髪は、月明かりでわずかに光っている。

私と同じ歳くらいの少年が、そこにいた。

「……あなた、夕方は海に居たって言ったわよね」

「うん」

「すごく目が良いのね」

「まあね。僕の武器だから」

 頭を掻いて、照れるように彼は笑う。

 私も良く海の景色を見るが、人の表情も細かなものも一切見えない。それぐらい遠く離れてる場所から、彼は届けてくれた。確かに、武器といえるほどの能力だ。

「でも、見つけられたのは本当に偶然だったんだ。軽く落ちた場所を想像したら、ピンポイントでそこにあったのがラッキーだった」

「どうして届けてくれたの? 見ず知らずの私の為に」

「……何となく、かな。そんな大した理由は無いよ」

少し目を細めて言ったかと思ったら、また屈託のない笑顔をこちらに向ける。

「じゃ、僕帰るねー。お元気で」

「え?」

 私が何か言う前に、彼は羽毛のようにまた窓から飛び降りていく。思わず小さな叫び声を出して、急いで窓まで駆け寄る。

 下を覗き込んだ時には、もうすでに壁を下り終えていた。

「待ってっ!」

 軽やかに降りていく彼を呼び止めるように、窓から体を乗り出す。偶然上を見た彼と目が合ったので、そのまま言葉を続ける。

「この手紙のお礼、したいからまた来てっ!」

「……いいの?」

「うん、それくらい大事なものだったから」

 大きい声を出すのには慣れてないから届くか不安だったが、問題なく会話は出来てそうだ。

「分かった。じゃあ今日と同じくらいの時間に来るね」

「うんっ」

 そういった直後、人とは思えないくらい軽やかに、楽しそうに降りていく。中々に人間離れな動きだ。

「今度は門番の人に言っておくから、ちゃんと玄関から来るのよーっ!」

 そう言ってから少し遅れて、彼は背中を向けながら手を振った。

 窓際には僅かに、インクの匂いがした。




  五月十三日 休暇


 短いながらも嵐のような時間が過ぎ、その後は気絶するように眠った。次の日は昼前まで熟睡して、あの一連の出来事は夢だったんじゃないかと思い始める。けれど、だとしたら手元にあるこの手紙の説明はつかない。

 もしくは、この手紙を無くしたことも夢だったのか。

 とりあえず門番の人には「知人が来るかもだから部屋に通して」と伝えた。随分と怪訝な顔をして執事たちと話していたが、使用人と同伴で会うなら構わないと了承してくれた。

 菓子や紅茶の準備をしていて、ふと気づいたことがある。私は彼のことをまだ何も知らない。どこの人間か、どんな人間か、名前すらも知らない。

「ま、今日聞けばいいか」

 できる準備はし終えた。後は暇をつぶしながら待とう。




 時計の針の音だけが、静かに響く。時刻はもうすぐで約束の時間まで迫っているが、まだ来る気配はない。

 まあ、明確に時間を決めて約束をしたわけじゃないし、多少のずれはあるとは踏んでいる。幸い今読んでる推理小説も面白くなってきたし、このまま読み進めよう。

 初めて読むタイプの推理小説だった。殺人をした犯人視点から物語は始まり、その後誰が探偵か見つけなければならないという王道からは逆の展開。少し荒い点は目立つけど、なかなかに興味をそそられる。

 真夜中の屋敷で、犯人である主人公は後をつけられている感覚に陥る。もしや探偵に、自分が犯人だと気づかれたのかもしれない。廊下は軋み、窓はノックされているような音を出す。意を決して主人公は後ろを振り……

 そこで現実世界へと戻された。小説の世界に入り込む、ノイズのようなものが混じってきた気がする。

 部屋を見渡して異変を探す。秒針が動く時計、香ばしい匂いを漂わせるクッキー、リズムよく叩かれる窓、月明かりに照らされる家具……。

 窓から音が鳴っている。

 リズムよく、数回叩かれている。

 その光景は、とても既視感があった。

「…………うっそでしょっ?!!」

 急いで窓まで駆け寄り、突き出すように勢いよく開ける。

「こんにちは」

 こちらの焦りなんてつゆ知らず、昨日と同じ呑気な挨拶が返ってきた。

「ごめん、ちょっと時間に遅れちゃった」

「謝るのはそこじゃないわよ。なんで玄関から入ってこなかったのよっ!」

「へ?」

「私昨日言ったじゃない。こんな危ない所から入ってきちゃダメ」

 意識してじゃないが、小さい子に怒るような口調になってしまった。昨日の事と言い、本当に心臓に悪い。

「……あー、えっと、ごめん。そう言ってくれたのに気づいてなかった」

「聞こえてなかったの?」

「まあ、うん。そんな感じ。本当にごめん」

 随分と歯切れの悪い答え方だが、聞こえてなかったのなら彼が悪いとは言い切れない。

「……ま、いいわ。とりあえず無事そうで一安心」

「君、優しいんだね。僕のこと心配してくれるんだ」

「心配じゃない。命知らずな行動されると、こっちの身が持たないだけ」

「そうなんだ」

「そうよ」

 返事から、どうにも納得しきれてない感じがするが、そこは本題じゃないからそこまで問題じゃない。

「じゃ、今から決めるわよ」

「決めるって、何を?」

「あなたへのお礼を何にするか」




 会議を始めてから、長針はちょうど一周し終わった頃だった。話し合いは思わぬ難航を見せている。

「……なーんで何も欲しいものが無いのよ」

 机に顔を置いて、思わず愚痴をこぼしてしまう。

「なんか、ごめん」

 気まずそうではありながらも、しっかり目を合わせて彼は会話をする。

 用意してあった菓子は大変喜んで食べてくれた。そこまでは良かったが、まさか内容のほうで困るとは想像してなかった。

「ギル、本当に欲しいものは無いの?」

「僕もさっきから考えてるんだけど、何も思いつかなくて」

 ギル。それが彼の名前だった。歳は私の一つ下で十六歳。今は育ててもらったおじいさんの印刷工場で働いているらしい。だから昨日はインクの匂いがしたんだと、心の中で納得した。

「最近生活で困ってる事は?」

「特にないかな。じいちゃんに拾ってもらってからは、特にひもじい思いもしてないし」

「趣味や好きなことは?」

「強いて言うなら日記とか、友人に手紙を書くことだけど、インクも紙も家にたくさんあるから」

「じゃあ新しいペンは? オーダーメイドで頼める知人がいるけど」

「今使ってるの、じいちゃんからもらった誕生日プレゼントなんだ。だから、他のペンはいらないかな」

「ったく、祖父思いの孫は厄介ね」

 ま、わざわざ落ちた手紙を届けてくれた人物だ。これくらい人間性が出来ていても不思議じゃない。

 だが、そうなってくると物で感謝を伝えるのは難しい。どうしたものか……。

 そう考えてようやく、自分の一番の武器を思い出した。

「そうだ! なら、私の演奏会に招待してあげるわ。すぐには無理だけど、少し先の予定なら今からでも参加できるはずよ」

 我ながら良い案だ。最初に思い付いていていれば良かった。

「君、演奏家なの?」

「そうよ。知らなかったの? 私すごく有名人なのよ」

「ほえーっ」

 なんとも気の抜けた返事をされる。

「ごめん、僕そういう演奏会とか、舞台とかに行ったことないから分からなかった」

「珍しいわね。この国で一番栄えている芸術なのに」

「下町のお祭りとか、踊りには参加したことあるよ」

「私も小さい頃にあるわ。最近は舞台の日と被って行けないようになったけど」

 懐かしい。我儘を浴びせるように両親に言って、何とか参加したことはある。屋台や出店が全部キラキラしていた印象だ。

 とりあえず、と手を叩き、話を元に戻す。

「お礼はこれで決まりね。何個か候補を出すから、予定が空いてるか教えて」

「あー、あの、そのお礼についてなんだけど」

「大丈夫大丈夫、私天才だから、絶対に後悔させないって」

「いや、そうじゃなくて」

「?」

「なんというか、僕が行くのはもったいないから、他の人に渡してあげて」

 そんな返答をされるのは、少し意外だった。

「もったいないってどういう事? 確かに入場料とかは払わない形になるけど、それは私から招待してるから当たり前よ。それに、音楽を聴くのがもったいない人はいないわ」

 音楽をするのには、どうしようもなくお金がかかる。けれど、聴くことに関してはどんな人でも平等のはずだ。

「そういう理由もあるんだけど、一番はそこでもないんだ」

 首を横に振る。彼が何に躊躇っているのか、いまいち分からない。

「……その一番の理由、聞いてもいい?」

「……信じてくれる?」

「ええ、もちろん」

 しばらく目が合うだけの時間が流れ続ける。この時間が何か、私は何となく知っている。

 覚悟を決める時間だ。

 人前で演奏をするとき、どうしても緊張や怖さがぬぐえない時がある。そんな時は、もう時間をかけて前を進むしかない。

 私にとって、そんな時は演奏をするときで、彼にとっては今なんだろう。

 彼が少し息を吸い込む。



「僕、耳が聞こえないんだ」



「…………ん?」

 どんな理由や言葉が出てくるのかと、色んな想像はしていた。けれど、その内容は完全に、私の意識外から飛んできた。

「今、耳が聞こえないって言った?」

「うん」

「人より聞こえにくいとか、耳が悪いとかそういう事?」

「ううん、そうじゃなくて、本当に何も聞こえないんだ。生まれた時からずっと」

「んーーー?」

 表情からは嘘じゃないとは何となく分かる。けれど、だとしたらますます分からない。

「じゃあ、なんで私と会話出来てるの?」

「基本的には口の動きを見て、かな。後は表情とか体の動きを見たら、大体何言ってるかは分かる」

 それを聞いた時、点と点が少しずつ結ばれていくのを感じた。

 話しているときに、ずっと目が合う理由、語尾が上がる少し特徴的な話し方。そして昨日、玄関から入っていいといった時、彼は背中を向けていた。

『……あー、えっと、ごめん。そう言ってくれたのに気づいてなかった』

 “聞こえなかった”ではなく“気づかなかった”とギルは言っていた。

 似ていないパズルのピースが後で繋がると分かった時のような感覚だ。

「へー、それってすごくすごいわね」

 思わずそんな感想が出てきてしまった。彼の気の抜けた返事の仕方が、少し移ったかもしれない。

「……本当に、信じてくれるの?」

「? うん。だって私、信じるって言ったじゃない。明らか嘘はついてないし」

 そう言うと、彼はとても驚いているような顔をした。多分驚くのは、私の方のはずだとは思う。

「だとしたら、本当に目が良いのね。自分の武器って言うだけあるわ」

「……ありがとう」

「こちらこそ、言いづらい事を教えてくれてありがとう」

 それにしても、不憫な話だ。

「せっかく頑張って伸ばした力なのに、凄すぎて信じてもらえないのは辛いわね」

 私自身も生まれ持った才能に助けられてはいるが、それでも相応の努力はしてきた。その事実を信じてもらえなかったら泣いてしま……いや、多分殴ってるな。うん。

「でも、そうねぇ。だとしたら何でお礼を返そうかしら」

「全然気にしなくていいよ。僕も気まぐれでやった事だから、お礼なんて無くていい」

「それは私が嫌」

 そうすると私の気が収まらない。

「じゃあ、とりあえずお礼が決まるまではここに来てよ。お菓子とか飲み物は用意しとくわ」

「……。」

「? 何よその目は」

「いや、なんというか……君って意外と強引というか、強情というか」

「悪かったわね。我儘な女で」

 わざとふくれっ面な顔をする。そうすると、彼は困ったように苦笑いをした。

 どうやら押しに強い方ではないらしい。覚えておこう。

「じゃ、今度はちゃんと正面玄関から来てよ」

「それは遠慮しておく」

「何でよ」

「ほら、僕生まれも良くないし、こんな服しか持ってないから。僕と出会ってることがばれたら、君に迷惑がかかる」

「そんなの、私は気にしないのに」

「君が気にしなくても、多分周りの人は気にすると思うよ」

 いまいち納得はしきれないが、これから先も来る以上、他の人にばれないのは好都合、かもしれない。とりあえずはそう思っておこう。

「……分かった。だけど、来る途中でケガとかしないでね」

「気を付けます」

 ぺこりとお辞儀をする。

「じゃあ僕、夜の印刷作業があるから帰るね」

「うん、またね」

「……うん、また」

 軽く手を振り返し、彼は身軽に窓から飛び降りていく。何度見ても、人間業じゃない。

 その後ろ姿が見えなくなるまで、その日は窓際にいた。




  五月二十日 食事会


「よく考えたら、私って同年代の子とあんまり話した事がなかったの」

「そうなんだ」

「そう。ずっとレッスンとか挨拶とか、今日みたいな食事会ばっかり行ってるから。あんまり学校も行けてないし」

「僕も学校に行ってないから、同じだね」

「ふふっ、そうね」

 あれから毎日ではないが、数日に一回彼は来てくれる。最近はお礼で何が欲しいかの話題よりも、普通の雑談をするのがほとんどだ。

 これまでの人生でこんな時間は無かったから、少し新鮮で、楽しい。

「後ね、今日これをやってみたかったの」

「それ何?」

「最近流行ってるらしいボードゲーム。ファンの人からもらったんだけど、二人用だからまだした事ないの」

「ルール教えてくれる?」

「私も知らないから、一緒に説明書読むわよ」



 ボードゲームを始めてから、早一時間。

「……何よその戦法っ! どう対処すればいいの?」

「降参する?」

「絶対しない。もう一回!」

 思った以上に奥が深いゲームだが、それ以上にギルが強すぎる。というか、一生同じ作戦を使われて太刀打ちできない。

 何とか打破する作戦は無いものか。必死に頭を捻る。

「うーーん……ここっ」

「あ、そこに駒を置くと、相手の駒を無意味に囲っちゃうから反則負けになるよ」

「え? そうなの。じゃあ、こっちに置く」

 危ない、惨めな負け方をするところだった。

「……ん? 反則負け?」

 何か違和感が残り、彼が考えている間にもう一度説明書を読む。

「じゃあ、僕はここにしようかな」

「……ギ~ル~?」

「な、何?」

「私たち、一緒に説明書を見たわよね」

「う、うん」

「けどね、私たちまだ、裏面の説明書を見れてなかったらしいの」

「あ、そうなんだ」

「それでね、さっきギルが言った反則負けって、この裏面に書いてたの」

 そういうと、彼は小さくあっ、と呟いた。

「……あんた、初心者のふりして私を嵌めたわねっ!」

「いや、確かに初心者のふりはしてたけど……」

「成敗!」

「うおっ?!」

 投げたクッションを躱される。何という軽い身のこなしか。

 結局その後は枕投げをして(一方的に私が投げ続けて)勝利を勝ち取った。

 



六月十八日 レッスン


「あと一か月後くらいには、アウタール祭だね」

 アウタール祭、元々は漁港で栄えたこの町で、海の恵みに感謝を表す祭りだ。今でこそそういった意味は形骸化してしまったが、この時期に食べる魚はどれも脂がのっていて美味しい。

「そうね。ギルも参加するの?」

「うん、じいちゃんが祭りの手伝いをするから、僕も手伝う。アイシェは来ないの?」

「私は無理。その日は大事なコンサートと被っているから、終わる頃には祭りも終わってるわ」

「そのコンサートが終わるのって、いつぐらい?」

「正確な時間は分からないけど、日が落ちるまでには終わるわね」

「だったら、祭りはまだ始まってもいないよ」

「? でも屋台とかは閉まる時間のはずよ」

「表向きはね」

 少し悪い顔をするように、ギルは話を続ける。

「その後は海辺でキャンプファイヤ―をして、皆で踊るんだ。下町のみんなは、なんだかんだそれを楽しみにしてる」

「ふーん」

「後、片付けって名目で屋台の食べ物をただ食いしたり、出店の遊びをみんなでする」

「何それ、楽しそう」

「でしょ?」

「……私行けるかな」

時間的には行けそうだが、正直許してもらえる気はしない。

「もし行けたら、その時は案内してね」

「……うん、分かった」

「ギル、もう仕事の時間になりそうだけど、大丈夫?」

「あ、そんな時間か」

 急ぐように準備をして、ギルは帰ろうとする。最近は、その背中を見るのが寂しくなってきた。

「じゃあ、またね」

「うん」

 彼が見えなくなるまで手を振ると、思わず小さなため息がでる。

「祭りかぁ」

 行けないと分かっているからこそ、行きたくなってきた。




  六月二十二日 休暇

「そういえばさ、学校ってどんな所なの?」

 その日は珍しく、彼の方から会話を広げてきた。

「どんな所って?」

「よく考えたら、何をしてるのか全く知らないからさ」

「何をしてるか、ねー」

 私もまったく行ってないわけではないが、人に説明できるほどの自信は無い。

「まあ、まずは勉強ね。勉強をよくするわ」

「どんな勉強?」

「字を覚えたり、数を計算したり……後は運動もする」

「運動も勉強のうち?」

「多分そう。覚えた字とか計算力を、そこで何かしらに使うのよ」

「ほえーっ」

 どうしよう、休み時間に遊んだ球技の内容ぐらいしか思い出せない。

「後は何かある?」

「んーと、えーとね……。あ、お昼はみんなでご飯を食べたわ」

 その頃は特に好き嫌いが激しかったから、よく残していたのを思い出す。

「なんだか楽しそうだね」

「ま、そんなに悪くはない所ね」

「また行きたい?」

「うーーん、どうかしら。今の生活の方が楽しいから、あんまりそうは思わないわね」

 演奏できなくなる時間が減る方が、きっとつらい。

「ギルは、学校に行きたい?」

「……どうなんだろう。今は仕事で忙しいから、よく分からない」

行ったことがない彼にとって、そう思うのも無理はないんだろう。

「じゃあ学校に通う時は、先輩として私が案内するわ」

「そんな時がきたら、きっと楽しいだろうね」




  六月二十四日 演奏会

「ギルってさ、前に手紙書いてるって言ってたでしょ?」

「うん」

 前に、彼のおじいさんから字を教えてもらった話は聞いたことがある。そこから楽しくなって、少しずつ手紙を書き始めたことも。

「誰と手紙をやり取りしてるの?」

「最近は下町の子供たちとか、じいちゃんの知り合いの人とかかな。すごい職人さんらしいんだ」

「そうなの。それはすごいわね」

「うん。すごいんだ」

 なんだか最近、こんな中身のあるような無いような会話が多い気がする。つまらないとは感じないのが、また困ったところだ。

「じゃあ、私にも手紙書いてよ」

「時間がないから、少し厳しいかな」

「あら、私には時間を使ってくれないの」

 不満を表すように、頬を膨らませる。だけどよく考えれば、ここに会いに来てくれてる時点で時間は大いに使ってはくれている。

「じゃあさ、今ここで私に手紙を書いてよ」

「それは訳が分からない」

 お互いに笑いながら、そんなやり取りをしばらくは続けた。

 しばらくは駄々をこねたけど、結局書いてはくれなかった。




  七月三日 演奏会


「ねえ。前にさ、僕にお礼がしたいって言ってくれたよね」

「? そりゃもちろん。こうして来てもらってるのも、その為だしね」

「僕、一つ思いついた」

 その言葉は意外だった。ギルと話している限り、物欲も願いもこれといってない。多分、そういうのは自分で手に入れないと気が済まないんだろう。義理堅いというのか、責任感があると表現するのが適切かは分からないが、彼はきっとそういう性格だと、これまで一緒に過ごしてきて感じてきた。

「それって何」

「物、とかそういうものじゃないんだけど」

 そういった後、少し言い淀むように言葉を濁す。かと思えば、意を決するようにこちらの目をしっかりと見つめ直した。


「君を、アウタール祭に連れていきたい」


「……」

 その願いは、もっと意外だった。

「……嘘つき」

「へ?」

「私が前に行きたいって言ったから、そう言ってくれてるんでしょ」

「……正直、それもある。けど」

 もう一度、目を見てはっきりと言われる。

「僕が、君を連れていきたいと思ったんだ。だから、これは僕の我儘でもある」

 ギルの言葉を、軽いと思ったことは一度もない。けれど、今回はいつもに加えて、さらに責任のような重さが乗っているように感じる。

 少しだけ、胸が苦しくなる。少しだけ、顔が熱くなる。

「もし嫌だったら、遠慮なく言って欲しい」

 だめだ。そんなまっすぐ見つめられると、少し照れる。

 私はどういう言葉を、どういう態度で言えばいいんだろう。頭の中がぐるぐるしていくのに合わせて、鼓動が次第にうるさくなる。

「……あなたの事だから、」

 思考がまとまらないまま、口が勝手に動いていく。

「私を安全に、ここから連れ出してくれるんでしょ?」

「もちろん」

「だったら、あなたの願いを叶えてあげるわ」

 出来ている自身は無いが、精一杯いつも通りに返事をする。

 ギルは安心したような顔をして、胸を撫で降ろす。

 鼓動はまだ、静まる気配はない。




  七月十三日 コンサート


 今日はずっと、ソワソワしていた記憶がある。何をしても落ち着かなくて、意味もなく歩いたり立ったりしてしまう。

 彼が連れて行ってくれるのは、今日の深夜。その時間が、あまりにも待ち遠しい。

 ドレスに身を包んでいる時も、化粧をしている時も落ち着かない。

舞台に立つ直前までそのことでいっぱいで、心ここにあらずを自分でも感じてしまう。

 そこまで思って、ようやく気付いた。

 演奏以外で、ヴァイオリンを弾く以外でこれほど楽しみな時間は、いつぶりだろうと。

 いつも、ヴァイオリンを弾いている時間だけが特別だった。何よりも大切だった。

 それだけが待ち遠しくて、それしか楽しみがなくて。

 けれど、今は違う。

 舞台に上がり、演奏の準備をする。静寂の中で、私の動きが、呼吸だけが響き渡る。

 何の問題もなく腕は動き、音を響かせる。

 こんな心情でも問題なく弾けるのだと、我ながら少し感心してしまった。




 その日の深夜、重大なことに気づいた。

 彼に、何を準備したらいいかを全く聞いていない。

「どうしよう……」

 とりあえず、服装は動きやすいものにしたし、髪も一つにまとめた。けれど、他に何が必要かは分からない。水筒や食べ物は邪魔になりそうだし、ここから遠くに行くとなったらあまり荷物は持てない。

「……ん? そもそも私、ここからどうやって海岸まで行くの?」

 よくよく考えたら、家から出ようとしたら門番や使用人に止められる。正直に言っても許してくれる気はしないし、どうしたものか。

「こんにちは」

「あ、来た……って、凄い荷物ね」

「まあね」

 服装はいつも通りだったが、鞄やら肩やらにはひも状のものがたくさんあった。

 本で読んだことがある大冒険が始まりそうで、恐怖と楽しさがごっちゃになる。




「では今から、今日の脱出作戦を伝えます」

 ある程度の準備を終えた後、彼は芝居がかった話し方をした。

「ここから脱出するための手順を伝えますので、よく聞いていてください」

「……やっぱり、ここから直接出るのね」

「まず、この紐を窓から垂らします」

「はいはい」

「次に、ハーネスやら何やらを僕と君につけて、合体させます」

「……はーねす?」

「簡単に言うと、抱っこ紐のようなものを僕たちにつけてから固定して、安全に君をおんぶ出来るようにします」

「分かりやすいけど、そう聞くと少し恥ずかしいわね」

「それが終わったら、ゆっくりと紐を降りていきます」

「その後は?」

「海岸まで歩いて、祭りを楽しみます」

「最高ね」

 にやりと悪い顔をする彼につられて、自分の口角も上がってしまう。

「じゃ、準備よろしくね」

「うん」




 ハーネスは全部つけると思いのほか重くて、思い通りに体が動かなくなる。

「今から降りるよ」

「うん」

「今みたいにおんぶしてる時は、会話できないけどごめん」

「……あ、そっか」

 多分今の呟きも、背中越しに話してるから伝わらない。返事代わりとして、肩をポンポンと叩く。

「大丈夫そう?」

 もう一度肩を叩く。

「了解」

 ちゃんと伝わったかは分からないけど、とりあえず問題はなさそうだ。

 ギルは慣れた様子で窓際に足をかけ、ロープが固定されているのをしっかりと確認する。ひもを引っ張る感覚が、私にも振動で伝わってくる。

 ロープを持ちながら、壁を少しずつ蹴るように降りていく。その瞬間、体中が浮遊感に襲われた。

「きゃっ?!」

 怖さのあまり声が出てしまう。初めての感覚だった。今にも落ちそうで落ちなくて、足が地につかずプラプラと揺れているのが不安でたまらない。

 けれど、今暴れたらもっと危ないはずだ。

 怖い気持ちを必死に押しのけて、目をつぶる。

「大丈夫」

 そんな時に、彼の声が聞こえた。

「大丈夫。落ちないから、大丈夫」

 語り掛けるような、優しい声色だった。

「……ふふっ。なんで分かるのよ」

 声は聞こえていないはずなのに、まるで伝わったみたいだった。

「ありがと、ギル」

 この声は、彼に届いただろうか。




 あらゆる全てが、キラキラしている印象だった。屋台も、人も、食べ物も。

 さすがに現実はそうじゃなくて、思い出が美化されていたことに気づく。けれど、それを差し引いても辺りは活気に溢れ、心を踊らされる。

「どこから行く?」

「……いっぱい。いろんな所に行きたい」

「多分疲れるよ」

 ギルに苦笑いされるが、本心だから仕方ない。

「大丈夫」

「分かった。じゃあ片っ端から行こうか」

「うんっ!」

 彼の後ろを行いていくように、人ごみの中を進んでいく。ギルはまるで道を開けるように、するすると人の間に入っていって止まらない。こんな時でも、彼の目の良さは役に立っているらしい。

「おっちゃん、片付け手伝いに来たから、魚焼きちょうだい」

「おう、サンキュ……おいおい、ギルがデートとは珍しいなっ!」

 いつの間にか知り合いの出店まで来たらしい。店主は頭にはハチマキを巻き、ダボダボの紺色のエプロンを着ている。これほどまで祭りの衣装を体現している人に会えて、少し感動する。

「デートというか、この子に祭りを案内してるんだ」

「んなもんしてるんだったら片付けなんてするなっ! ほれ、塩焼きと皿持っていきな」

「いいの?」

「ったりめえよ。後はほら、嬢ちゃん? トウモロコシにフランクフルトに、小っちゃいけどイカ焼きも食べるかい?」

「全部頂きますっ!」

「なんで串物ばっかりなの……」

 一瞬で両手はいっぱいになり、大変だろうと大きな袋までもらった。

「楽しんで来いよーーっ!」

 歩いてる途中も、見えなくなるまで手を振り続けてくれる。こちらも返事をするように、イカ焼きを左右に振る。

「……お金払ってないのに、こんなに貰ってもいいのかな」

「どうせ売れ残りだから、食べてくれた方がおっちゃんも喜ぶと思うよ」

「ほうはんだ。しゃあへんりょなくはべるわね」

「うん、その方が良い……あれっ!? 僕のイカ焼きは!?」



「お嬢ちゃん、カステラ焼くの上手いわね~」

「ふふんっ、私にかかればこんなのイチコロよ」

「片付けも手伝ってくれて感謝してるわ~。けど、こんなにいっぱい作って食べられるの?」

「あっ…………。ギルー?」

「僕、残飯処理係じゃないよ」




「私、手で持つ花火初めて」

「蝋燭そこにあるから、火付けられるよ」

「分かった……あれ? 全然燃えないわ」

「海の近くだから、風が強いかもね。そういう時は体を壁にして……てアイシェ?! そっち持つ方だから燃やしちゃダメ!」




「……アイシェ、輪投げ以外にも遊ぶ所いっぱいあるから、別の場所行ってもいいんじゃない?」

「あとちょっと! あとちょっとでコツ掴めそうだから!」

「それ、さっきも聞いたよ」

「お姉ちゃん、へたくそー」

「俺よりヘター」

「うるさいわね! 見てなさいよ、華麗に決めてあげるんだから……ああっ!?」

「はい、お嬢ちゃんゼロ点~」

「もう一回っ! 子供たち、カステラあげるからコツ教えてっ!」

「子供に賄賂渡してる……」




 一通り屋台を一周した後、私とギルは海岸沿いの階段に座っていた。手元にはまだ、持ちきれないほどの戦利品がある。

「いやあ~、祭りって本当に楽しいわね!」

「……僕は色んな意味で疲れたよ」

「? 珍しいわね。ギルが疲れるなんて」

 随分とぐったりしている様子だ。

「元気ないなら、カステラ食べる?」

「もうお腹いっぱい」

「オレンジジュースは?」

「それは少し貰う」

 コップを渡す。少し飲むと元気になったようで一安心だ。

「とりあえず、君が楽しめてそうで良かったよ」

「ありがとね。ここに連れてきてくれて」

「どういたしまして」

 そんな会話をしている内に、向こうの海岸ではひと際盛り上がりを見せていた。

「あっちで何かやってるの?」

 指をさして、ギルに聞く。

「ああ、もうキャンプファイヤーの周りで踊る時間か」

 ズボンの砂を払い落として、ギルは移動する準備を始める。

「……そういえば、ギルって踊れるの?」

 よく考えれば、耳の聞こえない彼にとってダンスは難易度が高い気がする。

「全くリズムは取れてないらしい」

「やっぱり」

「けど、楽しいから踊る」

 そういって、彼は腕をこちらに伸ばす。

「一緒に踊る?」

 踊りたいんでしょ? と言いたげな表情を私に向ける。

「……私、ダンスの誘いを受けたの初めてかも」

 今日は初めての経験ばかりだ。そのどれもが、全部楽しい。

 彼の手を握り返す。体は細身の方だと思っていたけれど、握る手は分厚くて、ああ男の子なんだと、改めて思う。

「……。」

「ギル? どうしたの」

「……ううん、なんでもない」

 キャンプファイヤーの陰に隠れて、いまいち顔色が分からない。それでも一瞬、曇ったような表情をしていた気がする。

「アイシェは、ダンスしたことないの?」

 そう問いかける彼の顔は、いつものような屈託のない笑顔だった。

「多分ない」

「じゃあ、僕がダンスを教えるよ」

「あら、舐められたものね」

炎が一層強く燃え、火花が星の欠片のように宙を舞う。

誰もが思い思いに、自由に踊る場で、私も彼もがむしゃらに、体でリズムを取る。



「……ぜぇ、ぜぇ」

「ア、アイシェって、踊るのっ、上手じゃないんだね」

「あ、あなたも人の事、言えないじゃない……」

 結果から言うと、二人ともダンスが出来ていたか怪しいくらいの実力だった。腕は誰よりも回した自信はある。

 お互い肩で息をして、今にも倒れそうになる。

「いったん休憩。体が持たないわ」

 これほど汗を掻いたのは、本当に久しぶりだ。

 踊り疲れて、足の震えが小鹿みたいに止まらない。とりあえず砂浜に座って休憩しよう。

「よいしょっと」

 少しずつ呼吸を整えて、今一度景色を見る。

 波の音が、とても穏やかだ。さっきまでは荒ぶっていと感じたが、自分が躍っていたからそう感じただけかもしれない。

 休憩がてら、ポケットに入れてきた楽譜を見る。次の演奏の内容になるし、もし彼にアレを渡すんだったら、大切な曲になるはずだから。

「その紙はなに?」

「楽譜。今度のコンサートで演奏するの」

 視線を楽譜に向けたままそう説明するが、一向に返事がない。変だと思い彼の顔を見て、ようやく気付く。

「次のコンサートの楽譜」

「そうなんだ」

 あまりにも彼と自然に話せるから、時々耳が聞こえていない事実を忘れてしまう。

「大事なコンサート?」

「コンサートは全部大事」

「そっか」

 そういって、ギルは一瞬だけ海の方を眺める。

「僕、コンサートとか、賞が出る大会? とか好きじゃないんだよね。行った事無いけど」

「どうして?」

「音楽で順位を決めるとか、一番上手い人を決めるとかが、あんまり分かんないから」

「いかにも、素人っぽい考えね」

 そういった意見を聞くのは初めてではないが、少なくとも演奏家からは聞いたことはない。演奏の上手さや正解は存在するし、この世界で生きていればある程度は分かる。

「それ、他の演奏家の前では絶対言っちゃダメよ。下手すれば、その人の人生そのものを否定するから」

「……そう、なんだ」

 そう言ってはいるが、彼自身は悩んでいるような、考えているようなポーズを取っている。今の何に引っかかったんだろう。

「でも、それって少しもったいない気がする」

「もったいない?」

「だってさ、それだとまるで正解が一つしか見つけられてない、って言ってるみたいだから。それって、少しもったいない」

「……」

 その考えを初めて聞いた、という確信はない。けれど、音の聞こえない彼が持つその意見には、少し好奇心をくすぐられる。

 その考えにどんな意味があるか、少し目を閉じて想像する。さっきよりも、波の音が近くで聞こえてくる。


 砂浜を掘ると稀に、光り輝く貝殻が見つかるように。

 路地裏から飛んでくる張り紙に、色あせてもなお興味を惹かれるように。

 まだこの世界に、無数の音楽の正解が溢れているとしたら。

 この世界にまだ美しさが隠れているとしたら、これ以上どう変化するのだろう。

 目を開けると、彼と目が合う。



 その時だった。心がざわざわとしたのは。

「……」

「? アイシェ、具合悪いの?」

「え、いや、大丈夫」

 自分でも訳が分からなかった。ギルの顔を見た途端に、不安な気持ちが押し寄せてくる。心臓が潰されるみたいに、苦しい。

「あっちで花火があがるらしいけど、アイシェも行く?」

「……うん」

「じゃ、案内するよ」

 いつもと同じような、屈託のない笑顔だ。いつもと何も変わらない。そのはずなのに、


 さっきの表情は、初めて見た。

 まるで、何かの覚悟を決めたみたいだった。




「今日は楽しかった?」

「ううん」

 首を横に振る

「?」

「すっごく楽しかった」

「……そっか」

 祭りから帰ってきた後、いつもの部屋で、いつものように話をしていた。

 何も変わらない。そのはずなのに、彼の言葉を聞くのが怖い。

 帰ってきてからずっとそうだ。不安が煙のように、ずっと纏わりついている。


 これが何かは、何となく分かる。

 変な形ではあるけど、私は彼にお礼を返したことになる。それは、今みたいに会う理由が無くなる事でもある。

『お礼は終わったけど、これからも話をしに来てよ』

 たった一言、そう言えばいい。それだけで解決できる。

 でも、それだけじゃ駄目な気がする。

 それだけだと、彼を止められないような不安が襲ってくる。なんでそう思うのかは分からない。

「……あのさ、実は」

「ギル」

「?」

 彼の言葉を振り切るように、私は机に置いてあったものを取り、彼に渡す。

「……これは?」

「次の、コンサートの招待状」

「え?」

 名目上は、アウタール祭の後夜祭に位置するコンサート。祭りというには少々格式高い気もするが、演奏のほかにも色んな催し物があるから、彼を初めて誘う演奏会として適してると思った。

「これは、私の我儘。耳が聞こえないあなたにとって魅力は無いかもしれないけれど、それでも来て欲しい」

「……」

「ギル。あなたに、来て欲しい」

「本当に、僕でいいの?」

「あなたが良いの」

 彼の目を見て、しっかりと伝える。

 長い沈黙だった。時間が止まっているみたいに。彼の息遣いすら聞こえない。

 心臓の鼓動が、やけにうるさい。招待をする恥ずかしさからか、もう会えないかもという怖さからくる音かは分からない。もしかしたら両方かもしれない。



「行く」



 長い沈黙から静かに飛び出すような、それでいて、はっきりと聞こえる声だった。

「……え?」

「行っても、良いかな?」

 頬が緩むと同時に、少し泣きそうになる。その言葉に、心の底から安心してしまった。

 必死に泣かないように、表情を崩さないように会話を続ける。

「当たり前でしょ。私が招待してるんだから」

「……そっか」

「絶対に、後悔はさせないわ」

「うん」

「だから、ちゃんと来てね」



「約束する」




  七月二十日 アウタール後夜祭

「……ふへっ」

「あら、ルドリシアさん。何か良い事でもありました?」

「? いや、何もないわよ」

 メイクを整えている間、そんなことを聞かれた。今日はやけに同じ質問をされる。

 鏡を見ながら思い出すのは、あの日の会話。



『約束する』

 その言葉に、思わず胸を撫でおろす。正直、断られることも覚悟していた。

『ま、私からの誘いを断る理由なんて無いから、当然だけどね』

 さっきまでは不安でいっぱいだったが、なんだか急に自信がついてきた。

言質を取れたらこっちのものだ。後は押しまくればいい。

『その日でも後日でもいいから、感想聞かせてね。絶対よ』

『僕、そういうの得意じゃないんだけどなぁ』

『つべこべ言わない』

『……分かった』

 彼は軽く頭を掻きながら、目を細める。


『行けるように、頑張る』

 彼は楽しそうに、少し苦笑いを浮かべながら、そう言った。

 その顔はまるで、


 

 一瞬、呼吸がうまく出来なかった。

 喉の奥を締め付けられたような、詰まったかのような感覚。

「どうかされました?」

「……いや、なんでもない」

 冷汗をかいたわけでも、苦しくなったわけでもない。息が詰まったのはほんの一瞬で、次の瞬間には忘れてしまうほどの出来事だ。

 そのはずなのに、



「……プログラムは、以上の形となります。何か不明な点はありますか?」

「大丈夫よ」


 鼓動の音が、少しずつ早くなる。



「本日はこのような機会を頂き、ありがとうございます」

「とんでもございません。感謝をするのはこちらの方です」


 漠然とした不安が、ゆっくりと体にまとわりつく。



「あの、ルドリシア様?」

「……何?」

「その、何度も舞台袖から客席を見てどうしたんですか? 何か気になるお客様でも?」

「……いいえ、なんでもないわ」


 不安が積もり、目の前がぼやけていく。

 彼と話した日数は、決して長いと言えない。けれどその期間で、一度も約束を破った事はない。

 彼の事は信用出来ている。なら、この不安は何なのか。どこから来るのか。



 演奏の時間が近くなっても、席がどんどんと埋まっていっても、照明が暗くなっても、彼は来ない。

 不安で押しつぶされそうになる。

 時計の針が、嫌なくらいに進んでいく。

 始まってしまうのが、怖い。


 証明はやがて舞台の一か所に集まっていく。吸い込まれるように、そこに運び込まれる。

 その瞬間ですらも、彼の面影を探しそうと客席を見渡す。

 けれど、何も見えない。

 どこまで見渡しても真っ暗で、明かりのない世界がどうなっているのか、分からない。

 人の気配がしない、一人の世界。

 長く感じた、演奏の時間。

 それでも体は、何の淀みもなく動く。


 いつの間にか、演奏は終わっていた。



 

 コンサートホールを抜け出し、そのままの衣装で出口へと向かう。

 あの日私は、彼に招待状を渡した。

 彼は来ると言ってくれた。その顔に嘘はなかったと確信できる。

 だから迷子になったか、遅刻をしたんだと予想する。だとすれば、愚痴の一つでも言っておかないと。そして次の招待状を渡そう。もしくは、また私の部屋に来るようお願いしよう。

 それほど激しい運動はしていないのに、呼吸が浅くなる。不安がさらに重なっていく。

 何か、嫌な予感がする。私の知らない所で、知りたくないことが起こっている気がして。

 彼の姿を見て、安心したい。

 無我夢中で歩き回り、いつの間にかエントランス近くまで来た時だった。

「申し訳ありませんが、この招待状が本物だと判断することは出来ませんでした」

「……そう、ですか」

「ですので、本日はお引き取りください」

 その会話は、受付辺りから聞こえてきた。

「分かりました……ご迷惑おかけしました」

 語尾が上がる、少し特徴的な話し方。その声の人物を間違えるはずはない。階段を降り続けると、見知った後ろ姿が見えた。

「……?! ギルっ!」

 思わず声をかけ、追いつこうと走り出しと足を動かす。

先ほどの受付から、ひそひそと会話が聞こえてくる。

「……お前、ホントにあの招待状の中身確認したのか?」

「いや、全く」

「お前さぁ、仮にも本物だったらどうするんだよ」

「んなことありえねぇよ。あんな服しか持ってない奴を、招待する人間がいると思うか?」

「……ま、それもそうか」

「そもそもあんな身分の低そうな奴が、こんな所来るはずないよ」

 会話の内容が聞こえてきても、いまいち理解まで出来ない。今は、そんなことを気にしている場合じゃない。慣れない走り方をして、心臓が痛くなる。

 そこでようやく、周りが騒がしい事に気づいた。

「やっぱりルドリシア様だ! 見間違いかと思いましたが、まさかこんな所におられるとはっ!」

「どうかサインを頂けませんか? 私、あなたが八歳の頃からのファンですの。その時から素晴らしい才能だと感じていましてよ!」

「おいっ、それを言うなら、私はルドリシア様が七歳の頃から気づいていたぞ! ルドリシア様、どうか私にもサインを!」

「本日の楽譜の解釈、非常に心を踊らされました。やはり普段から楽譜に対しての理解を深めておられるのですか?」

 多くの人々が辺りを囲い、壁に挟まれたように動けなくなる。

「お願いです、そっちに行かせてくださいっ!」

 何とか人を押しのけ前に行こうとする。けれど、押しては返す波のように、一歩たりとも前に進めない。

「ギル、行かないでっ!」

精一杯声を出す。けれど、私の声はすぐにかき消されて届いてくれない。

「ギル、ギルッ!!」

 どんどんとギルの背中が遠くなる。声をかけても、彼は振り向いてくれない。


 振り向いてくれる、訳がない。


「……ぁ」

 そんな当たり前の事実を、ようやく思い出した。

 今の彼に、私の声が届くはずがない。

「ルドリシア様、なぜこのような場所にっ?!!」

「申し訳ありません。まだ本日のプログラムは終わっていませんので、どうかお静かに!」

 警備員か、ボディーガードか分からない人たちが、私を後ろへと引き戻す。


 彼がどんどんと、遠ざかっていく。

 ギルが入り口を開け、外に出ようとする。

 それを私は、見ることしか出来なかった。

荘厳な扉はゆっくりと開き、彼を連れ出す。外の日差しを吐き出すように、明かりを伸ばし、縮めていく。

彼の姿が、完全に見えなくなる。

扉の閉まる音が、鼓膜の奥まで響き渡った。




 海の前に、立っていた。

 波が、私の足元までに届く。砂が意志を持つように、私の足元に絡みついていく。冷たい感覚が、体の芯までに伝わっていく。

 この海岸には誰もいなくて、

 それがひどく寂しくて、

 あるはずのない人影を、いるはずのない彼を探してしまう。

あまりに孤独で、自分一人だけがこの世界にいるような感覚。それはどうしようもなく不安で、辛い。

 波が荒くなり、顔に塩水が当たる。それは頬から少しずつ垂れていき、もう一度海に帰る。

 この世界が夢だと確信し始める。早く目覚めてほしいと思い、すぐにそれを疑う。

 本当に目覚めたいのだろうか。

 本当に現実に戻りたいのだろうか


 どちらにいても、この感覚はついてくるというのに。




  七月二十四日 体調不良により休暇


 目が覚めた時には、ひどい量の汗を搔いていた。まるで悪夢を見た時みたいに。

 ここ数日、ベッドから体が動かない。動く気力がない。

 まだ疲労が取れない頭は、あの日のことが何度も思い出される。

『ほ、本当に、ルドリシア様があの者を招待したのですか?』

『いえ、まさかあの招待状が本物だったとは……』

『我々としては、やはり皆様の安全を守る必要があります。ええ、彼の容姿は非常にその……少々怪しかったので、適切な処理を取らせていただきました』

 その日のプログラムが全て終わった後、すぐに受付まで駆け付けた。今思い出した以上に説明された気もするが、どれも言い訳じみていてあまり覚えていない。

腹が立った、という言葉では言い表せない。なぜそんなことが出来るのかと、問い詰めた。

これまで決して、全てが順調だったわけではない。

けれど、これほどの不条理が身に襲ってきたのは初めてだった。

これほど身近に、人の冷たさを見たのは初めてだった。



でも、一番許せないのは自分だ。

こうなることを予想していれば、もっと準備をしていたら、回避できたかもしれない。

彼を傷つけずに済んだかもしれない。

やるせない後悔が、体中に回っていく。

「……」

 窓の外を見る。もしかしたら彼が来てくれるかもと開け続けているが、入ってくるのは僅かな潮の匂いだけ。

 何故彼が来ないのか、具体的な理由は分からない。

 けれど、嫌な予感はしていた。あの祭りの後から、彼を引き留めないともう出会えない不安はあって、不運にもそれは当たってしまった。


 私を嫌いになったのだろうか。

 あの一件から、私を憎んでいるのだろうか。

 それでもいい。許してくれなくてもいい。せめて、あの日のことを謝りたい。彼に謝りたい。



彼に、会いたい。



 風向きは僅かに変わり、私の元まで届いてくる。机に置いてある手紙の数々が、静かに落ちる。



 その時、僅かにインクの匂いがした。



「……?」

 手紙の束だから、インクの匂いがするのは変な事じゃない。

 けれど、この匂いを私は知っている。

 この匂いのする人を、私は知っている。

 ゆっくりと机に近づき、手紙の山を丁寧に掻き分け探っていく。すると、下の方に明らかな質量を持っている物があった。

「……本?」

 それは明らかに手紙ではなく、シンプルな青一色の冊子だった。けれど本と言うには、タイトルも表紙も見つからない。

 代わりに見つかったのは、右端のわずかな単語だけ。


『ギル  日記④』


「ギルの、日記……」

 いつの記憶か、手紙や日記を書くことが趣味だとは言っていた。耳の聞こえない彼にとって、それは貴重な人と話せる時間だからと。

 理由は分からない。けれど、確実に彼自身が、この日記を私に送った。

 それに、一体どんな意味が込められているのか。

 気が付いた時には、日記のページをめくっていた。最初は何の変哲もない、ありふれた内容の日記。特別変わったところは無い。そんな日々が、一日ずつ進んでいく。

 

 そして読み進めていくうちに、馴染みのある日付になった。



 私たちが、初めて出会った日。




『  五月十二日 晴れ

その日はいつものように、海岸沿いに立っていた。いつからかは忘れたけど、僕の日課になっている。

 だから、全部が偶然だった。風に揺られる紙を見たのも、遠くの窓から彼女が見えたのも。

 彼女の顔は、あまりにも悲しそうだった。この世の終わりみたいな、絶望が舞い降りたかのような、そんな表情だった。

 僕は彼女のことは知らない。どんな人かも知らない。分かるのは、あそこら辺に住んでいる人だから、とても裕福な人だって事くらい。

 そんな人でも、あんな表情をするんだと思った。

 同じ表情は、これまでたくさん見てきた。明日食べるものがない人も、騙されてお金が無くなった人も、身近な人が死んだ人も、皆彼女のような顔だった。



 たぶん僕は、腹が立ってしまったんだと思う。



 明日生きることに困らないであろう彼女が、どうして彼らと同じように悲しむのか。どうしてそんなにも辛そうな顔ができるのか。

 そして気づいた時には、あの紙を探して彼女に届けていた。


 何か文句を言いたかったのかもしれない。

 彼女を諭そうとしたのかもしれない。


 けれど、あんまり覚えてない。

 彼女の嬉しくて泣き出しそうな顔を見たら、全部忘れてしまった。その表情には、何の偽りも無かったから。

 お礼がしたいから、明日も来て欲しいと言われた。

 僕の中にあるこの気持ちが何か、まだ分からない。

 だからあまり考えずに、もう一度彼女の所に行こうと思う。



 そういえば、彼女の名前をまだ聞いてなかった。』


 不思議な感覚だった。私は同じ記憶を持っているはずなのに、違う世界のお話を読んでいるみたいで。

 この先を読み進めてしまうのが、少し怖い。けれど、知りたい。

 この日記には、何が書かれているのか。

 彼は、何を考えていたのか。




『  五月十三日 晴れ

 約束通りの時間に、もう一度行ってきた。出会って早々、彼女に怒られたのには驚いた。

 けれど、一番驚いたのはそこじゃない。

 僕の耳が聞こえない事を、すんなりと信じてくれた。

 それだけじゃなくて、僕の人と普通に話せる力をすごいと言ってくれた。

 全部が初めてだった。ほとんどの人は信じてくれないし、数少ない信じた人も、哀れみや悲しみの目で僕を見てきた。

 だから、あれ程純粋に褒められたのは初めてだった。



 僕は、この力が好きじゃない。

 彼女は努力で手に入れた力だと言っていたけれど、そんな良いものじゃない。



 この力は、人の顔色を見続けて育ったものだ。

 出来るだけ痛いことが起こらぬように、人を不機嫌にしないように、都合のいい顔をし続けられるように。

 どんな手段を使ってでも、生き延びたいと願った結果の力だった。

 人に誇れる自信はない。

 だから、彼女の世界では、僕はまた違った人間に見えているんだろう。


 彼女の眼には、僕はどう映っているんだろう。


 そういえば、彼女の名前を聞いた。アイシェ・ルドリシアというらしい。

 どんな人なのかは、まだ分からない。

 けれど、どんな人であれ、忘れる事は無い名前だと確信してる。』




『  五月二十日 雨のち曇り

 今日はかなり動いたから、結構疲れた。最初はボードゲームをしていたはずだけど、途中からはクッションを避け続けるゲームに変わった。

 汗だくになりながら、今日は私の勝ちね、と誇らしげに言った。

 いまいち分からないけど、どうやら僕は負けたらしい。



 毎日ではないけれど、彼女に会いに行くのが習慣になっている

 この楽しい期間は、いつまで続くんだろう。


 僕は、いつまであそこに行っていいのかな。


 とりあえず、彼女にとって迷惑になったら、行くのをやめよう。』




『  五月二十四日 快晴

 今更にはなるけど、彼女はかなり美人だと気づいてきた。

 とても綺麗なのもそうだけど、どこか人間離れしている。

 前に、じいちゃんに彼女のことを話した。言い終わった後、そうか、と返事をしただけだけど、彼女のことは知っていたらしい。

 天使のような美しさだと、言っている人がいるらしい。

 凄く適切な表現だと思った。あくまで容姿は。

 どうかその人が、彼女の性格を知らないままでいてほしい。多分失神するから。

 後、出会えなくなる時を考えるな、とも言われた。そんなことは、今考えても仕方ないらしい。

 じいちゃんはよく、人の心を見透かしたような発言をする。すごい人だ』




『  六月十三日 曇り

 彼女のことがだいぶ分かってきた。

 まず、そこそこに我儘な事。

 なんでも気になってしょうがない性格だという事。

 裏表があまりない事。

 食べる事がかなり好きな事。

 意外と太るのを気にしたり、普通の女の子っぽい要素が多い事。最近は使用人の人に、この量のクッキーを一人で食べてると思われるのが嫌らしい。


 そして、とても心が綺麗な事。

 彼女の頭には、必要以上に相手を貶す考えも、人の善意に漬け込もうという考えも、おそらく無い。

 

 正直、我儘な性格と心の綺麗さは両立で出来るんだと思った。まさかこんな人もいたのは。かなり驚きだ。

 だから、彼女と話すのはとても楽しい。話すたびに小さな初めてがあって、それを見つけられるのが嬉しくて。

 けれど、それだけじゃこの楽しさを説明しきれない気がする。


 多分、それだけが理由じゃないんだろう。

 我ながら、単純な性格だ。

 この気持ちが、彼女にばれないことを願う。』




『  七月三日  嵐の前

 彼女を祭りに誘って、その誘いを受け取ってくれた。


 本当に嬉しかった。


 同時に、ひどく後悔もしている。


 これ以上彼女と関わるべきではないと、頭では分かっているはずなのに。


 とりあえず、約束はした以上、彼女を安全にあそこまで届ける。

 ひとまず今は、その為に準備しよう』


 


『  七月十三日 晴れ

 今日の為の準備はしたし、何度も予行練習をした。だから、僕自身は何も不安じゃなかった。

 けれど、彼女は違うだろうと予想していた。僕にとってはいつもしてる事だけど、彼女にとっては全部が初めてのはずだから。

 だから、いつもより少しおどけて説明をして、出来るだけ緊張を解そうとした。

 以外にも彼女は楽しそうで、あんまり怖がっている風には見えなかった。それを見た時、心配をし過ぎたかもしれないと考えた。


 けれど、いざ降りようとロープに手をかけた時だった。

 首にしがみついた彼女の腕が、少し強張った。

 背中から伝わる呼吸が、荒くなった。

 多分、僕の為に気丈に振舞ってくれていたんだろう。僕に心配をかけないように。

 大丈夫と、言った気がする。

 その言葉が、彼女に届いていたら嬉しい。』




『  七月十四日 明け方

今日、正確には昨日行った海の祭りで、僕は彼女の手を握り、ダンスへと誘った。深い理由は無く、ただ彼女と踊りたかったから握った。

 手を握った時、分かったことがある。



 彼女の手は、あまりに冷たく、細かった。



 少し力を入れるだけで壊れる、ガラス細工のような腕だった。

 今すぐにも壊れてしまいそうで、

 今すぐにでも倒れてしまいそうで、とても怖かった。



 それは、体が弱い証拠だった。

 体が弱いことを、許されている証拠だった。



 彼女の隣には、生活を脅かされる恐怖も、病気も、死も存在しない。

 僕とは文字通り、住んでいる世界が違う。

 その事実に、僕はやるせなさを感じてしまった。

 理不尽だと、憎んでしまった。


 そして何より、そう考えてしまった自分に絶望した。


 自分は、彼女の隣にいて良い人間なのか。

 そんな問いかけが、頭の中をぐるぐると回る。

 元々、彼女から距離を取るかずっと悩んでいた。

 けれど、離れないといけないなと、今日を過ごして決心がついた。


 彼女が意味もなく傷つかないように。

 わざわざ、人の醜い部分に触れることがないように。

 彼女に幸せになって欲しいと願うほど、僕という存在が邪魔だと思ってしまう。


 今日であそこに行く理由も無くなったから、もう出会わないでおこう。そう決めた時だった。彼女から演奏会の招待状をもらったのは。


あれほど強い思いで決めたはずなのに、

自分の中で、誓ったはずなのに、

 彼女から、正式な招待状をもらった。







 どうしようもなく、行きたい。』




『  七月十九日 雨

 何が正解か、分からない』




『  七月二十日 雨

行かなければよかったと、後悔してしまう自分がいる。こうなる可能性は予想できていた。全員が彼女のように、優しいわけじゃない。そう、分かっていたはずなのに。

 僕が行ったことで、彼女に迷惑が掛かっていないだろうか。悲しんではいないだろうか。どうかこれが、杞憂であることを願う。

 今日の結果がどうであれ、彼女から離れることは決めていた。だから、今からこの決断を変えることは無い。

 七月二十五日に、この町を出る。

 じいちゃんの知り合いの職人さんが、僕の目を気に入ったらしい。せっかくの機会だと思った。

 今から、少しづつ荷造りをしていく。』




『  最後に

 大分迷ったけれど、この日記を君に送ることにした。

 理由は、君の誤解を解きたかったから。

 僕はきっと、君が思うほどいい人間じゃないことを隠していたから。

 せめて最後くらいは、誠実でいようと思った。


多分、僕は君の近くにいてふさわしくない人間なんだろう。

君の近くにいるのが、わざわざ僕である必要は無い。


本当にごめん。

いろいろごめん。

本当に、楽しい数か月だった。


ありがとう。』




 読み終わった時には、大粒の涙が何度も目から零れてきた。彼の日記を汚さないよう服で拭うが、なかなか止まってくれない。

「……ずるい。ずるいよぉ」

 ひどい話だ。彼は私に、嘘をついていた。あれだけここに来て話したのに、隠していることがあった。


 世界のだれよりも、優しい嘘だった。

 私の幸福な時間は、その優しさの上に成り立っていた。


「本当に、ひどすぎる……っ」

 謝ることすらさせてくれない。あなたは何も悪くないと必死に伝えたい。けれど、私の声は届かない。彼がどこにいても、私の思いは伝えられない。

 ぼやける視界で、挟まっていた封筒を取り出す。中に入っていたのは折りたたまれた招待状。その端には、短い文章が書かれていた。


『せっかくもらった招待状を、君との約束を守れなくて本当にごめん。

 

 君のこれからの演奏と君自身に、幸福が訪れますように』


「……」

 日記からも、この招待状からも、彼と同じインクの匂いがする。

 きっと、肌身離さず持っていてくれたんだろう。招待状は折り目以外、皴も破れた後もない。それだけで、彼がこれをどのように持っていてくれたか分かる。

 彼がこの国を出るのは、明日。

 私が出来ることは、何だろう。

 音楽しかしてこなかった自分が、ヴァイオリンしかしたことがない私は、彼に何が出来る?

「……いや、違う」

 私が出来ることなんて、最初から決まっている。

 それが思い通りに行く保障はない。

 それでも、そう信じるしかない。

 今この場で出来るように、準備を進めていく。


 その選択は、間違いかもしれない。

 後悔をするかもしれにない。それは、とても怖い。

 けれど、後悔出来ないことを、後悔したくない。




  七月二十五日 旅立ち


この国を出るのは、だいぶ前に決まっていた。予定を随分と早めたけど。

 もし問題なくあれが届いたら。昨日くらいに彼女は中身を見ているのかもしれない。

 彼女はあれを見て、どう思ったのだろう。

 怒っているだろうか、それとも憎んでいるのだろうか。

 逃げるように立ち去る僕を、どう思うのだろうか。

「……これでいい」

 正解なんて分からない。だから、この選択を正解にするしかない。

 引っ張られそうになる背中を堪えて、無理やり前へと進んでいく。

 町並みは何一つ変わらずに、今日も賑わっている。身近な人にはある程度別れの挨拶はしたし、やり残したことは無い。

 下町はお世辞にも綺麗とは言えないけど、それでも今日にしがみ付くように、生き延びるようにと活気に満ちている。

 多分、僕がいなくてもこの町は何の問題もなく回る。僕はそれくらいちっぽけな存在だ。そんなちっぽけな歩幅で、どんどんと歩いていく。

 道を歩くときは、常に周囲を確認している。そうしないと、耳が聞こえない分、危険が来た時に気づけないから。もうそれは生まれた時からだから、疲れる感覚とかはあまりない。今日もいつものように、辺りを見渡す。



 そんな時だった。風が強く吹き出したのは。

 屋根につけられている風見鶏が、勢いよく回る。洗濯物が波のように揺れる。


 その時、周りに違和感を感じた。

 正確には、違和感を感じたことに違和感を感じた。


 見たところ、天気が荒れそうな気配も、身近に危険が潜んでいるわけでもない。それでいてなお、おかしなところがいくつかある。

 すれ違う人が、同じ方角を歩く人の足取りが、少しずつゆっくりになっていく。中には振り返る人や、完全に止まる人もいる。

 色んな家の窓が、少しづつ開けらていく。

 子供たちが一段と、楽しそうにステップを刻んでいる。

 八百屋のおじさんは、果物が転がっていく事を気にも留めない。

 少しずつ、しかしはっきりと、皆の目線が一つに集まっていく。ある人は体を揺らし、ある人は周りと会話を弾ませる。その顔は、どれも楽しそうだ。

 風が一段と強く吹く。



 その時に、ようやく気付いた。



 わずかに潮の匂いがするこの風が、何を運んでいるのかを。

 ここにいる人達が、もしくは、この町にいる全員が、この音を聞いている。



 彼女の音楽を、聴いている。


 ああ、こんなにも



「……こんなにも、綺麗だったんだ」



 その時初めて、僕は彼女の音楽を“聴いた”



 目から溢れる涙で、ろくに楽譜も見られない。部屋に響く音は、お世辞にも綺麗とは言えない。それでも決して、演奏する手を止めない。


 人は、何のために音楽を届けるのか。

その意味を、何度も考えたことがある。

 それは届ける人によって、演奏する曲によって、私自身によって姿かたちを変えていく。あまりにも深いテーマで、私もまだ答えを見つけられてない。


 けれど、今そんな事は考えていない。

 ただ彼に届けと、届いてほしいと願いながら、それだけの思いで弾いている。

メッセージも、私の言葉も、届かなくていい。

けれど、私の感情の一部が、ほんの一欠けらでも、彼の所まで辿り着いてほしい。


そう願って、願って、願い続けた。



気づけば演奏は終わり、部屋は一気に静寂になっていく。

 初めての感覚だった。演奏を終えて拍手も称賛の声も聞こえなかったのは。

 それでも不思議と寂しいとは感じない。



 風向きが変わり、潮の匂いを運んでくる。



 風が、頬を伝う涙を優しく飛ばしてくれた。




 どれくらい、その場に立っていただろう。

 曲が終わっても、人々が普段通りの生活に戻っても、僕は動けないでいた。

 不思議な感覚だった。決して耳が聞こえるようになったわけでもないし、この目でも、今見えるのはここ一帯の屋根だけだ。

 それでも僕は、確かに彼女の演奏を聴いた気がする。

「……行かないと」

 少し先にいる、じいちゃんを待たせるわけにはいかない。何とか理性を働かせて、無理やり足を進める。

 下り坂が終わる海岸沿いに、ようやく見知った人影を見つけた。

「おまたせ、じいちゃん」

「おう」

 堤防にもたれるように、じいちゃんはそこに立っていた。視線は海のほうを向いている。

「……いい演奏だったな」

 そう言いながら、じいちゃんはパイプを口に咥えていた。

「じいちゃん、タバコはやめろって医者に言われてたじゃん」

「そんなの、医者が勝手にほざいてるだけだ」

「ったく、本当に頑固なんだから」

 さすがに医者に同情する。

「それに、あんな良い演奏を聴いたら吸いたくもなる。お前も聴いてただろ?」

「じいちゃんからかってる? 俺耳が聞こえないんだよ」

「けど、お前は良い演奏だと感じた。違うか?」

「……」

 本当に、この人はすごいだ。人の心をいつでも見透かしてくる。

「ここに、帰ってくる理由が出来たな。アレ、お前の為の演奏だろう」

 心臓を直接掴まれた気分だった。そうかもしれないと思っていた事が、自分の考えが傲慢なだけだと思っていた事が、真実の可能性が出てきたから。

「……本当に、帰ってきてもいいのかな?」

「そんなのは知らん」

 ただ、といいながら、じいちゃんは灰を落とす。

「お前が謝りたいと思っているなら、もう一度会わなきゃいけねぇ。お前の為じゃなく、その子の為に」

「……うん」

「ほら、行くぞ。荷物は持ったか?」

「うん」

 鞄をかけ直し、もう一度振り返る。

 海岸の砂浜は太陽の光を反射して、きらきらと輝いている。出店の人たちは活気に溢れた表情をしていて、人の営みがそこにある。

 彼女がいるであろう方角を見る。随分と遠くまで来たからあの家は見えないけど、さっきの光景は鮮明に思い出せる。

 大きく息を吸って、覚悟を決める。


 もし、この全てが無駄になっても、

後悔することになったとしても、



それは、もう一度彼女に出会ってからでいい。


一歩目を踏み出す。

これは始まりだと、自分に言い聞かせるように

  



  アーロ暦 一〇三一年 

九月三十日 〇〇ホール


 その建物の内装には、特別目立つ要素がほとんどない。

 固定席やカーペットはすべて深みのある赤のシート、天井には必要以上に主張しないシャンデリア、壁や床には最大限に木製の素材を使っている。どこまでを統一感を大切にした内装は美しいとは感じても、心に残るほどではない。様式美にこだわった結果なのか、建築家が演者を邪魔したくないという配慮の表れなのか。理由は歴史とともに、大海へと流れてしまった。

 この特徴は舞台上にもよく表れている。

 ほとんどがオークで作られたステージは美しく手入れがされ、照明の光に心地よく反射する。琥珀色の輝きをまとい、今か今かと主を待っている。この煌びやかな舞台に、ふさわしい主を。

 もしくは、舞台は全てを待っているのかもしれない。

 人との触れ合いを、感動を、喜びを。

 この建物に意思があるなら、そんな出来事を偶然と片付け、結びつけるかもしれない。




 素晴らしい演奏が終わった後、様々な人が談笑をし、感想を言い合う。

「やはりいつ聞いても、彼女の演奏は素晴らしいですね」

「そうですなぁ。当初は演奏のし過ぎで倒れてしまうかと心配してましたが、むしろ以前よりも生き生きと演奏しておられる」

 会場の端の方で、そのような会話が聞こえた。一人はあまり特徴のないタキシード姿の中年男性。もう一人は絵本に出てくるような、立派な長い白髭を携えた老人。杖を突き腰は随分と曲がっているが、不思議と弱弱しさは感じない。

「私としては、以前のスタイルの方がより貴重で、まるで人ならざる者のような美しさを持っていると感じます。今が悪いというわけではありませんが、あまり演奏をし過ぎると価値が下がってしまわないかと不安です」

「ほっほっほ。気持ちは分からんでもないですが、私たちがそれを言うのは野暮というものでしょう」

 話し方は終始穏やかだが、その言葉にははっきりと老人の意思が乗っていた。

「なるほど、あなたが言うならそうなのかもしれませんね」

 ところで、と中年の男性は強引に話を変える。

「お弟子さんは最近、さらに好調のようですね。中々に評判の良い楽器を作っていると」

「そうですなぁ。もともとは古い友人の孫にあたるんですが、これが良い目を持っていてね。素材から製作まで抜け目がない」

「彼の能力もそうですが、やはりあなたの教え方が良いのでは?」

「それはどうでしょうなぁ」

 否定も肯定もせず、老人は白い髭を手で整える。

「そういった技術は、やはり門外不出ですか」

「いえいえそんな事は。ただ、彼の作り方はえらく“特殊”ですから、聞いたところで真似できる方法ではありませんよ」

「ほう、それほど独自性に溢れているとは」

 感心したように、なるほどと呟く。

「今日はそのお弟子さんもこの場に?」

「ええ、ですが人を探すと言ったきり、姿は見てませんねぇ」

「そうですか、ぜひとも彼に依頼をしたいと思っているのですが……」

「ほっほっほっ。では、今日中に見つかると良いですな」

 少しからかうように、老人は目を細めた。




 こういた人込みにも、体を縛るようなスーツ姿も、いまだに慣れない。

 自分がこの場所に溶け込めているか不安で、ここにいて良い自信もない。

 そんな時こそ、無理をしてでも背筋を伸ばす。たとえ嘘でも、堂々と立つ。

 すれ違う人たちに最低限の会釈をして、歩みを進めていく。その中で、一際集まっている空間があった。

 その中心にいる彼女は真っ白なドレスに身を包み、上品な笑みを浮かべながら楽しそうに話している。

 会場は次の準備に移り、彼らは名残惜しそうにその場を離れる。彼女も次の準備をするように、その場を離れようとする。



 その時だった。彼女と――アイシェと目が合ったのは。

 銀髪は前よりもさらに伸び、一層輝かしさを放っている。背丈はあまり変わっていないけれど、あの時よりも一段と大人になった容姿は妖艶で、見たものを引き付ける。

 そして、あの時と変わらない瞳をしていた。

 彼女がゆっくりと近づく。それに合わせるように、僕も彼女の元へ行く。

 最初に切り出したのは彼女からだった。 

「お噂はかねがね聞いてますわ。随分と目利きの良い弦楽器職人がいると」

 わざとらしい程の、他人行儀の話し方。

 多分、いや確実に、彼女は怒っている。



「ごめん、アイシェ」



「……それは、何に対して謝っているの?」

 その顔はさっきまでの仮面ではなく、よく知っている表情だった。

「まずは、君の招待状をちゃんと使えなかった事」

「……ほんとに。あの日どれだけ心細かったか」

「そして、君との約束を破った事」

「それもそう」

「後は、勝手に遠くに行っちゃった事」

「それが一番ひどいわ。何も言わずにどっか行っちゃうんだから」

 腰に手を当て、僕を睨みつける。

「本当に、ごめん」

「……どうして遠くに行っちゃったの?」

「君の隣に居たら、駄目だと思ってしまったから」

 言い訳も嘘も言わない。たとえ目を逸らしたい事実でも、正直に彼女に告げる。

「僕は、君を恨みたくはなかった。憎む気持ちをぶつけたくなかった。だから、そうならないように、成長したかった」

 最初は、もう会わないつもりでいたけど、あの演奏を聴いて、我儘になってしまった。


 また、君の隣に立てるように。

 今度は胸を張って、君の傍にいられるように。

「……それを、私にも言って欲しかった」

「うん」

「その悩みは、二人で一緒に乗り越えても良いはずだった」

「本当に、その通りだ」

 自分を許せないプライドが、腹の底に溜まった意地のようなものが、そうはさせなかった。

 こんなにも長い間、離れる必要もなかったかもしれない。

「本当に、全部ひどい」

「うん」

「……けど、わたしもごめん。あなたの事を、傷つけちゃった」

 その言葉は少し、意外だった。彼女に悪い所は一つもないと思っていたから。

「ずっと、謝りたかった」

 そういう彼女の顔は、今にも泣きだしそうだった。

「……じゃあ、僕は君に、ずっと辛い思いをさせてたんだね」

「うん……けど今謝れたから、もういい」

「そっか」

「後は、あなたが許してくれたら、もっと良い」

「最初から、君は悪くないよ」

 律儀というべきか、真面目というべきか。その性格に、思わず笑みが零れてしまう。

「その罪滅ぼしになるかは分からないけど、今日はいっぱい楽しませるよ」


 あの時と、全てが同じように出来るかは分からないけど。

 涙を拭いた彼女の顔は、僕がよく知っている顔だった。

「この演奏会って本当に欲張りでね。食事会も美術品の展覧もあるし、大道芸もあるの」

「本当に欲張りだね」

「そう。そして最後には舞踏会もあるの」

 言いながら、彼女は腕をそっと伸ばす。

「そういえば、まだ相手を探せてなかったのを思い出したわ」

「……僕でよければ、喜んで」

 彼女からの誘いの手を、丁寧に握り返す。

 その手には、確かなぬくもりと力強さがあった。あの時のように、いつ倒れてもおかしくない天使ではなく、温もりを持った人の手だった。

「ちゃんと、エスコートしてくれる?」

「耳が聞こえない分、人一倍練習したから大丈夫」

「あら、相手もいなかったのによく頑張れたわね」

 彼女はからかうように、心底楽しそうに聞き返す。

「確かに」

 そう言ってしばらくしてから、吹き出すように二人で笑ってしまった。何が可笑しかったかは分からない。

「ま、音楽は私が教えてあげるわ」

 優しく手を何度も握り、彼女はリズムを教えてくれる。



 僕は今、彼女から音楽を聴いている。



「うん、よろしく」

 舞台の準備が終わったのを確認して、彼女の腰に手を添える。彼女の動きが、息遣いが、より一層伝わってくる。

「……ふふっ」

「どうしたの?」

「少し寂しかったけど、やっぱりした。インクの匂い」

「え、ホントに?」

 適度に香水は付けてきたけれど、まだ不慣れな部分が出てしまった。

「ごめん。次からは気を付ける」

「ううん、服からじゃない」

 ここ、と言いながら、彼女の視点は僕の利き手に向いていた。その手にはきっと、これまで書いた日記と手紙の跡がついているんだろう。



 今がどうであれ、過去は変わらないし、捨てることもできない。僕の手に染み付いたインクも同じだ。

 けれどそれは多分、悪い事ばかりじゃないと思う。

 この過去が、彼女の記憶と結びついてくれたから。



「今度は私にも、お手紙を書いてくれる?」

 軽く首をかしげる姿は、どうしようもなく可愛かった。

「……いいや、君に手紙は書かない」

「どうして?」

「あの頃のように、君に会って直接伝えたいから。これからも、ずっと」

 一緒にいると、あの頃のように気持ちが溢れて仕方がない。この思いを、手紙で伝えきれる気がしない。

 アイシェは一瞬驚いた顔をしたかと思ったら、少し照れるように俯いてしまった。どうしてかと疑問に思い始めてようやく、自分が言った言葉がどう伝わったかを理解した。

「……今度は、私との約束破らない?」

 恥ずかしくて、この気持ちを誤魔化しそうになる。けれど多分、ここで伝えなかったら本当にダメだ。

「絶対に、破らない」

 お互いに目を離さない。それが何かの儀式であるように。誓いであるように。ただ真っすぐに、彼女を見つめる。

「……分かった。信じてあげる」

 安心したように、彼女は笑ってくれる。

「私も、あの時みたいに話したい」

「うん、そうしよう」

 彼女が手を再び握って、ダンスの始まりを教えてくれる。最初の一歩目を踏み出し、歩みを進めていく。


 

 今度は、二人で一緒に歩みを進めていく



現在カクヨムでも同じ作品を掲載しています。

また利用規約は一通り読みましたが、初めての利用の為、不慣れな部分があると思います。もし利用規約やマナーに反している箇所がありましたら、教えていただけると幸いです。

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