起
谷主小太郎は26歳。黒髪は少し癖があり、特に手をかけずに無造作に整えている。落ち着いた顔立ちで、目立たないが親しみやすい印象を与える。彼はいつも紺色のシャツにグレーのスラックスという、シンプルで機能的な服装をしている。仕事は帝都のAIバランサー職。毎日がルーチンワークで、特に楽しみもなく淡々と過ごしている。
だが、彼の単調な日々に彩りを加えてくれるのが、親友の坂井誠だ。坂井はコタローと同い年で、背が高く、筋肉質な体型をしている。短いダークブラウンの髪はいつも整えており、爽やかな笑顔が特徴だ。今日は白いシャツに薄いブルーのネクタイ、黒いジャケットとパンツを合わせており、そのきちんとした身だしなみは職場でも一目置かれている。
朝の満員電車を降りたコタローがオフィスに向かうと、坂井は既にデスクに座り、コーヒーを片手にしていた。彼はニヤリと笑いながら、いつものようにコタローに声をかける。
「おい、谷主!また遅刻ギリギリじゃないか?お前、何でいつもこうギリギリなんだよ?少しは余裕を持てって」
「ギリギリって言っても、ちゃんと時間内に来てるだろ。それにしても、朝からそんなに元気なお前が不思議だよ。何か特別なドリンクでも飲んでるのか?」
コタローは苦笑しながら答えたが、坂井はすぐに話題を変えた。
「元気の秘訣?それはな、朝起きてまず鏡の前で笑顔の練習をすることだ!」
「それって、逆に疲れそうだな…」
「おいおい、冗談だって!でも、ほんとにやってるんだぜ?だってさ、笑顔って第一印象を左右するだろ?俺、昔はそんなこと全然考えてなかったけど、大学に入ってから意識するようになったんだよ」
「ふーん、意外だな。いつも冗談ばっかり言ってるから、そんなこと真剣に考えてたとは思わなかったよ」
コタローは驚きつつも、坂井の意外な一面に感心していた。坂井は笑顔を絶やさない性格だが、その背後には努力があったのだと知った。
「大学の時って言えば、俺たちが合コンに行った時のこと覚えてるか?」
坂井は懐かしそうに話し始めた。コタローもその話題に引き込まれる。
「合コンか…あの時、俺は全然喋れなくて、ただ座ってるだけだった気がする」
「お前、確かに無口だったな。俺が必死に場を盛り上げてたのに、お前はずっと無表情でさ。あの時、女の子たちから『何で無口な人と一緒なの?』って聞かれてさ、困ったもんだ」
「そりゃ、お前みたいにトーク上手じゃないし、どうやって話を振ればいいのかもわからなかったんだよ」
コタローは当時の自分を思い出し、少し恥ずかしそうに笑った。坂井はそれを聞いてさらに笑いが止まらなくなった。
「でもさ、あの時の女の子たち、最終的にはお前の方が人気だったんだぜ?」
「えっ?そんなことあったか?」
コタローは目を丸くして驚いた。坂井は得意げに頷いた。
「そうさ。お前が無口で落ち着いてる感じが、逆に『ミステリアスで素敵』って評判だったんだよ。俺は必死に笑いを取ってたけど、結局『真面目な人の方が安心できる』って言われてな。ちょっと悔しかったぜ!」
「そんなことが…でも、俺はその後も誰とも連絡取らなかったし、何もなかったよ」
「お前って本当に恋愛に対しても鈍感だよな。せっかくチャンスだったのに、逃してどうするんだよ」
坂井は呆れたように肩をすくめたが、コタローはそれを気にする素振りも見せなかった。
「鈍感って言われてもな…どうせ、俺にはあまり縁がない話だしさ」
「そんなこと言ってるからダメなんだって!もっと積極的にならなきゃ、いつまでも一人だぞ?」
「うーん、でもなあ…」
コタローが口を濁していると、その時、背後から冷たい視線が二人に向けられた。
「坂井さん、また無駄話ですか?」
桜井玲奈が冷静な声で二人に話しかけてきた。彼女は長い黒髪をきちんと整え、白いブラウスと黒のタイトスカートを着こなしている。淡いピンクのカーディガンを羽織り、その清楚な雰囲気は周囲の男性社員たちからも注目を集めている。
「おお、桜井ちゃん。いや、これも重要な会話さ。俺たちのコミュニケーションがチームワークを高めるんだよ」
坂井はにっこりと笑い、玲奈に向かって言い訳を始めた。玲奈は腕を組み、彼の言葉を冷ややかに聞いていた。
「コミュニケーションねぇ。でも、あまりにも仕事と関係ない話をしてると、周りに迷惑をかけますよ」
「いやいや、俺たち真剣に仕事のことを考えてるんだよ。ほら、今もエラーの解析をしてたところさ。なあ、谷主?」
坂井はコタローに助けを求めるように視線を向けた。コタローは困ったように頷いた。
「まあ、確かにエラーが出てたから、それをどう処理するか話してたんだよ」
コタローがそう言うと、玲奈はしばらく二人を見つめた後、ため息をついて言った。
「じゃあ、私が手伝ってあげますよ。どうせ、あなたたちだけじゃ解決できないでしょうし」
玲奈は言いながら、手早くキーボードを叩き始めた。その指の動きは滑らかで、彼女がいかにこの仕事に熟練しているかが一目で分かる。坂井とコタローは自然と彼女に頼るようになり、その姿に安心感を覚えた。
「さすが桜井ちゃん!頼りになるぜ!」
坂井は笑顔を浮かべながら玲奈を褒めたが、彼女は冷淡な声で返した。
「…そうですか。でも、頼りすぎるのはどうかと思いますよ」
玲奈は淡々とした表情を崩さないが、その言葉の奥にはほんの少しの満足感が感じられた。それに気づいたコタローは、微笑みながら心の中で「やっぱり、彼女も少しは嬉しいんだな」と思った。
坂井はその反応を見て、さらに話を広げようとした。
「そう言えばさ、桜井ちゃん、前に何か趣味があるって聞いたけど、何やってるんだっけ?」
玲奈は坂井の問いに一瞬戸惑いながらも、淡々と答えた。
「別に大したことはしてませんよ。ただ、本を読むのが好きなだけです」
「おお、本か!それは意外だな。どんな本が好きなんだ?」
「主にミステリーやサスペンスです。複雑なストーリーが好きで、推理するのが楽しいんです」
玲奈は淡々と答えたが、その瞳は少し輝いていた。コタローはその様子に気づき、坂井もすかさず食いついた。
「おお!ミステリーっていいよな!俺もよく読むぜ、特にあの…あれだ、なんとか・ホームズとか」
「シャーロック・ホームズですか?」
玲奈は少し微笑みながら問いかけたが、坂井は調子に乗りすぎたのか、言葉に詰まってしまった。
「そうそう、それだ!でも、俺が好きなのはあの…ほら、なんとか・クリスティだ!そう、アガサ・クリスティ!」
坂井が得意げに言うと、玲奈は呆れたようにため息をついた。
「坂井さん、それくらい常識ですよ。もし、それが冗談だったとしても、ちょっと笑えませんね」
玲奈の冷静なツッコミに、コタローは思わず笑いを堪えた。坂井は少し照れくさそうに笑いながら肩をすくめた。
「いやぁ、バレちゃったか。さすがだな、桜井ちゃんは」
「そんな簡単なこと、誰でも知ってますよ。…それに、坂井さんが本を読むってイメージ、あまりないですし」
玲奈はそう言い放ち、再びキーボードに集中した。コタローは坂井の肩を軽く叩いて慰めるように言った。
「まあ、坂井もたまには読書するんだよな。お前、前に『読む』って言ってたのは漫画だったけど」
「おいおい、漫画も立派な読書だぜ?俺、漫画でいろんなこと学んだんだぞ?例えば、友情とか、努力とか、勝利とか!」
坂井は堂々と胸を張ったが、玲奈は全く興味を示さず、淡々と仕事を続けた。
「友情、努力、勝利…それ、某有名週刊誌のテーマですね。まあ、否定はしませんが、あまり職場で言わない方がいいと思いますよ」
玲奈の淡々とした返答に、コタローは再び笑いを堪えた。坂井は少ししょんぼりしながらも、すぐにまた元気を取り戻した。
「でもさ、桜井ちゃん、俺たちみたいな凡人には、そういうシンプルなテーマが結構響くんだよ。お前も少しは気を抜いて、漫画でも読んでみたらどうだ?」
「ありがとうございます。でも、私はあくまでミステリー派ですので、漫画はあまり読みませんね」
「うーん、じゃあ、次の週末にミステリー小説をお勧めしてくれよ!俺も少し大人の読書をしてみるか」
坂井がそう言うと、玲奈は少し考えてから答えた。
「わかりました。でも、もしあなたが途中で飽きてしまったら、もう二度と私に読書のことを聞かないでくださいね」
「おう、約束だ!俺は最後まで読んでみせるぜ!」
坂井は自信満々に答えたが、コタローはそれを少し不安げに見守っていた。
「坂井、本当に読めるのか?ミステリーって結構難しいぞ?」
「お前な、俺を何だと思ってんだ?俺だって本気出せば読めるんだよ!」
坂井は胸を張って言い返したが、コタローはその言葉に若干の不安を覚えていた。玲奈はそれを冷静に見つめながら、淡々と仕事を続けた。
こうして、彼らの何気ない日常の中で、少しずつお互いの距離が縮まりつつあった。コタローはそんな二人を見ながら、心の中で「こうして話している時間が、案外悪くない」と思った。