第1話:異世界転生、そして最弱の烙印
「くそっ、やられた……」
ルーク・アルマディアは額から伝う汗を拭いながら、自分の右手を見つめた。小さな火の玉が揺らめいていたが、それはあまりにも小さく、弱々しいものだった。ろうそくの炎ほどもない火の玉は、すぐに消えてしまう。
「はは、やっぱりダメか。ルークは本当に使えないな」
振り返ると、同じ魔導師の制服を着た少年たちが笑っていた。アルマディア家付属の魔法学園の練習場。十六歳の魔法使いたちが次々と華やかな炎を操る中、ルークだけが異質な存在だった。
「本当に大魔導師アルマディアの血が流れているのかよ」
その言葉に、ルークは何も返せなかった。彼らの言うことは間違っていない。アルマディア家は何世代にもわたり、王国屈指の魔導師を輩出してきた名家だ。現当主である父、グランド・アルマディアは「炎帝」の二つ名で知られる大魔導師。兄のマークスは若くして「炎の騎士」に任命された天才だった。
そんな家に生まれながら、ルークは魔法の才能に恵まれなかった。いや、正確には「どの属性にも微かな適性しか持たない」という、魔導師としては最悪の状態だった。
「もういい、帰るぞ」
ルークは練習用の魔導書を鞄に詰め込むと、誰にも目を合わせずに練習場を後にした。十八歳になろうとする今も、彼の魔法は初級レベルにさえ到達していない。
***
アルマディア家の屋敷は王都エルテミアの高級住宅街にあった。ルークは裏門から静かに屋敷に入り、できるだけ人目につかないよう自室へと向かう。
「ルーク様、お帰りですね」
廊下で出くわした老執事のジェラルドが声をかけてきた。家の使用人の中で、ルークに敬意を示すのはこの老人だけだった。
「ああ、ジェラルド。父上は?」
「大魔導師様は王宮におられます。明日の議会に向けた準備で」
「そう…」ルークは小さくつぶやいた。父と顔を合わせなくて済むならそれに越したことはない。
自室に入ると、ルークは扉を閉め、ベッドに倒れ込んだ。天井を見つめながら、彼は今日の失敗を反芻する。どうしてだろう。理論はわかっている。詠唱も間違っていない。魔力の流れも教科書通りだ。それなのに、魔法が思い通りに発動しない。
「このままじゃ本当に家から追い出されるかもしれないな…」
そんな不安を抱きながら、ルークは目を閉じた。
***
「佐藤君、まだ残ってたの?」
「ああ、プログラムのバグが取れなくて…」
佐藤遥人は目を擦りながら上司に答えた。終電の時間はとうに過ぎている。東京のIT企業でプログラマーとして働く彼は、新作MMORPGのデバッグに追われる日々を送っていた。
「クロニクル・オブ・アルカディア」。剣と魔法の世界を舞台にした大型オンラインゲームだ。彼はβテスト時代からのプレイヤーで、今は開発側として参加していた。
「タクシー代出しておくから、無理しないで帰りなよ」
「ありがとうございます。もう少しだけ…」
結局、彼が会社を出たのは午前3時を回っていた。雨が降り始め、足元は滑りやすくなっている。急いで駅前のタクシー乗り場に向かおうとした時だった。
「あっ…」
足を滑らせ、彼は車道に転倒した。前方からヘッドライトの眩しい光が迫ってくる。ブレーキ音、クラクションの音。だが全て遅すぎた。
痛みはなかった。ただ、意識が遠のいていくような感覚。
「ゲームオーバーか…」
それが佐藤遥人の最後の思考だった。
***
「…ク…ルーク様!」
誰かが呼ぶ声で、ルークは目を覚ました。ジェラルドが心配そうな顔で覗き込んでいる。
「大丈夫ですか?叫び声が聞こえたので…」
「叫び声?」
ルークは混乱した。確かに今、激しい頭痛と共に奇妙な夢を見ていた。車、光、そして衝撃。それらは全て見知らぬ記憶のようでいて、どこか懐かしい。
「大丈夫だ、ただの悪夢だよ」
老執事を安心させると、ルークは再び一人になった。しかし、頭の中は混乱していた。何かが違う。何かが決定的に変わってしまった気がする。
「俺は…佐藤…遥人?」
その名前を口にした瞬間、大量の記憶が洪水のように流れ込んできた。東京、会社、「クロニクル・オブ・アルカディア」、そして、事故。
彼はベッドから飛び起き、部屋の鏡台に駆け寄った。映し出されたのは、自分の姿ではなかった。栗色の髪に碧い瞳、整った顔立ちの少年。
「これは…転生?」
信じがたい現実に、彼は冷や汗を流した。だが、パニックになっている場合ではない。冷静に考えるんだ、と自分に言い聞かせる。
この世界、エルテミア王国。アルマディア家。そして魔法。これらの設定は、「クロニクル・オブ・アルカディア」のものとまったく同じだった。
「まさか、ゲームの世界に…?」
しかし、これがゲームそのものでないことは明らかだった。五感すべてがリアルに機能している。痛みも空腹も疲労も感じる。これは間違いなく「現実」だった。
ルークは深呼吸して、冷静に状況を整理した。彼は前世で「クロニクル・オブ・アルカディア」のトッププレイヤーの一人だった。ゲームに関する膨大な知識がある。もし本当にこれがゲームの世界と同じなら、それは大きなアドバンテージになる。
だが問題がある。このルーク・アルマディアという少年は「最弱の魔法使い」だという。魔法が使えなければ、この世界で生き抜くのは難しい。
「どうすればいいんだ…」
彼が途方に暮れていると、突然、視界の端に奇妙な光が現れた。それは青い四角形のウィンドウのようなもので、ルークにしか見えないらしい。
「これは…」
ウィンドウには文字が浮かんでいた。
【異世界転生を確認しました】
【特殊能力「ゲームマスター」発動条件が満たされました】
【能力の完全発動には追加条件があります】
【詳細は初級ダンジョンを攻略後に解放されます】
「ゲームマスター?」
ルークは混乱しつつも、興味を持った。これはチャンスかもしれない。前世のゲーム知識と、この「ゲームマスター」という能力。もしかしたら、これが彼の転生の目的なのではないか。
彼は窓の外を見た。朝日が昇り始めていた。明日からは本格的に、この世界で生きていくことになる。
「よし、やるだけやってみよう」
ルーク、いや佐藤遥人は固く決意した。「最弱」の烙印を押された少年の、異世界での新たな人生が始まろうとしていた。
***
翌朝、ルークは早めに屋敷を出た。目的地は王都近郊の「初心者の森」と呼ばれる場所。ゲームでいえばチュートリアルエリアだ。彼の記憶では、比較的弱いモンスターが出現し、初級の冒険者たちの訓練場になっている場所だった。
魔法学園には行かなかった。どうせ今の彼に魔法の練習は無意味だ。それよりも、「ゲームマスター」という能力の謎を解き明かしたかった。
街の東門を出ると、広い平原の向こうに森が見えてきた。その緑の風景は、ゲームでの記憶と重なった。
「本当に同じ世界だ…」
ルークはゲームの知識を総動員して、安全そうな場所へと進んだ。森の入口付近には、すでに何人かの初級冒険者たちがいた。剣や弓を持ち、モンスター退治の準備をしている。
その中で、ルークの姿は浮いていた。魔導師の制服を着ているが、武器らしい武器も持っていない。数人の冒険者が彼を怪訝そうに見ている。
「あれ、アルマディア家の落ちこぼれじゃないか」
声が聞こえた。ルークは無視して森の中へと入っていった。
森の中は薄暗く、所々で日光が差し込んでいる。遠くでモンスターの気配がする。ルークは慎重に進み、ゲームでの記念から、最も弱いモンスターが出る場所を探した。
そして見つけた。「グリーンスライム」。緑色の半透明の生物が、木の根元でうごめいていた。ゲームでは最弱のモンスターの一つだ。
「これなら…」
ルークは魔導師の基本、火の魔法を試みた。手をかざし、精神を集中させる。
「フレイム」
かすかな火花が指先に生まれたが、それだけだった。スライムは彼の存在に気づき、ゆっくりと近づいてくる。
「くそっ、使えないな…」
武器も持たずに来てしまったことを後悔したが、今さら引き返すわけにはいかない。ルークは周囲を見回し、太めの木の枝を見つけて拾い上げた。
「これで何とか…」
スライムが襲いかかってきた。ルークは枝で迎撃する。衝撃でスライムの体が揺れたが、大したダメージは与えられていない。
「やばい…」
次の瞬間、スライムが彼の足に絡みついた。粘液が服を溶かし始める。痛みと共に恐怖が襲ってきた。これはゲームではない。死ぬかもしれない。
その危機的状況で、ルークの視界に再び青いウィンドウが現れた。
【緊急時能力発動】
【対象の情報を解析します】
突然、スライムの上に情報が浮かび上がった。
【グリーンスライム Lv.1】
【HP: 15/15】
【攻撃力: 3】
【弱点: 火、衝撃】
【ドロップ: スライムの核(低確率)】
「これは…モンスターの情報?」
ルークは驚きながらも、その情報を活かした。弱点は火と衝撃。火の魔法は使えないが、衝撃なら…
彼は持っていた枝で、思い切り上から叩きつけた。前回よりも効果的に当たったようで、スライムの体が大きく揺れた。
【ダメージ: 5】
【残りHP: 10/15】
「よし!」
もう一度、同じ場所を狙って叩く。
【クリティカルヒット!】
【ダメージ: 8】
【残りHP: 2/15】
スライムの動きが鈍くなった。ルークは最後の一撃を加えた。
【ダメージ: 4】
【対象撃破!】
【経験値獲得: 5】
【アイテム獲得: スライムの核】
スライムが弾けて消えると、小さな緑色の球体が残った。ルークはそれを拾い上げた。
「スライムの核…」
ゲームでは初級アイテムの素材になるものだ。しかし今のルークにとっては、初めての戦利品だった。
彼は息を整えながら、状況を理解しようとした。「ゲームマスター」の能力は、この世界をゲームのように認識し、情報を可視化するものらしい。まだ完全には発動していないようだが、それでもこれは大きな武器になる。
「これなら…」
ルークは微笑んだ。魔法の才能はないかもしれないが、彼には前世のゲーム知識と、この特殊な能力がある。それを駆使すれば、この世界で生き抜くことができるかもしれない。
「よし、もっと狩りをしよう」
彼は森の奥へと進んでいった。「最弱魔導師」の異世界攻略が、ここから始まる。