14 家族は虐げるもの、他人は尊ぶもの
霊気が拡がるにつれて、親を失った子供達も増えていった。
その多くは生気を取り戻し、表情が活き活きとしていく。
霊気にさらされても生き延びた大人達は、そんな子供達を見て複雑な気持ちを抱く。
生まれてきた喜びを取り戻した子供達。
それを見て大人も胸をなで下ろす。
この子達は救われたのだなと。
同時に、やりきれない思いも抱く。
憤りや怒りという方が正確だろう。
子供達をここまで追い詰めた親に。
周りの大人に。
親としての義務を果たさなかった者に。
大人の勤めを放棄した者達に。
子供は親を選んで産まれてくるわけではないのだ。
宗教や思想・哲学では逆の事を言う事もあるようだが。
生まれてもいない、意思も心ももたない、存在すらしてない。
そんな子供がどうやって親を選ぶのか?
普通に考えたらそんな事ありえないと分かるだろう。
子供は、親が望んで作るものだ。
親が望まねば子供は出来ない。
少なくとも、ヤルことをヤッタから子供は出来たのだ。
そこにまだ生まれてない子供の意思や心がどうやって関わるのか?
出来るわけがない。
そうして望んで作った子供だから、親には養育する義務がある。
慈しむ義務がある。
子供が親に何かをする義務があるのではない。
親が子供を育てていく義務があるだけだ。
だが、子供が親を選んで産まれてくるという嘘がまかり通ってる。
となれば、親が子供を慈しむわけがない。
親が望んだわけではないのだから。
かくて子供への虐待が当たり前となる。
子供が悲惨な目にあっても言い分けが出来るからだ。
「だって、こいつが俺の所に勝手に来たんだろ」と。
児童虐待がありふれるわけである。
そして、親孝行という親への奴隷化がなされていく。
生き残った大人達はさすがにそんな事はしなかった。
ただ、子供達があわれだった。
「なんであんな目にあってたんだ」
そんな思いを抱く者達がほとんどである。
そんな事情をくむだけに、いわゆる家庭的な環境というのをもたらす事はなかった。
家庭的、家族というのは生き残った子供達にとって地獄でしかない。
そもそもとして家庭が良い環境なのかもあやしいものだ。
家庭や家族ほどいがみ合い憎みあうものもないのだから。
だかこそ、家庭内暴力、児童虐待が起こるのだから。
最も接点がある集団である。
その分、憎しみも怒りも最大限に増幅される。
人は知りもしない人間に憎悪を抱く事はない。
知ってるからこそ、殺意を抱くのだ。
会社などでも言えるだろう。
家庭的、という所ほど社員の扱いが酷い。
家族なら何をしても良いという考えがあるからだ。
だから家庭的な場所ほど、パワハラ・モラハラ・セクハラなどがまかり通る。
全てはたった一つの考え方による。
「家族だったら何をしても良い」
ならば他人行儀の方がよっぽど良い。
他人であるならば丁寧に扱うのだから。
これを代表する言葉がこれだろう。
「お客様は神様です」
お客という他人は神様としてもてなされるのだ。
だったら、互いに他人同士になった方がお互いをいたわるというもの。
慈しむというもの。
尊び重鎮として扱うというもの。
身内でいるよりよっぽど良い。
だからこそ子供達に家族を強制する事はない。
最悪に最悪を上塗りするだけだ。
保護のために近くに住むが、出来るだけ一人でいさせる事にしている。
これが今のところ一番良い方法だからだ。
下手に一緒にいたら、子供達は緊張する。
圧迫感を感じるといった方が良いだろうか。
気兼ねなく過ごすという事が出来ない。
子供達が平穏に日々を営むためには、周りに大人がいてはいけないのだ。
そんな子供達に大人を無理強いは出来なかった。
そして。
こんな子供がまだいるだろう。
そう思うからこそ、大人達も行動を続けていく。
霊気を阻むものを取り除き、少しでも霊気をひろげていく。
虐げられてる者達を救うために。
加害者を少しでも消すために。
でなければ被害者は延々と苦しむ事になる。
「もう、あんな子達を増やすわけにはいかない」
そんな思いが生き残った大人達を動かしていく。
彼等自身の生活のためでもあるが。
悲惨な境遇の者達を見て、それらを助ける事も行動の理由になっていた。
霊気は拡大していく。
多くの者を巻き込みながら。
その中で、虐げられてきた者達は救われ。
死ぬべき者達が苦悶の中で死んでいった。
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【よぎそーとのネグラ 】
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